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国際バカロレアDPでJapanese Aを選べる日本語は、どう育てる?

2026年10月29日

国際バカロレアDPでJapanese Aを選べる日本語は、どう育てる?|在外のお子さまが中学生までにしておきたいこと

IBDP - Japanese Aの準備は、IBの問題集を解くことから始まるわけではない 前回の記事では、IB Diploma Programme(DP)の言語選択について、Japanese A、English A、Language B、School-Supported Self-Taught(SSST)などの違いを取り上げました。 その中で一番お伝えしたかったのは、「日本人だからJapanese Aを選べる」とは限らない、ということです。家庭で日本語を流暢に話していても、Japanese Aでは文学作品やさまざまな文章を読み、分析し、自分の解釈や意見を根拠とともに文章や口頭で表現する力が必要になります。では、将来Japanese Aを選択肢として残したい場合、小学生や中学生のうちから何をしておけばよいのでしょうか。 ここで最初に強調しておきたいのは、中学生からIBの試験対策を始める必要はないということです。Paper 1の書き方を覚える。Paper 2の過去問を解く。文学用語を暗記する。そうしたことを早く始めるのが目的ではありません。むしろ大切なのは、もっと基本的なところです。 年齢相応の日本語の文章を読める。読んだ内容について「なぜそう思うのか」を説明できる。文章の中から自分の考えを支える部分を見つけられる。そして、自分の考えをある程度まとまった文章として書ける。こうした力を中学生までに少しずつ育てておけば、16歳になってDPへ進んだとき、Japanese A特有の学び方にも入りやすくなります。 Japanese Aでは、「読める」の意味が変わる IBのLanguage A: Literatureでは、SL(Standard Level)で7作品、HL(High Level)では10作品を学びます。単に作品を最後まで読むだけではなく、表現、構成、文脈、作者の選択などを分析し、それについて文章や口頭で考えを示します。Language A: Language and Literatureでも、SLでは4作品、HLでは6作品の文学作品に加え、さまざまな非文学テキストを扱います。 さらに現行の評価では、初めて見る文章をその場で分析するPaper 1、二つの作品を比較して論述するPaper 2、Individual Oralがあり、HLではHigher Level Essayも加わります。つまりJapanese Aでいう「読める」は、 「漢字が読める」 「内容が分かる」 だけではありません。例えば小説を読んで、「主人公は最後に考え方を変えた」と理解できるところから、 「なぜ作者は、この場面の前後で主人公の描写を変えたのか」 「その変化は作品全体のテーマとどう関係しているのか」 「それを文章中のどの表現から説明できるのか」 まで考えていく必要があります。 もちろん、小学生や中学生にいきなりIBレベルの文学分析を求める必要はありません。しかし、「何が書いてあった?」で終わらず、「なぜ?」「どこからそう思った?」まで考える習慣は、もっと早い時期から作ることができます。 まず必要なのは、年齢に合った文章を最後まで読む力 在外のお子さまで最初に難しくなりやすいのは、文学分析以前に、年齢相応の日本語の本を一冊読み通すことです。 学校では英語やオランダ語で毎日文章を読んでいる一方、日本語では漫画や短いSNS、家族からのメッセージくらいしか読まないということも珍しくありません。すると、日本語自体は流暢に話せても、数十ページ、100ページと続く文章を日本語で追い続けることに慣れていない、という状態が起こります。 ここで大切なのは、いきなり「中学2年生だから中学2年生向けの名作を読ませる」と考えないことです。 これまでの記事でも書いてきましたが、在外のお子さまの場合、本人の知的な興味と、日本語で無理なく読める文章のレベルが一致していないことがあります。内容としては中学生向けのテーマに興味があるのに、日本語では小学校高学年向け程度の文章の方が読みやすい、ということもあります。 その場合には、まず本人が「読みたい」と思えるテーマを優先しながら、日本語で一冊読み切る経験を増やす方がよいと思います。 2025年に発表された427人の日本語継承語話者を対象とした研究でも、日本語での読書や作文、宿題などを含む読み書きの経験は、日本語の語彙力との関連を示す重要な要素の一つでした。家庭で日本語を話していることだけでなく、日本語を文字として使う経験にも意味があることが示されています。ですからJapanese Aを将来考えるとしても、最初にやるべきことはIB対策ではなく、日本語で読むことを日常から消さないことだと思います。 もし今、日本語の本をほとんど読んでいないなら ここまで読んで、「うちの子は、もう日本語の本をほとんど読んでいない」、「勧めても『日本語は面倒』と言われてしまう」と感じたご家庭もあるかもしれません。 実際、小学校高学年から中学生にかけて日本語の読書が途切れるのは、在外家庭ではとてもよくあることです。学校の課題は英語や現地語で増え、友達との時間も増え、日本語の本はどうしても後回しになります。 その場合、まず目指したいのは「年齢相応の本を読ませる」ことではなく、日本語で読むことへの抵抗を下げることです。 例えば、本人がすでに英語で読んで好きだった作品の日本語版を手に取ってみる。アニメや映画で知っている作品の原作を読んでみる。サッカー、ゲーム、料理、動物など、本人の興味がある分野のノンフィクションや短い読み物から始める。漫画も、日本語の文字に触れる入口としては十分に意味があります。 この段階では、読み終えたあとに内容を確認する質問をしすぎない方がよいと思います。「読んだら試される」と感じると、日本語の本はさらに遠ざかります。最初は「面白かった?」くらいで十分です。 もう一つ大切なのは、中学生になってから再開しても遅すぎるわけではないということです。会話の日本語が残っている子どもは、読む量が戻ってくると語彙や読む速さも比較的早く戻ってくることがあります。ただし、それには一定の期間が必要です。DP直前ではなく、気づいた今から少しずつ始めることに意味があります。 家庭だけでは読む時間を確保しにくい場合には、日本語で本を読むこと自体を習慣にできる場を外に持つのも一つの方法です。私たちの「読書で育てる国語力」のクラスでも、教室の中で実際に本を読む時間を取り、そこから語彙力、読解力、読む速さを少しずつ育てています。 「あらすじ」から「なぜそう思うのか」へ進む 本を読んだ後に、「何が書いてあった?」と聞くと、内容を説明できる子はたくさんいます。 これは大切な力です。 しかし、中学生くらいから少しずつ、その先へ進めてみてもよいと思います。例えば、 「この中で一番印象に残った場面は?」 「どうしてそこが印象に残った?」 「主人公は、なぜその行動をしたと思う?」 「別の登場人物から見たら、この出来事はどう見える?」 「その考えは、文章のどこから分かる?」 といった問いです。 ここで重要なのは、正解を当てさせることではありません。自分の考えを出し、その理由を言葉にすることです。さらに、その理由を本文の中から探すようになると、「私はこう思う」だけだったものが、「私はこう考える。なぜなら、この場面で登場人物がこう言っているから」へ変わっていきます。 これはJapanese Aだけに必要な力ではありません。学校でのエッセイ、ディベート、プレゼンテーション、大学でのレポートなど、さまざまな学習へつながる力です。 「感想を書く」から、「考えを組み立てる」へ 日本語の作文というと、「夏休みの思い出」「遠足の感想」「本を読んでどう思ったか」といったものをイメージすることがあります。もちろん、こうした作文にも意味があります。 しかし中学生くらいからは、少しずつ自分の意見を構造化する文章にも触れていった方がよいと思います。例えば、「学校では宿題を減らすべきだと思いますか」という問いについて、「私は減らした方がいいと思います。大変だからです。」で終わるのではなく、 「私は宿題を減らすべきだと考える。理由は、量が多すぎると自分で学習方法を選ぶ時間がなくなるからだ。例えば……」 と、意見、理由、具体例をつなげていく。 反対に、「宿題には学習習慣を維持するメリットもある」 という別の立場についても考える。 こうなると作文は、単に日本語を書く練習ではなく、考えを整理する練習になります。 在外の日本語継承児童の作文発達を小学校4年生から中学3年生まで追った事例研究でも、日本語の語彙や漢字表現には難しさが残る一方、接続表現や文章構造、論理的なまとまりは発達していく様子が報告されています。 この研究は一人の子どもを追跡した事例なので一般化はできませんが、非常に興味深い点があります。それは、漢字や語彙が完璧でなくても、文章を構造化して考えを伝える力は育てられるという点です。 Japanese Aを意識する場合も、漢字の正答率だけを追うのではなく、「この子は日本語で一つの考えを最後まで組み立てられるか」を見ていくことが重要だと思います。 漢字を全部書けることより、文章を読んで考えられること 在外のお子さまの日本語教育では、どうしても漢字が目立ちます。 学年配当漢字を何字覚えたか。   漢字テストで何点取ったか。  日本の同学年と比べてどこまで進んでいるか。 もちろん漢字は、日本語を読むうえで重要です。ある程度の漢字が読めなければ、年齢相応の文章にアクセスすること自体が難しくなります。ただ、Japanese Aを考えるときに、「小学校6年生までの漢字を全部書けるから大丈夫」とも言えません。 逆に、漢字の手書きに多少苦労していても、文章を読み、意味を理解し、その内容について深く考えられるお子さまもいます。 私は、在外のお子さまについては特に、「漢字を書く力」と「日本語で学ぶ力」を分けて見ることが大切だと思っています。スマートフォンやコンピューターで文章を書くことが増えた現在、漢字を手書きできることだけが日本語の読み書きの力ではありません。もちろん書字を完全に捨てる必要はありませんが、限られた学習時間の中で、  漢字ドリルを30分増やすのか。 それとも、日本語の本を30分読むのか。 文章について親子で話すのか。  短い意見文を書くのか。 という選択になった場合、Japanese Aにつながる力という観点では後者にも大きな意味があります。 小説だけ読んでいればよいわけでもない Japanese Aと聞くと、「文学をたくさん読ませなければ」と考えるかもしれません。確かにLanguage A: Literatureでは文学作品が中心です。しかしLanguage A: Language and Literatureでは、文学作品だけでなく、さまざまな非文学テキストも扱います。現在のコースでも、文章の目的、読者、文脈などを意識しながら、テキストがどのように意味を作っているかを批判的に読むことが重視されています。 ですから、中学生の段階では小説だけでなく、  ニュース記事 エッセイ 人物のインタビュー 科学や社会についての説明文 広告 新聞のコラム といった文章にも日本語で触れるとよいと思います。 例えば、同じニュースについて二つの記事を読んで、 どちらの記事の方が肯定的に書いている? 「タイトルの付け方はどう違う?」 「誰に読んでもらうことを想定していると思う?」 と話してみる。 これだけでも、文章を「情報の入れ物」として読むところから、書き手の意図や表現まで考えて読む方向へ少しずつ進むことができます。 「二つを比べる」経験も増やしてほしい Japanese AのPaper 2では、二つの作品をもとに比較論述を行います。もちろん、中学生にPaper 2の練習をさせる必要はありません。ただ、「一つについて考える」だけでなく、二つを比べる経験は早めに作ることができます。 例えば、同じ戦争を扱った二つの作品 同じスポーツ選手について書かれた二つの記事 同じニュースを報じる二つの新聞 同じテーマについての賛成・反対の意見 こうしたものを読み、 「共通しているところは?」 「違うところは?」 「なぜ違うと思う?」 「どちらの方が説得力がある?」 と考えてみる。この「比較する」という作業は、思っている以上に高度です。一つ目の文章を理解し、二つ目も理解したうえで、両者の共通点と相違点を抽象化しなければならないからです。この力はIBだけではなく、大学で資料を比較したり、社会の中で複数の意見を判断したりするときにも必要になります。 口頭で「きちんと説明する」経験も必要になる 在外のお子さまで見落とされやすいのが、日本語でフォーマルに話す経験です。家庭では日本語を流暢に話していても、会話の相手は家族です。「あれさ、今日学校でさ……」と言えば、親は背景を知っていますし、「○○君のこと?」と補ってくれます。 でも、Japanese AのIndividual Oralのような場では、相手が補ってくれることを前提にはできません。自分で話の順序を作り、必要な背景を説明し、分析した内容を筋道立てて伝える必要があります。Language Aのコース自体も、書くだけでなく口頭で分析や考えを表現する力を重視しています。 ですので中学生くらいから、時々、 「その本について、読んでいない人にも分かるように3分で説明してみて」 「あなたの意見と、その理由を説明して」 というような機会を作ることにも意味があります。  日本語でプレゼンテーションをする。   家族に本を紹介する。 日本の祖父母に学校で学んだことを説明する。 テーマを一つ決めて短いスピーチをする。 大げさな授業にする必要はありません。家庭会話以外の日本語を使う場所を作ることが重要なのだと思います。 中学生のうちに、どこまでできればよいのでしょうか ここまで読むと、「では中学3年生までに、どのレベルまで行けばJapanese Aを取れるのですか?」と思うかもしれません。 残念ながら、これには明確な点数や学年基準はありません。IBにも、「中学生でこの漢字が読めればJapanese Aに進める」「800字書ければ履修できる」といった基準はありません。また、学校によって履修判断も異なります。 ですから、私はJapanese Aの準備を一つのテストで判断するのではなく、いくつかの力の組み合わせとして見るのがよいと思っています。 例えば14~15歳くらいになったとき、年齢に大きく外れない日本語の本を一冊読み通すことができ、その内容について自分の考えを説明できる。文章の中から、その考えを支える部分を探せる。社会的なテーマについて、自分の意見、理由、具体例をある程度まとまった文章にできる。そして一つのテーマについて、数分間、日本語で順序立てて説明できる。 これらがすべて完璧である必要はありません。むしろ、 読む力はかなりあるけれど、書く経験が少ない 会話は強いけれど、文章になると語彙が足りない 作文はできるけれど、日本語の本をほとんど読んでいない というように、その子なりの得意・不得意の形が見えてくるはずです。 語彙や読解の現在地を客観的に知りたい場合には、私たちの教室で行っている読書指数診断のような測定も、一つの材料になります。Japanese Aへの適性を判定するものではありませんが、家庭での印象だけでは見えにくい部分を確認できます。そこが分かれば、残りの1~2年で何を補えばよいのかを考えられます。 Japanese Aを目指さない家庭にも、同じ力には意味がある ここで一つ誤解してほしくないことがあります。この記事は、「在外日本人ならJapanese Aを取るべき」という話ではありません。 English Aを選ぶ家庭もありますし、日本語は家庭言語として残し、学校教育は英語を中心に進めるという選択もあります。それは十分に合理的です。またJapanese Aを選ばないから、日本語教育に失敗したということでもありません。 ただ、ここまで取り上げてきた、  日本語で年齢相応の文章を読む 内容について考える 自分の意見と理由を説明する 文章を書く 複数の情報を比較する という力は、Japanese Aを履修しなくても無駄にはなりません。 将来日本の大学へ進む 日本語で仕事をする 日本のニュースや本を読む 日本に住む 家族や社会と日本語で複雑な話をする そうした場面で使える力だからです Japanese Aは、その力をどこまで育てるかを考える際の、一つの具体的な将来像として捉えるくらいがよいと思います。 親がJapanese Aの先生になる必要はない では、家庭では毎日本を読ませ、作文を添削し、文学について質問し続けなければならないのでしょうか。私はそうは思いません。親が先生になりすぎると、日本語そのものが「勉強の言葉」になってしまうことがあります。 親にできる最も大きなことは、日本語を使う材料と機会を用意することだと思います。本人が興味を持ちそうな本を家に置く。日本語で読めるニュースを送る。一緒に映画を見て感想を話す。「それはなぜ?」と、ときどき聞いてみる。日本の家族と少し深いテーマについて話す機会を作る。 時間の目安としては、毎日長時間取り組む必要はありません。例えば週に数回、1回20~30分ほど日本語で読む時間があるだけでも、まったく読まない状態とは大きく違います。大切なのは量よりも、日本語で読むことが途切れないことです。 また、国際結婚などで日本語を話す親が一人だけの家庭や、仕事で時間を取りにくい家庭もあると思います。その場合は、すべてを家庭の中で完結させようとしなくて大丈夫です。日本の祖父母とのオンライン通話、補習校や日本語の教室の友達など、家庭の外に日本語を使う相手や場所を持つことも、立派な環境づくりです。 そして、本格的に文章の読み方や書き方、考えの組み立て方が必要になった段階では、学校の先生や専門の指導者に任せる。家庭は日本語を育てる環境を作り、教育者は技術を教える。そのくらいの役割分担でよいと思います。 私たちの教室でも、この記事で書いてきた「読む」と「考えて表現する」を、二つのクラスに分けて育てています。小学生から高校生を対象とした「読書で育てる国語力」では、教室で実際に本を読み、語彙力、読解力、読む速さを伸ばしながら、論理的に考えるための土台となるインプットを育てます。そのうえで中学生も対象としたロジカルシンキング教室では、読書で得た語彙力や読解力をもとに、意見と理由を組み立てて書く、異なる立場を比べる、人に分かるように説明するといったアウトプットを練習します。小学生のお子さまには、考える・話す・書く力を少人数で育てる「日本語での表現クラス」もあります。 SSSTを考えている家庭ほど、早めに自立した読書力を 前回の記事で触れた通り、学校にJapanese Aがない場合、Language A: Literature SLであればSchool-Supported Self-Taught(SSST)という選択肢があります。ただし、SSSTはSLのみであり、学生には学校と外部の指導者による支援が必要です。IBのガイドでも、SSSTの学生は通常のSLと同じ基本的なシラバス要件を満たすことが求められています。これは「先生がいないから簡単なJapanese A」という意味ではありません。 むしろ日本語の授業が学校内に通常の形で存在しない分、自分で作品を読み、課題を進める力がより重要になる場合があります。そのため将来SSSTの可能性があるご家庭ほど、中学生のうちから、「日本語の本は、誰かに読めと言われなければ読まない」という状態から、自分で日本語の本を読み、自分で内容について考えられる状態へ少しずつ移していく意味があります。 「Japanese A対策」ではなく、日本語を年齢と一緒に育てる ここまでJapanese Aについて書いてきましたが、結局のところ、特別なことを言っているわけではありません。 小学生のときには、小学生なりの本を読む。中学生になったら、中学生なりのテーマについて読む。少しずつ、感想だけでなく理由を説明する。自分と違う意見も読む。文章を書く。人に分かるように説明する。つまり、本人が成長するのと一緒に、日本語でできることも成長させていく。それだけです。 在外のお子さまの場合、学校で使う英語や現地語は、学校生活とともに自然に年齢相応へ引き上げられていきます。Grade 6になればGrade 6の文章を読み、Grade 8になればGrade 8のエッセイを書きます。 しかし日本語は、家庭で会話しているだけでは、同じ仕組みが自動的にはありません。だからこそ日本語については意識的に、「今、この子は13歳だけれど、日本語でも13歳らしいことを読んだり考えたりしているだろうか」と、ときどき確認してみる。私は、それが一番大切なのだと思っています。 そのうえで、DP開始の1~2年前になったら、学校のDP CoordinatorやLanguage A担当者に相談し、現在の日本語でJapanese Aが現実的なのか、SLとHLのどちらが適切なのか、学校にJapanese Aがあるのか、SSSTになるのか、何を補強する必要があるのかを確認する。15~16歳になって初めて「日本人だからJapanese Aにする?」と考えるより、その方がずっと本人に合った選択ができます。 Japanese Aを選べるかどうかは、その結果の一つにすぎません。選ばなかったとしても、それまで育ててきた日本語が無駄になることはありません。日本語で本を読み、考え、書き、人に説明できる力そのものが、その子に残ります。 これまでこの連載で何度も書いてきた、「日本語を維持する」のではなく、「本人の年齢と一緒に日本語も成長させる」。IBのJapanese Aという進路を考えると、その意味がさらに具体的に見えてくるのではないでしょうか。 参考資料 International Baccalaureate, Language A: literature International Baccalaureate, Language A: language and literature International Baccalaureate, Examiner Instructions 2026 — Language A International Baccalaureate, Language A: literature guide Kubota, M. & Rothman, J. (2025), Modeling individual differences in vocabulary development: A large-scale study on Japanese heritage speakers, Child Development, 96(1), 325–340. 外山千咲・柴山真琴・高橋登・池上摩希子(2019)「継承日本語学習児における二言語作文力の発達過程」『日本語教育』172, 102–117.

IBでは二言語必要?|在外日本人家庭がDP進学前に知っておきたい言語選択

2026年10月13日

IBでは二言語必要?|在外日本人家庭がDP進学前に知っておきたい言語選択

「日本人だからJapanese A」「インター校だからEnglish A」とは限らない 前回の記事では、IB Diploma Programme(DP)では教科の難しさだけでなく、自分で課題を管理し、調査し、文章を書き、複数の締め切りを同時に管理する力が求められるため、高校から突然DPへ進む場合には、学習方法そのものへの準備が必要だと書きました。 そして、在外日本人家庭がDPを考える際には、もう一つ早い段階から考えておいた方がよいことがあります。それが言語の選択です。 「インター校に通っているからEnglish Aでいいのでは?」「日本人なのだからJapanese Aを取ればいい」「IBでは第二外国語が必須らしい」といった話を聞くことがありますが、DPの言語選択はそれほど単純ではありません。 特に海外で育つ日本人のお子さまの場合、家庭では日本語を流暢に話し、学校では英語で学んでいるというケースが少なくありません。そのため、一見すると「日本語も英語もできるから問題ない」と思えます。しかしDPで問われるのは、日常会話ができるかだけではなく、その言語で複雑な文章を読み、分析し、根拠を示しながら自分の考えを論理的に表現できるかという力です。 ここでも、これまでこの連載で繰り返し考えてきた「話せる言語」と「学べる言語」は必ずしも同じではない、という問題が出てきます。 DPでは、本当に二言語必要なのでしょうか 結論から言うと、DPでは少なくとも二つの言語を学びます。IBでは、Studies in Language and Literatureから少なくとも一つの言語科目を履修し、さらに別の言語を学ぶことが求められています。一般的には、もう一つをLanguage Acquisitionから選びますが、異なる二言語でStudies in Language and Literatureを二科目履修することで、第二言語の要件を満たすこともできます。 例えば、English AとFrench Bという組み合わせもあれば、English AとJapanese Aという組み合わせも可能です。 ここで一つ区別しておきたいのが、「DPで二言語を学ぶこと」と「Bilingual Diplomaを取得すること」は別の話だという点です。 Bilingual Diplomaは、異なる二つのLanguage AでそれぞれGrade 3以上を取得する場合、またはLanguage Aとは異なる言語でIndividuals and SocietiesやScienceの対象科目を履修し、所定の条件を満たした場合などに授与されます。単に二言語を履修しているだけで、自動的にBilingual Diplomaになるわけではありません。 Bilingual Diplomaを取ること自体を目標にする必要もありません。大切なのは、その科目構成が本人の言語力と将来の進路に合っているかどうかです。 Language Aは「国籍の言語」を選ぶ科目ではない 在外日本人家庭にとって、最も誤解が起きやすいのがLanguage Aだと思います。 Language Aという名前を見ると、「母語」や「国籍の言語」のように感じるかもしれません。しかしIBは、Studies in Language and Literatureを、Academicに十分な能力を持つ言語で履修する科目として位置づけています。 Language A: Literatureでは文学作品を読み、表現、構成、視点、文脈などを分析し、自分の解釈を文章や口頭で論理的に示します。Language A: Language and Literatureでは、文学だけでなくさまざまな種類のテキストを扱い、言葉がどのように意味を生み、社会や文化と関係しているのかも考えます。 Japanese Aには現在、Language and LiteratureとLiteratureの両方があり、SL・HLの双方が設定されています。またJapanese BもSL・HL、Japanese ab initioはSLとして用意されています。 したがって、「日本人だからJapanese A」という決め方は必ずしも適切ではありません。 家庭で日本語を話していることは大きな土台ですが、Japanese Aで必要になるのは、それに加えて日本語で高度な読み書きと分析ができることです。 同じことはEnglish Aにも言えます。インターナショナルスクールに何年も通い、友達と自然に英語で話し、普段の授業を英語で受けられることと、初めて読む文学作品や複雑な文章を分析し、根拠を示しながら論を構築することは同じではありません。 EALを卒業していることとも別です。 つまり、Japanese AとEnglish Aのどちらを選ぶかを考えるときに見るべきなのは、「どちらを流暢に話すか」だけではなく、どちらの言語なら高度な文章を読み、分析し、書けるのかという点です。 Japanese Aでは、実際に何をするのでしょうか ここは、具体的に見た方が分かりやすいと思います。 現行のLanguage Aの評価では、Paper 1、Paper 2、Individual Oralがあり、HLではHigher Level Essayも課されます。 Paper 1では、事前に学習していない文章が提示され、その場で文章を読み、作者の表現や構成がどのように意味を作っているのかを分析して論述します。SLでは二つの文章から一つを選んで分析し、HLでは二つの文章について分析します。つまり、「文章の意味が分かった」だけではなく、なぜそのように書かれているのか、それが読者にどのような効果を生んでいるのかまで考える必要があります。 Paper 2では、授業で学んだ二つの文学作品を使い、提示された問いに対して比較論述を行います。二作品のあらすじを説明するのではなく、内容や形式、作者の選択などを比較しながら、一つの論として文章を組み立てることが求められます。 さらにIndividual Oralでは、作品やテキストについて分析した内容を口頭で論理的に提示します。HLではこれに加えてHigher Level Essayがあります。 こうして具体的に見ると、「日本語で家族と問題なく会話できる16歳」と、「Japanese Aで学べる16歳」の間に、どのような違いがあるのかが見えてきます。 例えば、祖父母や友達とは日本語で自然に話せる一方、日本語の小説をほとんど読んでおらず、評論や説明文にも触れていない。また、日本語である程度まとまった文章を書き、自分の考えを根拠とともに論述した経験もほとんどない、というお子さまの場合、会話力が高くてもJapanese Aには別の準備が必要でしょう。 これは、この連載の以前に取り上げた「『日本語を話せる』と『日本語を読める・書ける』は別の力」という問題が、DPでは非常に具体的な形で現れる例だと思います。 Language Bは「簡単なLanguage A」ではない もう一つ誤解されやすいのがLanguage Bです。 Language Bは、Language Aを少し簡単にした科目ではありません。すでにある程度学習経験のある言語をさらに伸ばすためのLanguage Acquisition科目で、SLとHLがあります。HLではSLより高い言語運用能力が求められ、文学作品も扱います。 一方、Language ab initioは、その言語を全く、またはほとんど学んだ経験のない学生を対象にした科目で、SLのみです。IBも、すでに日常的な話題について聞いたり読んだりして理解・応答できる学生をab initioへ配置することは、適切なAcademic Challengeにならないとしています。 したがって、「Japanese Aは難しそうだからJapanese ab initioにすればいい」という選び方が自由にできるわけではありません。 どのレベルが適切なのかは、国籍ではなく、それまでの学習歴や実際の言語能力を踏まえて学校側が判断します。在外日本人のお子さまで日本語が家庭言語になっている場合、Japanese Bやab initioを当然に選択できるとは限らないという点には注意が必要です。 学校にJapanese Aがない場合――SSSTには重要な制限がある 在外日本人家庭で実際に起こりやすいのが、「本人には日本語力があるけれど、通っている学校ではJapanese Aを開講していない」という問題です。 その場合、学校によってはSchool-Supported Self-Taught(SSST)という仕組みを利用できることがあります。 ただし、ここには非常に重要な制限があります。 SSSTで履修できるのはLanguage A: LiteratureのSLのみです。 HLでは利用できず、Language A: Language and LiteratureにもSSSTは適用されません。IBのLanguage A: Literatureガイドでも、SSSTの対象はSLのみと明記されています。また、学校側にはSSSTの学生を支援する体制を用意することが求められます。 つまり、学校にJapanese Aの授業がなく、将来Japanese A HLを取りたいと考えている場合、「SSSTで対応すればいい」というわけではありません。 また、外部の日本語教師を家庭で探し、その先生から授業を受ければ自動的にIBのJapanese Aとして認められる、という仕組みでもありません。SSSTはあくまでIB World Schoolが制度として支援する科目です。 そのため、Japanese Aを将来の選択肢として考えているのであれば、DPが始まる直前ではなく、中学生のうちから学校のDP Coordinatorに、Japanese Aを開講しているか、SL・HLのどちらがあるのか、SSSTに対応しているか、必要な外部支援や追加費用があるか、といった点を確認しておくことをおすすめします。 日本の大学へ進学する場合、Japanese Aが実際の出願条件になることもある IBの言語科目は、Diplomaを取るためだけに選ぶものではありません。その先の大学入試にも関係する場合があります。 在外日本人家庭にとって特に知っておきたいのが、日本の大学へ進む可能性を残す場合です。 例えば、国際基督教大学(ICU)の2027年度総合型選抜「IBDP利用」では、IB Diplomaの取得・取得見込みに加えて、「日本語A」を履修済み、または履修中であることが条件になっています。さらに第二次選考では、日本語・英語を用いた面接やプレゼンテーションが行われます。 一方、東京学芸大学の2027年度国際バカロレア選抜では、出願資格を「日本語を母語とする者」、または日本語A(SL)、日本語A(HL)、日本語B(HL)のいずれかを履修している者としています。つまり、同じ日本の大学のIB選抜でも、日本語に関する条件の立て方は一様ではありません。 ここで重要なのは、「日本の大学へ行くならJapanese Aが必須」ということではありません。大学、学部、入試方式によって条件は異なりますし、入試制度は年度によって変更されることもあります。 しかし、Japanese Aを履修できる日本語力を残していることが、日本の大学の一部の入試方式を選択肢として残す場合があることは知っておいてよいと思います。 Japanese Aを取らなくても、日本語で考えて書く力が必要になる場合がある さらに、日本の大学への進学を考える場合、日本語の読み書きが問われるのはIB選抜だけではありません。 帰国生選抜でも、大学や学部によっては日本語による小論文や面接が課されます。例えば東京学芸大学の2027年度帰国生選抜では、多くのコースで小論文や面接が選抜に含まれており、志願者全員に日本語による個人面接を課すことも募集要項に明記されています。 したがって、将来Japanese Aを履修するかどうかとは別に、日本の大学も選択肢として残したいのであれば、日本語で文章を読み、自分の考えをまとめ、理由や根拠とともに説明する力を維持する意味があります。 ここで考えたいのは、「Japanese Aを取るために日本語を続ける」という狭い話ではありません。 IB選抜、帰国生選抜、日本への帰国、海外大学。 どの進路を最終的に選ぶか分からない中学生の段階では、Academicな日本語を残しておくことそのものが、将来の選択肢を閉じないことにつながる可能性があります。 DPが始まってから日本語を戻そうとすると、かなりの負荷になる 例えば、小学5年生で海外へ移住し、その後も家庭では日本語を話しているものの、日本語で本を読んだり文章を書いたりすることがほとんどなくなったとします。 中学生になっても日本語での会話は流暢なので、ご家族からすると、日本語力が大きく落ちているようには見えないかもしれません。 そして15歳になり、DPの科目を選ぶ段階になって初めて、「Japanese Aを取った方がいいのでは」と考える。 ところが、そこで必要になるのは日常会話の日本語ではありません。初めて見る文章を分析し、文学作品を比較し、自分の考えを根拠とともに論述する日本語です。 もし数年間、日本語でまとまった文章をほとんど読んでおらず、文章を書く経験も少なければ、16歳の段階でその力を一気に作るのは大きな負荷になります。 これは以前の記事書いた、「日本語は来年から」で、本当に間に合う?という問題そのものです。 日本語の読み書きを続ける意味は、日本へ帰国したときに困らないためだけではありません。海外で高校まで進みIBを選択した場合にも、日本語が学ぶための言語として残っていることで、DPの科目選択や、その先の大学進学の選択肢が広がる可能性があります。 「日本語を維持する」から、「Japanese Aも選べる日本語」へ もしご家庭として、「高校まで海外で教育を受ける可能性がある」「DPへ進むかもしれない」「そのときJapanese Aも選択肢として残したい」と考えているのであれば、中学生の段階から日本語教育の目標を少し変えてもよいと思います。 単に「日本語を忘れない」のではなく、「16歳になったとき、日本語で年齢相応の文章を読み、考え、それを文章として表現できる状態を残す」ことを目標にするのです。 そのためには、漢字ドリルだけでは十分ではありません。年齢相応の物語やノンフィクションを読み、少しずつ評論や社会的なテーマにも触れる。読んだ内容について話し、自分の意見とその理由を書く。複数の文章を読んで、それぞれの考え方や表現の違いを比較する。 これまでの記事で取り上げてきた、読書、語彙、読解、作文、論理的に説明する力が、ここで全部つながってきます。 もちろん、Japanese Aのためだけに日本語を学ぶ必要はありません。日本語で深く読み、考え、表現できること自体に価値があります。 ただ、その力を中学生まで継続した結果として、DP進学時にもJapanese Aという選択肢が残り、その先の大学進学にも複数の可能性が残るのであれば、それは大きな意味を持つと思います。 家庭でも、一度「話せる」以外の日本語を確認してみる では、中学生のお子さまの日本語がどの程度育っているのか、家庭ではどのように確認すればよいのでしょうか。 Japanese Aを履修できるかどうかを家庭だけで判定することはできませんし、最終的には学校のDP Coordinatorや担当教員と相談する必要があります。ただ、最初の確認として、日常会話以外の日本語を見てみることはできます。 例えば、中学生向けの小説やノンフィクションを一冊、自力で読み通せるでしょうか。読み終えた後、「何について書かれていたか」だけではなく、「なぜこの人物はそう行動したと思うか」「筆者の意見に賛成か。その理由は何か」といった問いに、自分の言葉で答えられるでしょうか。 さらに最初の目安として、自分の意見を、理由や具体例とともに600~800字程度の文章にまとめられるかを見てみてもよいと思います。 もちろん、600~800字書ければJapanese Aで問題ない、という意味ではありません。反対に、今書けないからJapanese Aを諦めるべきだという話でもありません。 重要なのは、現在地を早めに知ることです。 語彙や読解についてもう少し客観的に確認したい場合には、読書指数診断などを一つの参考材料として利用する方法もあります。ただし、これもJapanese Aへの適性を判断する試験ではありません。会話、読解、語彙、作文など複数の面を見ながら、「これからどこを伸ばせばよいのか」を考えるための材料として使うのがよいと思います。 中学1年生で気づけば、数年かけて準備できます。 DPが始まる直前に初めて気づくのとは、大きな違いがあります。 「母語はどちら?」より、「それぞれの言語で何ができる?」 海外で長く生活していると、「この子の母語は日本語なのか、英語なのか」と迷うことがあります。 しかしDPの言語選択を考えるときには、その問いだけにこだわる必要はないと思っています。 どちらを先に覚えたか、家庭でどちらを話しているか、国籍がどこかという情報ももちろん大切です。しかしDPでより重要になるのは、それぞれの言語で何ができるのかです。 日本語なら、難しい文章を読み、自分の考えを論理的に表現できるのか。英語なら、文学作品や複雑な文章を分析し、根拠を示しながら論述できるのか。 日本語でそれができればJapanese Aという選択肢があり、英語でできればEnglish Aという選択肢があります。両方でできるのであれば二つのLanguage Aを検討することもできますし、日本語は家庭言語として残しながら、英語を中心的な学習言語として育てるという選択もあります。 すべての子どもが二つのLanguage Aを履修する必要はありませんし、「バイリンガル」という肩書きを目指す必要もありません。 大切なのは、二言語を持っているかではなく、その二言語で何ができるのか。そして、将来どの言語で何を学びたいのかを考えながら、必要な言語を育てていくことだと思います。 DPの言語選択は、DPが始まってから考えない 在外日本人家庭に私がおすすめしたいのは、DP開始直前になって初めて言語選択を考えるのではなく、可能であれば中学生の段階で一度、将来の選択肢を確認しておくことです。 今の学校ではDPでどのLanguage Aを開講しているのか。Japanese Aはあるのか。SLとHLのどちらがあるのか。なければSSSTに対応しているのか。English Aを選ぶ場合、現在の英語力からどのような準備が必要なのか。日本の大学も選択肢として考えるのであれば、候補となる大学のIB選抜や帰国生選抜では何が求められるのか。 そして何より、本人の日本語と英語は、それぞれ「話せる」だけではなく、どの程度読める・書ける・考えられるのか。 これを早めに確認しておけば、日本語の読書を増やす、作文を始める、英語の学術的な文章力を強化する、第三言語をLanguage Bへつなげる、といった準備を数年かけて進めることができます。 この連載は、もともと海外で育つ子どもの日本語をどう考えるか、というところから始まりました。 家庭で日本語を話しているから大丈夫なのか。日本語の読書はなぜ必要なのか。読み書きをどこまで続ければいいのか。「日本語は来年から」でも間に合うのか。 IBまで進むと、それらは単なる「日本語を忘れないための話」ではなかったことが分かります。 小学生、中学生の間に日本語で本を読み、語彙を増やし、文章を書き、自分の考えを説明する経験を続けてきたことが、高校生になったときに「Japanese Aも選べる」という具体的な教育上の選択肢につながることがあります。 さらに、その日本語力が、将来日本の大学へ進むときの小論文や面接にもつながる可能性があります。 「日本語を続けるかどうか」は、小学生の漢字テストだけの問題ではありません。将来その子がどの言語で学び、どの大学へ進み、どの世界とつながることができるのか。 そのための、長い教育設計の一部なのだと思います。 参考資料 International Baccalaureate, Learning a language in the Diploma Programme International Baccalaureate, Studies in language and literature International Baccalaureate, Language A: Literature Guide International Baccalaureate, Examiner Instructions 2026 — Language A International Baccalaureate, Language B International Baccalaureate, Language ab initio International Baccalaureate, DP Passing Criteria International Baccalaureate, All Diploma Programme Subjects 国際基督教大学(ICU)「2027年度 総合型選抜〈IBDP利用〉」 東京学芸大学「2027年度 国際バカロレア選抜 学生募集要項」 東京学芸大学「2027年度 帰国生選抜 学生募集要項」

IBを選ぶ前に知っておきたいこと|高校からいきなりDPは想像以上に大変

2026年10月6日

IBを選ぶ前に知っておきたいこと|高校からいきなりDPは想像以上に大変

「IBに入る」のではなく、「IB型の学び方に切り替わる」と考えてほしい 海外で子どもの進路を考えていると、IB(International Baccalaureate/国際バカロレア)という選択肢を目にする機会が増えます。 世界各国の大学への進学につながりやすいことに加え、暗記だけではなくCritical ThinkingやResearchを重視し、自分の考えを持って論理的に説明する力を育てる。こうした特徴に魅力を感じ、将来はIB Diploma Programme(DP)へ進ませたいと考えるご家庭も少なくないと思います。 私自身、IBの教育理念には非常に魅力的な部分が多いと思っています。 ただし、DPを検討するときに一つ注意してほしいことがあります。それは、「高校になったらIBを始めればいい」とだけ考えていると、想像以上に大きな学習スタイルの変化に直面する可能性があるということです。 これは、「DPは難しいから頭の良い子しかできない」という話ではありません。DPでは、単に学習内容が難しくなるだけではなく、自分で計画し、調べ、考え、文章にし、複数の課題を同時に管理することが求められるからです。 つまり、高校からDPへ入るということは、教科が難しくなるだけではなく、場合によっては**「勉強の仕方そのもの」をかなり短期間で変えること**になります。 DPは、6教科を勉強するだけのプログラムではない まず、DPがどのようなプログラムなのかを簡単に整理しておきます。 DPは原則16~19歳を対象とした2年間のプログラムで、学生は6つの教科群から科目を履修します。それに加えて、DP Coreと呼ばれるTheory of Knowledge(TOK)、Extended Essay(EE)、Creativity, Activity, Service(CAS)の3つにも取り組みます。 (ibo.org) この「Core」が、一般的な高校教育との違いを考えるうえで非常に重要です。 例えばExtended Essayでは、学生自身が研究テーマを決め、Research Questionを設定し、資料を調べ、議論を組み立て、最終的に4,000語の研究論文を完成させます。大学の卒業論文ほどではありませんが、高校生の段階で「先生から出された問題に答える」のではなく、自分で問いを設定して長期間かけて研究することが求められます。 TOKでは、「私たちはなぜそれを知っていると言えるのか」「何を証拠と考えるのか」といった、知識そのものについて考えます。評価にはExhibitionに加え、1,600語のEssayも含まれます。 そのうえで、各教科にも試験だけではなく、校内で行うInternal Assessmentなどの課題があります。DPの評価は最終試験だけで決まる仕組みではなく、教科によっては長期間かけて作成する課題も評価対象になります。 つまりDPの2年間は、「6教科を勉強して最後に試験を受ける」という単純なものではありません。通常の授業、宿題、試験勉強、Internal Assessment、TOK、Extended Essay、CASが、同じ2年間の中で同時に進んでいきます。ここにDP特有の難しさがあります。 大変なのは、「難しい問題」より「全部を同時に管理すること」 DPについて「大変」と聞くと、多くの人は、数学が難しい、英語のEssayが難しい、覚える量が多い、といった教科内容を想像するかもしれません。 もちろん、それもあります。しかし私は、それ以上に大きいのが自己管理だと思っています。 例えばExtended Essayは、提出日の前日に一晩頑張れば完成する課題ではありません。テーマを決め、Research Questionを絞り、資料を探して読み、構成を考え、執筆し、SupervisorとのReflectionを重ねながら完成させていきます。 その一方で、ほかの教科も当然進んでいます。数学のテストがある週にHistoryのEssayの締め切りがあり、ScienceのInternal Assessmentを進めながらTOKのEssayも書く、といったことが起こります。 こうなると必要なのは、「勉強ができる」ことだけではありません。何をいつまでに終わらせるのかを逆算し、大きな課題を小さく分け、自分で進捗を管理する力が必要になります。 IB自身も、DPのような要求の高い教育プログラムではSelf-managementが重要であり、とりわけTime ManagementはDP学生にとって重要な能力だと説明しています。 実際、DP経験者を対象にした研究でも、学生はDPを通してTime Management、Research、Writing、Critical Thinkingなどの力を身につけ、それらが大学進学後にも役立ったと報告されています。一方、DP導入校を調査した研究では、学生のStressが課題の一つとして挙げられています。 つまりDPの負荷は、欠点であると同時に、DPが大学進学後に役立つ力を育てる理由でもあるのです。 高校から突然「自分で管理してください」と言われても難しい ここで私が気になるのが、それまでどのような学習をしてきたかです。 例えば、それまでの学校生活で、先生や保護者が宿題や提出物を細かく管理し、試験範囲も明確で、課題は数日から1週間程度で終わるものが中心だったとします。また、正解のある問題を解くことが多く、必要な資料も先生から与えられる環境に慣れていたとします。 その状態から16歳になった瞬間、「半年後の締め切りから逆算して自分で研究を進めてください」「自分で問いを設定してください」「複数の資料を比較して、自分のArgumentを作ってください」「Criterionを読んで、自分の成果物を評価してください」と求められても、最初から簡単にできるとは限りません。 問題は能力ではありません。そのような学び方を経験したことがあるかどうかです。 DPで初めてSelf-managementやIndependent Researchを本格的に経験すると、教科学習と同時に「IBでの学び方」そのものまで学ばなければならなくなります。そこが、高校から突然DPへ入るときの大きな負荷になり得ます。 では、MYPから始めなければDPは無理なのか? ここは誤解のないようにしておきたいと思います。MYP(Middle Years Programme)を履修していなければDPへ進めない、ということではありません。 DPは16~19歳向けの独立したプログラムで、MYP以外の教育課程からDPへ進む学生もいます。過去のIBによる比較資料でも、DPへの進学者はMYPだけでなく、他の教育課程から来ることが想定されています。また、MYPを経験した学生が必ずDPで高得点を取るとも限らないでしょう。 IBのContinuumについて調べた研究では、PYP・MYPを経験した学生とDPのみを経験した学生の試験結果には有意な差が見られなかったようです。一方で、学校や学生への質的調査では、MYPで身につけたOrganization、Time Management、Inquiry-based Learning、Problem Solving、Criterion-referenced Assessmentへの慣れがDPへの準備に役立ったという報告がありました。 私は、この違いが重要だと思います。MYPをやればDPで成功する、という話ではない。けれど、DPで必要になる「学び方」に早くから触れておける。このメリットはあるのではないでしょうか。 MYPでは、すでに「勉強の仕方」を学んでいる MYPの特徴の一つに、Approaches to Learning(ATL)があります。 これは単なる教科知識ではなく、Research、Critical and Creative Thinking、Communication、Collaboration、Self-managementといった、「どう学ぶか」に関する力を育てる考え方です。 さらにMYPの最終学年にはPersonal Projectがあります。学生自身が興味のあるテーマを選び、長期間にわたって計画を立て、調査し、成果物を作り、そのプロセスを振り返ります。評価されるATLにはSelf-management、Research、Communication、Critical and Creative Thinkingなどが含まれます。 これは、もちろんExtended Essayと同じではありません。 しかし、自分でテーマを選び、長期的な計画を立て、期限まで自分で進め、資料を調べ、最後にプロセスを振り返るという経験を、DPへ入る前に一度していることには意味があります。 高校に入って初めて「半年かけて自分でProjectを完成させてください」と言われるのと、中学生の間から似た学習を経験しているのとでは、心理的な負荷も違うでしょう。 MYPの本当のメリットは、Personal Projectだけではない MYPというとPersonal Projectが目立ちますが、それだけではありません。日々の学習の中でも、「なぜそう考えるのか」「どのEvidenceを使ったのか」「どのCriterionを満たしているのか」「自分の学習をどうReflectするのか」といったことを繰り返します。 つまり、正解を当てるだけではなく、自分の考えに根拠をつけ、それを説明することが求められます。また、課題の評価基準がCriterionとして示され、それを読みながら自分の成果物を作ることにも慣れていきます。これはDPでも重要です。 先生が「これを書けば80点」と全部指示してくれるのではなく、Assessment Criteriaを理解し、「この課題では何を求められているのか」を自分で読み取る必要があります。 つまりMYPからDPへ進むメリットは、単にIBという名前のカリキュラムを長く経験することではなく、IB特有の学び方を、何年もかけて少しずつ日常化できることなのだと思います。 非MYPからDPへ進むなら、何を準備すればよいのでしょうか では、日本人学校や他のインターナショナルスクール、各国の国内カリキュラムからDPへ進む場合はどうでしょうか。 決して悲観する必要はありません。むしろ、DPで何が要求されるのかを事前に理解して、その学び方を少しずつ練習しておけばよいのだと思います。 例えばDPが始まる1~2年前から、長期課題を自分で管理する経験を作ることができます。夏休みに一つテーマを決め、数週間かけて調べてレポートを書く。先生や親が毎週「やった?」と確認するのではなく、最終提出日から逆算して本人に計画を作らせる。文章を書くときには、単なる感想ではなく、Claimを出し、その理由とEvidenceを示す。インターネット検索だけで終わらせず、複数の資料を比較し、「この情報はどこから来たのか」を意識する。そして提出後には、「何がうまくいったか」「次に何を変えるか」を振り返る。 こうした小さな経験を積んでおくだけでも、DP開始時の負荷は変わると思います。 必要なのは、「MYPの名前がついた教育を受けること」そのものではなく、DPで求められる学習習慣をDP開始前に経験しておくことだからです。 親がすべて管理してきた場合は、少しずつ手を離す必要がある これは、IBに限らず中高生の教育全般に言えることかもしれません。 親が長い間、試験日や宿題、提出物、予定表、忘れ物まで細かく管理していると、子ども自身は「誰かが教えてくれる」ことに慣れてしまいます。小学生のうちは、それでもよい場面がたくさんあります。 しかしDPでは、自分自身で管理することが急に増えます。そのため、DPへ進む可能性があるのであれば、中学生くらいから、「親が管理する」から「本人が管理し、親は必要なときだけ支える」へ少しずつ変えていくことも重要だと思います。 失敗も必要です。提出期限を忘れる、予定より時間がかかる、計画が甘かったことに気づく。中学生のうちの小さな失敗なら修正できます。 しかしDPのExtended EssayやInternal Assessmentで初めてそれを経験すると、代償が大きくなります。 自己管理は、説明されて身につくものではなく、実際に自分で管理して失敗し、修正することで身につく力です。 「頭が良いからDPに向いている」とは限らない DPを考えるときには、「学校の成績が良い」「テストで高得点を取る」「記憶力が高い」といったことだけで適性を判断しない方がよいと思います。 もちろん、基礎的な学力は重要です。しかしDPでは、それに加えて、長期間課題を続ける力、複数の締め切りを管理する力、自分でResearchする力、分からないときに助けを求める力、完璧でなくても一度Draftを作る力、Feedbackを受けて修正する力なども求められます。 IBの研究でも、DP学生が大学進学後に強みとして挙げるのは、教科知識だけではなくTime Management、Organization、Research、Analytical Writingなどです。 だから私は、「うちの子は成績がいいからIB」だけではなく、「この学び方が、この子に合っているだろうか」を見ることも大切だと思っています。 DPの負荷は、必ずしも悪いことではない ここまで読むと、DPがとても大変なプログラムに見えるかもしれません。実際、大変だと思います。でも、その負荷そのものが、DPの大きな教育価値でもあります。 大学に進めば、先生が毎日宿題を確認してくれるわけではありません。長いResearch Paperを書き、自分で文献を探し、複数の授業を同時に管理し、締め切りも自分で把握する必要があります。つまりDPで要求されることの多くは、その後の大学教育にかなり近いものです。 DP経験者を対象にした研究でも、大学進学後に「DPで学んだTime ManagementやResearch、Writingの経験が役立った」と回答する学生が多く報告されています。 だから私は、「DPは大変だから避けるべき」とは全く思いません。むしろ、大変だからこそ、その2年間に入る前に準備しておくという考え方をしてほしいと思っています。 「IBを選ぶ」のではなく、「IBで学べる状態を作る」 以前の記事で、学校選びは「入口」より「出口」を考えてほしい、と書きました。IBについても同じです。 「大学進学に有利そうだからDPへ入る」「国際的な資格だからDPへ入る」だけではなく、DPが始まる前に、自分で課題を管理した経験があるか、自分でResearchしたことがあるか、長い文章を書いたことがあるか、複数の締め切りを管理したことがあるか、Feedbackを受けて書き直した経験があるか、といった点を一度考えてみる必要があります。 もし、まだできないのであれば、「DPには向いていない」と判断する必要はありません。DPが始まるまでに、少しずつ経験させればいいのです。 MYPに進む方法もありますし、別の学校で同じようなProject-based Learningを経験する方法もあります。家庭でも、自分で調べてまとめる機会は作れます。大切なのは、16歳になって初めて、すべてを同時に始めないことだと思います。 そして、もう一つ大きな問題が「言語」です DPを考える日本人家庭には、もう一つ非常に重要な問題があります。それは、何語でDPを受けるのかという問題です。例えば、普段英語で授業を受けているからといって、English Aで文学作品を分析し、Essayを書けるレベルにあるとは限りません。 一方、日本語は家庭では流暢に話していても、これまでの記事で書いてきたように、日本語で同年代向けの文学を読み、論理的な文章を書く力まで育っているとは限りません。 そしてDPでは、言語科目の選択がDiploma全体の設計にも関わってきます。「英語が得意だから大丈夫」「日本人だからJapaneseを選べばいい」というほど単純ではありません。 DPへ進む可能性があるのであれば、どの言語を、どのレベルで、どのように履修するのかを、中学生くらいの段階から意識しておく意味があります。 これは、これまでにわたって書いてきた「在外のお子さまの日本語」の話とも、実は直接つながっています。 参考資料 International Baccalaureate, Diploma Programme International Baccalaureate, DP core International Baccalaureate, Theory of knowledge International Baccalaureate, Extended essay International Baccalaureate, How the MYP works International Baccalaureate, Personal project Walker, Bryant & Lee (2014), The International Baccalaureate continuum: Student, teacher and school outcomes International Baccalaureate Research, Key findings from research on the impact of the Diploma Programme

海外駐在の学校選びは「入口」より「出口」|帰国後まで考える教育設計

2026年9月29日

海外駐在の学校選びは、「入口」より「出口」を考えてほしい

「せっかく海外に来たのだから」で学校を選ぶ前に、帰国後まで考えていますか? 海外赴任が決まると、多くのご家庭が子どもの学校選びに悩みます。日本人学校にするのか、現地校にするのか、インターナショナルスクールにするのか。英語圏以外であれば、さらに現地語で教育を行う学校という選択肢もあります。 海外で暮らす機会は、子どもにとって非常に貴重です。「せっかくフランスに来たのだからフランス語を身につけてほしい」「せっかくオランダにいるのだから現地の学校で学ばせたい」と考えるのは、とても自然なことだと思います。実際、現地の言語や文化の中で学ぶことで、日本では得られない経験をすることができます。 ただ、駐在家庭の学校選びを考えるとき、私は一つだけ、かなり早い段階で考えてほしいことがあります。 その学校にどう入るかではなく、その学校から次にどこへ出るのか。 つまり、「入口」よりも「出口」です。 3年間その言語で学んだあと、その次は何語で学ぶのでしょうか 以前、あるフランスに駐在された家庭のお話を聞いたことがあります。「せっかくフランスに来たのだから」と、お子さまをフランス語を主な学習言語とする学校へ通わせることにしました。 数年間の海外生活の中で、お子さまはフランス語を身につけました。それ自体は素晴らしいことです。新しい言語を身につけ、その言語で学校生活を送り、異なる文化の中で学ぶという経験は、大きな財産になったと思います。 ところが、駐在期間を終えて中学生の時期に日本へ帰国すると、別の問題が出てきました。 日本語での日常会話はできます。しかし、日本の学校では、理科も社会も数学も国語も、すべて日本語で学びます。教科書に出てくる語彙も、問題文の表現も、授業中の説明も、これまで数年間使ってきたフランス語での学習言語とは違います。 その結果、日本の学校の授業についていくこと自体に大きな負荷がかかり、高校受験の準備にも影響が出ました。最終的にそのご家庭は、日本での進学を続けるのではなく§再びフランスに戻り、海外で教育を受けるという選択をしました。 このご家庭の判断が間違っていた、と言いたいわけではありません。結果として海外で教育を継続する道を選び、それがそのお子さまにとってより良い選択だった可能性もあります。 ただ、この事例を聞いたとき、私は強く思いました。 学校を選ぶときに、その3年間だけを見るのではなく、「3年後にどの教育システムへ接続するのか」まで考えておく必要があるのではないか。 学習言語を変えるということは、「会話の言語」を変えることとは違う ここまでの連載でも何度も書いてきましたが、日常会話ができることと、その言語で学べることは同じではありません。 例えば、日本語で友達と話せても、日本の中学の社会科の教科書をすぐに理解できるとは限りません。「立法」「需要」「供給」「背景」「要因」「対立」「影響」といった教科学習で使う語彙や、資料を比較して答えを導き出す文章表現に慣れている必要があるからです。 逆に、フランス語や英語で学校生活を問題なく送れるようになったとしても、その言語で高校レベルの文章を読み、論理的なEssayを書けるようになるには、さらに時間が必要です。 つまり、学校の学習言語を変えるということは、単に「新しい言葉を覚える」という話ではありません。その言語で知識を身につけ、情報を整理し、文章を読み、自分の考えを説明するための学習言語そのものを作り直していくことでもあります。 UNESCOも多言語教育について、子どもが十分に理解できる言語を学習の基盤として使うことの重要性を指摘しています。特に、一つの学習言語から別の言語へ移行する際には、第一言語での学習基盤を十分に育てながら段階的に移行することが重要だとされています。 これは「第二言語や第三言語で教育を受けるべきではない」という意味ではありません。むしろ、複数言語で学べることには大きな価値があります。 問題は、その移行を教育計画として考えているかどうかです。 駐在家庭の場合、「出口」が最初からある程度分かっている 移民家庭や永住家庭と、駐在家庭には大きな違いがあります。駐在の場合、多くの家庭では海外生活にある程度の期限があります。 3年後に日本へ帰る可能性が高い。5年後かもしれない。会社の都合なので確定はしていない。それでも、「将来日本へ戻る可能性が比較的高い」ということ自体は分かっていることが多いのではないでしょうか。 そうであれば、学校を選ぶときに「この3年間で何を得られるか」だけでなく、帰国時に何が必要になるかまで考えておいた方がよいと思います。 例えば、小学2年生から3年間海外で過ごし、小学5年生で日本へ戻る場合と、中学1年生から3年間海外で過ごし、高校受験直前に戻る場合とでは、同じ「3年間の海外生活」でも意味は全く違います。 低学年であれば、帰国後に時間をかけて日本語での学習へ再適応できる可能性があります。一方、中学生で戻れば、帰国したその日から日本語で数学や理科や社会を理解しながら、同時に高校受験の準備を進めなければならないこともあります。 日本の文部科学省も、帰国児童生徒について、日本語能力などの事情によって直ちに相当学年で学ぶことが適切でない場合には、学校生活への適応を考慮した対応が可能であることを示しています。つまり制度上も、「海外から戻れば、その日から何の問題もなく日本の同学年へ戻れる」と単純には考えられていません。 第三言語を学ぶこと自体が問題なのではありません ここは誤解のないように強調しておきたいと思います。 フランスに住んでいる子どもがフランス語で学ぶことも、オランダに住んでいる子どもがオランダ語で学ぶことも、それ自体は素晴らしい選択肢です。 実際、現地語で教育を受けることで、単に言葉だけではなく、その国の文化や考え方、友人関係、社会そのものに深く入ることができます。「海外に住んでいた」という経験と、「その社会の中で生活した」という経験は同じではありません。 だから、「第三言語の学校は危険」という話ではありません。 私が考えてほしいのは、その言語を、いつまで学習言語として使う予定なのかということです。 例えば、フランス語で小学3年生から小学6年生まで学び、その後もフランス語圏で中学・高校・大学まで進むのであれば、フランス語はその子にとって継続的な学習言語になります。 一方、小学校の3年間だけフランス語で学び、中学から日本語へ完全に戻るのであれば、その3年間の教育をどのように日本語での学習へつなぐのかを考えておく必要があります。 さらに、親がその言語を話せず、帰国後もその言語を使う環境がほとんどないのであれば、せっかく身につけた言語自体を維持することも難しくなる可能性があります。 そうなると、 「日本語での学習を3年間止めた」 「第三言語を3年間学んだ」 「しかし帰国後は第三言語を使わなくなった」 という状態になることがあります。 これを教育としてどう評価するかは、家庭の価値観によります。ただ、少なくともそこまで想定したうえで選んだのかどうかは、とても大きな違いだと思います。 「何語話せるか」だけではなく、「何語で学べるか」 海外で子育てをしていると、「何か国語話せるか」ということに目が向きやすくなります。 日本語、英語、オランダ語。3か国語話せる。それは確かに素晴らしいことです。 でも、この連載で繰り返し書いてきたように、私は子どもの言語を見るとき、「何語話せるか」だけでは足りないと思っています。 もう一つ、 「どの言語なら、年齢相応のことを深く学べるのか」 を見る必要があります。 例えば3言語で日常会話ができても、どの言語でも年齢相応の長い文章を読めないのであれば、学習という面では別の課題があります。 反対に、日本語と英語の2言語しか使えなくても、日本語では文学や社会問題について深く考えられ、英語では学校のEssayを書けるのであれば、非常に強いバイリンガルです。 私は、言語教育を考えるとき、 言語の「数」より「深さ」 を一度考えてみてもよいと思っています。 学校を選ぶとき、「今の学校」ではなく「次の学校」を見る では、海外赴任時の学校選びで具体的に何を考えればよいのでしょうか。 私は、現在検討している学校だけを見るのではなく、その次に通う可能性が高い学校を一緒に見ることをおすすめします。 3年後に日本へ帰るなら、その時点でお子さまは何年生でしょうか。日本の学校では、その学年でどの程度の文章を読み、どの程度の漢字を使い、理科や社会でどんな内容を学んでいるでしょうか。 高校受験の時期と重なるのであれば、受験科目はどうなっているでしょうか。帰国生入試という選択肢はあるでしょうか。日本語で作文や小論文を書く必要はあるでしょうか。 逆に、海外で高校まで進むのであれば、今通っている学校からどの教育課程へ進むのでしょうか。IBなのか、A-levelなのか、各国の国内カリキュラムなのか。そのとき必要な言語は何でしょうか。 こうやって「次」を見ると、 今、日本語をどこまで維持すべきなのか。 現地語をどこまで伸ばすべきなのか。 英語をいつから本格化すべきなのか。 という判断が変わってきます。 学校選びが単なる「今の学校探し」ではなく、一つの教育経路を設計する作業になります。 「帰国するか分からない」場合はどうするのか 駐在家庭では、これが一番難しいと思います。 3年と言われていた赴任が5年になることもある。逆に突然帰任になることもある。転職してそのまま海外へ残る可能性もある。 つまり、出口が分からない。 その場合は、一つに決め打ちするよりも、選択肢を残すという考え方が重要になります。 例えば、インター校や現地校へ通いながらも、日本語での読書は続ける。日本の算数や国語に完全に合わせる必要はなくても、日本語で年齢相応の文章を読む力はできるだけ残しておく。 日本へ戻らなければ、その日本語は無駄になるのでしょうか。 私はそうは思いません。 日本語で本を読み、日本語で考え、日本の社会や文化へ直接アクセスできる力は、それ自体が一つの資産です。 そして突然帰国することになった場合にも、「ゼロから日本語の学習言語を作り直す」という事態を避けやすくなります。 これは、以前の記事で書いた、「追いつくより、大きく離れない」という考え方と同じです。 子どもにとっての「選択肢」を、本当に増やしているか 海外の学校選びでは、 「英語を身につければ将来の選択肢が増える」 「フランス語もできればさらに有利」 という話をよく聞きます。 それ自体は間違いではないと思います。 でも、新しい言語を一つ加えるために、それまで使っていた学習言語を完全に手放した結果、別の進路が非常に難しくなるのであれば、 本当に選択肢は増えたのでしょうか。 私は、ここを一度考えてみてもよいと思います。 選択肢を増やすとは、話せる言語の数を増やすことだけではなく、将来どの教育システムへもある程度移れる状態を残すことでもあるはずです。 日本へ戻れる。 海外にも残れる。 日本の大学も考えられる。 海外の大学も考えられる。 もちろん、すべてを完璧に準備することはできません。 でも、どの扉を開けておき、どの扉を閉じるのかを家庭として理解していることは重要です。 「せっかく海外にいるから」は、十分な理由なのでしょうか 海外駐在という機会は、確かに特別です。 日本ではできない経験をさせたい。 現地の人と同じ学校に通わせたい。 新しい言語を身につけさせたい。 その気持ちは、とてもよく分かります。 でも、教育は旅行ではありません。 「せっかく来たのだから、経験させてみよう」だけではなく、その経験が子どものその後の教育にどうつながるのかまで考える必要があります。 特に、学習言語を変えることには、それなりの時間と負荷が伴います。UNESCOも、教育言語の移行について、子どもが十分に理解できる言語を土台にしながら段階的に別の言語へ移ることの重要性を繰り返し指摘しています。 だからこそ、「この学校に入ったら英語が身につきそう」だけで終わらず、「この学校を出たあと、この子はどこへ行くのだろう」まで考える。 それが、駐在家庭の学校選びではとても重要だと思っています。 学校選びは、点ではなく線で考える 以前の記事で、「インター校がお子さまにとって本当にベストな選択なのか」という問いを投げかけました。 日本語や母語教育について考えてきた今、もう一度その問いに戻ると、私が一番伝えたいことは、インター校か日本人学校か、現地校かという「学校の種類」の問題ではないことが分かります。 重要なのは、教育を点ではなく、線で見ること。 小学3年生の今だけを見るのではなく、 小学6年生 中学3年生 高校 大学 そしてその先まで、完全には予測できなくても、いくつかの可能性を考えてみる。 今選ぼうとしている学校が、その次の学校へどうつながるのか。 今選ぼうとしている学習言語が、その後も使われるのか。 もし別の言語へ戻るなら、その橋をどう残しておくのか。 そこまで考えて学校を選べば、海外教育は子どもにとって非常に大きな財産になると思います。 第三言語を学ぶことも、インター校へ通うことも、日本人学校を選ぶことも、それ自体に正解・不正解があるわけではありません。家庭によって、答えは違います。 ただ、一つだけ共通して考えてほしいことがあります。学校を選ぶとき、「どこに入るか」だけでなく、「そこからどこへ出るのか」まで考えてみる。それだけで、同じ学校選びでも見えるものが大きく変わってくるのではないでしょうか。 参考資料 UNESCO (2023), Early-exit language transitioning programming: The rationale, the benefits and the limitations UNESCO Global Education Monitoring Report (2025), The right multilingual education policies can unlock learning and inclusion 文部科学省「外国から帰国した学齢児童生徒の就学手続について」

駐在や海外移住のご家庭へ。 本当にインター校がお子さまにとってベストな選択ですか?

2026年9月21日

「日本語は大丈夫」と思っていたのに|在外のお子さまの日本語力をどう見る

会話だけでは見えない「日本語力」を、どう捉えるか 海外で育つお子さまの保護者とお話ししていると、「日本語は特に問題ないと思います」と言われることがあります。 実際にお子さまと話してみても、日本語はとても自然です。こちらの質問も理解できる。日本語で冗談も言える。日本のアニメも理解している。祖父母とも日本語で話している。だから、「日本語は大丈夫」と感じるのは、とても自然なことだと思います。 ところが、教室で日本語の文章を読んでもらったり、語彙や読解に関する簡易的なアセスメントを行ったりすると、「あれ?」となることがあります。会話では全く気にならなかったのに、文章になると知らない言葉が多い。文章を最後まで読んでも、何が書いてあったのか説明できない。言葉の意味を聞くと、何となくは分かっているけれど説明できない。自分の意見は言えるけれど、その理由を文章にできない。そして結果を見た保護者の方が、「こんなに差があるとは思いませんでした」と驚かれることがあります。 教育にとても熱心なご家庭でも同じです。これは、保護者が子どものことを見ていなかったからではありません。むしろ、日常生活の中では、日本語のどの部分が育っていて、どの部分が育っていないのかが非常に見えにくいからだと思います。 「日本語ができる」という言葉は、実はかなり曖昧 そもそも、「日本語ができる」とは、何ができることなのでしょうか。日本語での挨拶、親との会話、友達と遊ぶ、テレビを理解できる、本が読める、作文が書ける、自分の意見を説明できる、教科書が理解できる、論文を書くことができる。 全部、日本語ですが、必要な力は全く同じではありません。例えば、前回までの記事で見てきたように、聞く力、話す力、読む力、書く力は、それぞれ別に見る必要があります。 さらに「読む」だけでも、 文字を音にできる 単語の意味が分かる 一文の意味が分かる 文章全体の内容が分かる 原因と結果をつかめる 登場人物の気持ちを推測できる 筆者の主張を理解できる 複数の情報を関連づけられる などの段階があります。だから、「日本語ができる/できない」という二択だけでは、子どもの日本語を正確に見ることはできません。 話せると、「全部できる」ように見えやすい なぜ、海外の子どもの日本語力は見誤りやすいのでしょうか。一つの大きな理由は、会話力が非常に目立つからではないでしょうか。 家庭で日本語を使っているお子さまなら、日本語の発音も自然です。文法も、日常会話ではほとんど違和感がありません。日本語らしい相づちも使います。「えー、マジで?」「だからさ」「それ、やばくない?」といった表現も自然に出てきます。 ここまで話せると、大人はどうしても、「日本語ができる」と判断します。ところが、「『影響』ってどういう意味?」「この文章で、なぜ主人公は考えを変えたの?」「この二人の意見の違いを説明して」となると、急に難しくなることがあります。これは、決して不思議なことではありません。 家庭で毎日使っているのは、主に生活のための日本語です。一方で、文章を理解したり、情報を比較したり、根拠を説明したりするときには、違う種類の語彙や言語経験が必要になるからです。 文部科学省も「ことばの力」を一面的には見ていない 興味深いのは、日本語を第二言語として学ぶ子どもの教育でも、「会話ができるか」だけで日本語力を判断していないことです。 文部科学省が提供している「対話型アセスメント DLA」は、文化的・言語的に多様な背景を持つ子どものことばの力を、一対一の対話を通して多角的に捉えるためのものです。 また、「ことばの力のものさし」では、<聞く・話す><読む><書く>を技能別に捉える考え方が示されています。 DLAそのものは、日本の学校で日本語を学ぶ外国人児童生徒等を主な対象にした仕組みですので、そのまま海外の日本語継承児童に当てはめるものではありません。ただ、子どものことばの力を、一つのテスト、一つの技能、一つの数字だけで判断しないという考え方は、在外のお子さまの日本語を見るうえでも非常に参考になると思います。 「話す力」の中にさえ、違う力がある さらに興味深いことがあります。旧版のDLAでは、「話す力」そのものについても、基礎的な会話、対話、そして、自分の考えや意見をまとめて述べる力を分けて見ていました。 つまり、「今日学校どうだった?」「楽しかった」と答えられることと、「なぜそう考えたのか、自分の意見を説明してください」に答えられることは、同じ「話す」でも少し違うのです。 これは教室で子どもたちを見ていても、とてもよく感じます。日常会話は非常に流暢。でも、「どうして?」「例えば?」「反対の立場だったら?」と少し掘り下げると、説明が難しくなる。 この場合、「日本語ができない」のではありません。日常会話に必要な日本語は十分に育っている一方、説明したり、考えを構造化したりする日本語を使う経験が少ないと見る方が適切だと思います。 日本語継承語の研究でも、能力は一つにまとめられていない これまでの記事でも紹介してきた、日本語を継承語として育てている427人を対象とした2025年の研究があります。この研究でも、日本語能力について、話す、理解する、読む、書くを別々に尋ねています。また、この研究では、日本語の語彙発達に大きな個人差があることも示されています。 日本語継承語話者と日本語環境で育った子どもの語彙得点は、幼児期には大きな差が見えにくかった一方、平均的には5歳7か月頃から差が現れ、その後も青年期まで続きました。同時に重要なのは、継承語話者の中にも非常に大きな個人差があったということです。 つまり、「海外で育てば日本語が必ず遅れる」という話ではありません。実際、この教室にも、日本国外で幼い頃から育っているにもかかわらず、日本の同年代と比べても非常に高い日本語力を持つお子さまがいます。 一方で、日常会話から受ける印象と、語彙・読解との間にかなり大きな差があるお子さまもいます。大切なのは、海外にいるかどうかだけではなく、その子がどのような日本語経験を積んできたのかを見ることなのだと思います。 教室で、意外な結果が出ることがある Sakura国語のワークショップでは、子どもの語彙や読解の状態を知る一つの材料として、読書指数診断などのアセスメントを利用しています。そこで時々、保護者の方が非常に驚かれる結果が出ることがあります。 中学生のお子さま。日本語で普通に会話しています。家でも日本語です。本人も、「日本語は分かる」と言います。ところが、語彙や読解の問題に取り組んでみると、同年代の日本の子どもを基準にした場合、かなり易しい段階の問題からつまずくことがあります。保護者からすると、「こんなに日本語を話しているのに?」という感覚です。これが、会話だけでは見えない日本語です。 「小学3年生相当」と出ても、「この子は小学3年生の能力」という意味ではない ここは、とても重要なので強調したいと思います。例えば、中学生のお子さまの語彙テストで、「小学3~4年生相当」といった結果が出たとします。これを、「この子の日本語力は小学3年生」と解釈するべきではありません。まして、思考力が小学3年生。知能が小学3年生。学力全体が小学3年生。という意味では全くありません。 インター校では年齢相応、あるいはそれ以上の内容を学んでいるかもしれません。英語では難しい文章を書いているかもしれません。数学も科学も年齢相応に理解しているかもしれません。ただ、今回測った日本語の語彙や読解の一部分では、日本の同年代の平均とは差があったということです。この区別は非常に大切です。 アセスメントは、子どもに「点数をつける」ためではない 私は日本語のアセスメントを、子どもを評価するためのものとは考えていません。「あなたは日本語ができません」と言うためでもありません。目的はむしろ逆です。 今、どこまでできているのかを知る。そして、次に何をすればいいのかを考えるためです。例えば、会話力は十分にある、ひらがな・カタカナも読める、でも語彙が少ない。それであれば読書量を増やすことを考えられます。 語彙はある。でも長い文章になると内容をつかめない。そのようなお子さまには要約や文章構造を捉える練習が必要かもしれません。 読むことはできる。でも自分の考えを書くことが難しい。それであれば作文や表現活動を増やす。 というように、何を補えばよいかが見えてきます。文部科学省も、ことばのアセスメントについて、一人ひとりを多角的に把握し、評価を指導目標や内容の決定につなげることを重視しています。私は、この考え方がとても大切だと思っています。 日本を出たときの日本語が、そのまま残っているように見える子もいる 教室でいろいろなお子さまを見ている中で、個人的に興味深いと感じることがあります。例えば、小学3年生で日本を離れた。その後、中学生になった。日常会話は今でも自然です。でも、語彙や読解を見てみると、日本を離れた頃の学齢に比較的近いところで難しさが出る。そんなケースに出会うことがあります。 もちろん、「日本を出た年齢で日本語力が止まる」という法則があるわけではありません。私たちの教室での観察だけから、そんなことを一般化することはできません。日本を離れた後も、読書を続けている。補習校へ行っている。日本語で作文を書いている。日本へ定期的に帰っている。日本人の友達がいる。というお子さまは、その後も日本語を大きく伸ばしています。 ただ、逆に、海外へ移った時点から、日本語での教科学習も、読書も、読み書きも、ほとんど止まった場合、その後増えていくはずだった学習語彙への接触が大きく減ることは考えられます。 2025年の日本語継承語話者の研究でも、日本での集中的な日本語環境への接触や、日本語での読書・作文・宿題などのLiteracy経験が、語彙や総合的な日本語能力と関係していました。ですから、日本を出た「年齢」そのものが日本語力を決めるのではなく、その後、日本語でどんな経験を続けてきたのかの方が重要だと考えるべきでしょう。 「うちの子は大丈夫」という感覚を否定する必要はない ここまで読むと、「では、親の感覚は信用してはいけないの?」と思うかもしれません。そんなことはありません。親だからこそ分かることもたくさんあります。どんな言葉を使うか。祖父母と話せるか。日本語の映画を理解しているか。日本語を嫌がっているか。どんな話題なら日本語で深く話せるか。こうした情報は、テストだけでは分かりません。 実際、文部科学省の現在のことばの評価でも、一つのペーパーテストだけで判断するのではなく、普段の生活や学習の様子、対話型アセスメント、その他のテストなどを組み合わせて多面的に見る考え方が示されています。つまり、親の観察か、テストかという二者択一ではありません。両方を見る。その方が、子どものことばの姿をより正確に捉えられます。 一つのテストだけですべては分からない 同じ理由で、私は読書指数診断を含め、一つのアセスメント結果だけで、「この子の日本語はこうです」と決めてしまうことにも慎重でありたいと思っています。 その日の体調。問題形式への慣れ。集中力。テストへの緊張。得意なジャンル。さまざまなものが結果に影響します。 また、語彙テストでは語彙は見えますが、実際の会話力すべてが分かるわけではありません。読解テストでは読解の一部は見えますが、作文力すべてが分かるわけではありません。だから、テストは「判定」ではなく「手がかり」として使うくらいがちょうどよいと思っています。 大切なのは「何点だったか」ではなく、その後どうするか 例えば、語彙が同年代より少ないことが分かったとします。それを見て、「大変だ。遅れている」と焦るだけでは、あまり意味がありません。次に考えたいのは、「なぜだろう?」です。 日本語の本をほとんど読んでいない?日本語を使う相手が親だけ?年齢相応の内容について日本語で話す機会がない?漢字が難しくて読書を避けている?本人の興味に合う本がない?そこで初めて、対策が見えてきます。 例えば、犬が好きなら犬の本。サッカーならサッカー。歴史なら歴史。読書が難しいならオーディオブックと併用する。書く力が弱いなら、いきなり作文用紙を渡すのではなく、「今日一番面白かったことは?」から始める。 つまり、数字を見て終わるのではなく、その数字から子どもの環境を見直す。それがアセスメントの意味だと思います。 日本の同年代と比較する必要はあるのでしょうか ここも、海外在住の家庭では悩むところです。 「海外で暮らしているのだから、日本の子と比べなくてもいいのでは?」 その通りだと思います。 すべての在外のお子さまが、日本の同年代と全く同じ国語力を持つ必要はありません。海外の学校では、英語や現地語も学んでいます。複数言語の中で生活しています。日本の学校に毎日通っている子どもと、条件が違います。 だから、「日本の平均より下だから問題」とは考えるべきではありません。ただし、 将来日本へ帰国する予定がある。日本の学校へ進む可能性がある。日本語で大学教育を受ける可能性がある。日本語で仕事をする可能性を残したい。という場合には、現在、日本の同年代とどのくらい距離があるのかを知っておくことには意味があります。 比較は、優劣を決めるためではなく、将来必要になる場所まで、どのくらい距離があるのかを知るために使えばよいのだと思います。 「日本語をどこまで育てるのか」を家庭で決める これまでの記事でも何度か書いてきました。すべての家庭が、日本語を日本の同年代と同じ水準まで育てる必要はありません。 海外へ永住する。大学も海外。仕事も海外。日本語は祖父母と話せれば十分。という家庭もあるでしょう。それも一つの選択です。 一方、数年後には帰国する。日本の高校受験をする可能性がある。日本の大学も選択肢に残したい。将来、日本でも仕事ができるようにしたい。という家庭なら、求められる日本語は違います。 つまり、本当に大切なのは、「今、日本語ができるか」だけではありません。「将来、この子にどんな日本語が必要なのか」です。 そこが決まれば、今どこにいるのかを測る意味も出てきます。 半年、1年ごとに「今どこにいるか」を確認する 子どもの言語は変化します。特に海外では、学校で使う言語が急速に強くなることがあります。日本語も、本を読み始めると急に伸びることがあります。 逆に、生活から日本語の読み書きがなくなると、日常会話は維持されているのに、文章との距離だけが広がっていくこともあります。 ですから私は、一度テストをして終わりではなく、一定期間ごとに変化を見ることに意味があると思っています。半年後や1年後に、語彙数や読書速度、読んでいる本の内容、説明する力など大切なのは、日本の平均との差だけではなく、本人自身が前回からどう変わったかを見ることです。 日本語力を「点」ではなく「地図」として見る 私は、日本語のアセスメントを、点数表というより、地図のように考えると分かりやすいと思っています。 例えば、 会話:強い 聞く:強い ひらがな・カタカナ:問題なし 漢字:少し弱い 語彙:年齢に比べて少なめ 物語の読解:得意 説明文:苦手 作文:短い文章なら書ける 意見+根拠:まだ難しい こうやって見ると、「日本語ができない」という話ではありません。強いところと、これから伸ばしたいところが見えてきます。そして、どこから手をつければいいのかも分かります。語彙が弱いなら読書。読解が弱いなら、前後関係や文章構造を一緒に考える。書くことが弱いなら、まず話した内容を文章にしてみる。文字が弱いなら、年齢より簡単な読み物から文字への負荷を下げる。一人ひとり違っていいのです。 本当に危険なのは「日本語が弱いこと」ではなく、気づかないことかもしれない 海外で育っているのですから、日本語に得意・不得意があること自体は不思議ではありません。私は、それを問題だとは思いません。英語が強い。オランダ語が強い。日本語は会話が強い。読むのは少し弱い。それも、その子の多言語能力の一つの形です。 ただ、数年後に日本へ帰る予定なのに、「日本語は話しているから大丈夫」と思い続け、帰国直前になって初めて、日本語の教科書が読めないことに気づく。これは、できれば避けたいと思います。 なぜなら、早く分かれば、少しずつ準備できるからです。1年かけて本を読む。語彙を増やす。作文を始める。日本語で社会や理科の記事を読む。できることはたくさんあります。 でも、残り3か月で全部取り戻すとなれば、子どもへの負担は大きくなります。だから、アセスメントの目的は不安にさせることではありません。早く気づいて、無理のない選択肢を増やすことなのだと思います。 「日本語は大丈夫?」ではなく、「どの日本語が育っている?」 この連載で、何度も書いてきたことがあります。海外での日本語教育を、「日本語を忘れないため」だけにしないでほしいのです。 子どもは成長しています。10歳なら10歳の日本語。12歳なら12歳の日本語。15歳なら15歳の日本語。本人の年齢とともに、日本語も成長していく必要があります。 そのためには、「日本語は大丈夫?」という一つの質問だけでは足りません。もう少し分解して、 聞いて理解できる? 日常会話できる? 自分の気持ちを説明できる? 知らない人にも出来事を説明できる? 日本語の本を読める? 知らない言葉を前後から推測できる? 説明文を理解できる? 自分の意見を書ける? 理由や根拠まで説明できる? と見てみる。 すると、その子の日本語が、もっと立体的に見えてきます。 「できないところを探す」のではなく、「次に伸ばすところを探す」 アセスメントをするとき、どうしても「できなかったところ」に目が行きます。 でも私は、そう考えなくてもいいと思っています。会話ができる。それは大きな強みです。物語なら読める。それも強みです。漢字は弱いけれど、内容は理解できる。それなら、漢字を少し補えばさらに読めます。 語彙は少ないけれど、本が好き。それなら、これから大きく伸びる可能性があります。大切なのは、「できないところを証明すること」ではなく、「次にどこを伸ばせばよいのかを見つけること」です。 「日本語は大丈夫だと思っていたのに」という驚きが、「では、これから何をしよう」に変われば、アセスメントには大きな意味があります。 海外で育つ子どもの日本語は、とても複雑です。英語もある。現地語もある。日本語もある。家庭と学校では言語が違う。聞く力と読む力も違う。 だからこそ、一つの点数、一つの学年、一つの「できる・できない」で判断しない。その子が持っている言葉の力を、いろいろな角度から見る。そして、家庭が将来必要としている日本語と、今のお子さまの日本語との間に、どんな距離があるのかを見る。私は、それが在外のお子さまの日本語教育を考えるうえで、とても大切なのではないかと思っています。 参考資料 文部科学省「文化的言語的に多様な背景を持つ外国人児童生徒等のための対話型アセスメントDLA」 文部科学省「文化的言語的に多様な背景を持つ外国人児童生徒等のためのことばの発達と習得のものさし」 Kubota, M. & Rothman, J. (2025), Modeling individual differences in vocabulary development: A large-scale study on Japanese heritage speakers, Child Development, 96(1), 325–340.

「本を読まない子」に、名作を与える前に考えてほしいこと

2026年9月15日

「本を読まない子」に、名作を与える前に考えてほしいこと

読書への入口は、「良い本」ではなく「好きなもの」かもしれない 日本語の読書がなかなか進まない。本を渡しても読まない。最初の数ページでやめてしまう。「うちの子は本が嫌いなんです」海外で日本語を育てているご家庭から、こうした相談を受けることがあります。 確かに、本を読むこと自体があまり好きではないお子さまもいるでしょう。でも教室で子どもたちを見ていると、ときどき思うことがあります。本を読むことが嫌いなのではなく、まだ「読みたい本」に出会っていないだけなのではないか。今回は、そんなことを強く感じた、あるお子さまのお話から始めたいと思います。 日本語の本を読むことが、あまり好きではなかった子 そのお子さまは、日本語で会話することはできます。でも、日本語の読書はあまり得意ではありませんでした。本を渡しても、積極的に読みたいという感じではありません。知らない言葉も出てきます。漢字もあります。学校では別の言語を使っていますから、日本語で文章を読むこと自体に少し負荷があります。 「読書をしましょう」と言われても、本人にとっては、楽しいことというより、日本語の勉強に近かったのかもしれません。 そんな中、ご家庭で犬を飼い始めたご家庭がありました。そのお嬢さまは犬が大好きでしたので、少し本の選び方を変えてみることにしました。犬が登場する物語だけではありません。介助犬について書かれたノンフィクションや障害のある人を支える犬についての本、犬と人との関係を扱った本など、本人の興味に近いものを選んで渡してみました。 すると、少しずつ様子が変わりました。 「読まされている」から、「知りたい」に変わった 最初に起きた変化は、急に読解力が上がったことではありません。本を読む理由ができたことでした。 犬についてもっと知りたい、この犬はどうなるのだろう、介助犬はどうやって人を助けるのだろう、なぜこの犬はこんな行動をするのだろう。 そこに本人自身の「知りたい」がありました。すると、知らない言葉が出てきても、前ほど簡単には本を閉じなくなります。少し難しい文章でも読み進め、分からないところを聞来たりしながら次の本を読む。そこから、犬とは直接関係のない本にも少しずつ読書が広がっていきました。 気がつけば、「日本語の本を読ませる」状態から、「本人が本を読む」状態へ変わっていたのです。 私はこの経験から、本を選ぶときに、「この子に読ませるべき本は何だろう」だけではなく、「この子は今、何を知りたいのだろう」と考えることが、とても大切なのだと改めて感じました。 親が選ぶ「良い本」と、子どもが読みたい本は違う 子どもに本を読ませたいと思うと、私たち大人はつい、名作や推薦図書、受賞作品など「せっかくなら良い本を」と考えます。 もちろん、どれも悪いものではありません。でも、その本がどれだけ素晴らしくても、本人にとって興味がなければ、読まれない本は、読書経験にはなりません。 一方、恐竜が大好きな子なら恐竜の本、サッカーが好きならサッカーの本、宇宙が好きなら宇宙の本など、本人がすでに強い関心を持っている分野なら、そこには最初から、「続きを読みたい理由」があります。 読書研究でも、読書への動機づけと実際の読書量、読解成績には関連があることが長く指摘されています。読書への内発的な動機や興味は、子どもがどれだけ読むかを考えるうえで重要な要素です。 「物語を読まない=読書嫌い」ではない ここも、私はとても重要だと思っています。日本語の読書というと、児童文学や物語を読ませようとしがちです。でも、物語にそれほど興味を持たない子どももいます。その一方で、昆虫図鑑なら時計を忘れて没頭し、サッカー選手の伝記なら何冊も続けて読み、科学実験の本なら朝から晩までながめている、そのようなお子さまが少なからずいます。 読書の入口で大切なのは文学作品を読むことより、日本語の文字を自分から追い続ける経験を作ることではないでしょうか。 ノンフィクションにも専門語彙があり説明があります。原因と結果があり、数字・比較があります。知らない世界もあります。そして、「もっと知りたい」と思えば、次の本へつながります。 犬について知りたいから本を読む。本を読んだ結果、犬についてだけでなく、新しい日本語にも出会う。この順番でよいのではないでしょうか。 在外のお子さまの場合、「興味」はさらに重要 海外で育つお子さまの場合、日本語の本を読むには、もう一つハードルがあります。普段学校で読んでいる言語と、日本語が違います。英語やオランダ語では年齢相応の文章を読めるのに、日本語になると漢字が難しく、読書に時間も掛かります。知らない言葉も数多くあります。だから、同じ本を読むにも負荷が高くなります。 例えば12歳のお子さまが、日本語では9歳向け程度の本なら読みやすいとします。しかし本人の興味や知的好奇心は12歳です。9歳向けの内容では、読めるけれど、面白くない。一方、12歳向けの本は、面白そうだけれど、日本語が難しい。ここに、在外のお子さま特有の難しさがあります。 前回でも触れましたが、本人の知的年齢と、日本語で読める文章のレベルがずれることがあるのです。 だからこそ、本の内容そのものへの強い興味が助けになります。多少日本語が難しくても、「知りたい」があれば、読み進める理由になります。 難しい言葉があっても、興味があれば乗り越えられることがある 犬の本を読んでいたお子さまにも、始めて触れる言葉は当然ありました。例えば 介助 障害 訓練 信頼 役割 判断 こうした言葉は、日常の家庭会話では頻繁には使わないでしょう。でも、本人には犬について知りたいという目的があります。だから、「介助って何?」と聞く。判らないことばの前後の文章を読み直し、語彙を推察する。そして語彙を確認し、次に同じ言葉が出てきたときにはある程度想像がつく。この作業を繰り返すことにより、語彙学習が目的なのではなく、知りたいことを理解する過程で語彙が増えるという状態になります。これは読書の非常に大きな強みです。 特に教室で行っている”読書で育てる国語力クラス”なら単元毎に、重要な語彙を確認しながら読書を進めていくために、効率的に語彙力をUPする事ができます。言葉に「情景」がつくのです。 「興味のある本なら、難しくても何でもいい」ではない ただし、ここには注意も必要です。好きなテーマであれば、どれだけ難しい本でもよいわけではありません。毎ページ辞書を引かなければ理解できない程難しい本だと、本人の興味よりも「読む負荷」の方が大きくなります。 2024年の独立読書に関するメタ分析でも、特に読むことに苦労する子どもは、自分に適した本を選ぶこと自体が難しい場合があると指摘されています。単に「好きな本を自由に読んで」とするだけでなく、適切な本との出会いを支援することが重要です。 だから、本人に選ばせることと、大人が支援することは両立します。私は、「これを読みなさい」ではなく、「犬が好きなら、この3冊はどう?」という関わり方がよいと思っています。選択肢は大人が用意し、最後は本人が選ぶ。このバランスがいいのだと考えています。 子どもに「本を選ばせる」ことの意味 学校教育の研究でも、子どもが選択できることは学習への参加意欲と関係することが報告されています。2024年の中学生を対象にした研究でも、読む本や課題に選択肢を持たせることと、感情面・行動面・認知面での授業参加の高まりとの関連が報告されています。もちろん、一つのクラスでの研究ですから、「自由に選ばせれば必ず読書好きになる」という意味ではありません。 ただ、自分で選んだ本と、親から「これはあなたのためになるから読みなさい」と渡された本では、子どもにとって意味が違うことは想像しやすいと思います。 読書を、親から与えられる課題から、自分の選択へ変える。これは、特に年齢が上がるほど重要になってくると思います。 在外のお子さまだからこそ、「日本語で好きなもの」を作る 海外で育つお子さまの場合、好きなものについて調べる言語そのものが、英語や現地語になっていることがあります。サッカーについて調べるなら英語。ゲームの攻略を見るのも英語。好きな俳優について検索するのも英語。科学の動画を見るのも英語。これは当然です。学校や友人の言語が英語や現地語だからです。 その結果、日本語は、親や祖父母と話す言語、日本語の宿題をする言語。になりやすいです。そこで、自分の「好き」と日本語をつなげてみることに意味があります。そうすると日本語が、「親から維持するように言われている言葉」ではなく、自分の興味へアクセスするための言葉になります。 これは継承語として日本語を残していくうえで、とても重要だと思います。 日本語で「楽しみのために読む」こと 米国で育つ15~18歳の日本語継承語話者を対象にした研究では、家庭環境やさまざまな要因を分析した結果、日本語で楽しみのために読書することが、日本語の語彙力を予測する要因の一つとして示されています。 ここで私が注目したいのは、「国語の問題を解く」ではなく、reading for pleasure――楽しみのために読むという点です。 日本語を育てるために読ませる、語彙を増やすために読ませる、帰国後に困らないために読ませる、もちろん親にはそうした目的があります。 でも子ども自身にとっては、もっと単純に「面白いから読む」でよいのだと思います。むしろ、その方が読書は長く続きます。 読書のたびに「勉強」にしない せっかく子どもが本を読み始めたのに、親がつい、「この言葉どういう意味?」「主人公はどう思っていた?」「このページを要約して」「漢字、読めた?」と聞きすぎてしまうことがあります。もちろん、ときどき本について話すことはとても良いことです。 でも、毎回読解テストになると、子どもにとって、 本を読む=問題を出される になってしまいます。 自分自身に置き換えても、小説を読んだ直後に毎回、「では、この章の要旨を200字以内で説明してください」と言われたら、そのうち読書が嫌になると思います。 時にはただ読んで終わる。それでいいと思います。「面白かった?」「うん」だけでもいい。本人が話したそうなら聞く。質問してきたら一緒に考える。読書そのものを楽しむ時間を残しておくことも重要です。 すべての知らない言葉を調べなくていい 同じように、分からない言葉が一つ出るたびに、「辞書で調べなさい」と読書を止める必要もありません。分からない言葉があっても、話の流れが分かるなら読み進めていい。重要な言葉なら、一緒に考える。何度も出てくるなら意味を確認する。前後から推測する。そうやって、ストーリーや内容への没入を壊さないことも大切です。 2024年のメタ分析では、独立読書に教師による支援などを加える介入は全体として読解力に小さいながらプラスの効果がありましたが、一方で読書中の過度な支援・指導は、読書への没入を妨げる可能性も示唆されています。 「教えること」と「読ませること」は、いつも同時でなくてもいいのです。 漫画でもいいのでしょうか? よく聞かれる質問です。私は、入口としては、漫画でもいいと思っています。吹き出しを追い、知らない表現に出会い、ストーリーを理解し、次を読みたいと思う。これだけでも、日本語の文字に触れています。 ただし、漫画だけですべての日本語読解を育てられるとは思いません。漫画には絵があるため、文章だけを読んで状況を構築する負荷は低くなります。長い説明文や論理的文章に触れる量も限られます。 だから、漫画から始まり、興味のあるテーマの本へ。短い本から長い本へ。物語からノンフィクションへ。というように、少しずつ読む世界を広げていく事が必要だと思います。 入口は何でも構いません。重要なのは、そこから次へ進めることです。 大人の役割は「先生」より「司書」に近い 子どもに読書をしてほしいとき、大人はつい先生になろうとします。「これはあなたの学年なら読めるはず」「これは良い本だから読みなさい」「30分読んだ?」「感想を書いて」 でも、私は海外の日本語読書では、親の役割は先生よりも司書に近いと思っています。この子は何が好きだろう。今、何に興味があるだろう。どのくらいの日本語なら無理なく読めるだろう。この本の次には何があるだろう。少しだけ難しくするなら何を渡そう。 そんなふうに、本人と本の間をつなぐ。そして、本を渡したら少し離れる。これくらいがよいと思います。 「本を読まない」のではなく、「選び方」が合っていないこともある 読書が苦手なお子さまには、本当にさまざまな理由があります。 日本語が難しい。漢字が苦手。読む速度が遅い。内容が幼い。興味がない。本を読むより動画の方が楽しい。読むこと自体に苦手意識がある。 だから、「本を読みなさい」だけでは解決しません。まず、なぜ読まないのかを見る必要があります。 特に在外のお子さまの場合、「本人の知的レベルに合う本」と、「本人の日本語で読める本」が一致していないことがあります。ここを調整してあげることが、親と講師の大切な仕事だと思います。 読書が増えた時期に、学校の成績にも変化があった 冒頭で紹介したお子さまは、犬をきっかけに本を読むようになり、その後、読む本の種類も少しずつ増えていきました。そして同じ頃、インター校での成績にも改善が見られるようになりました。 ただし、ここは慎重に考える必要があります。日本語の本を読んだから、インター校の成績が上がったと断定することはできません。 本人自身が成長した、学校に慣れた、英語力が伸びてきた、勉強方法が分かってきた、など、さまざまな理由が考えられます。 ただ、私から見て印象的だったのは、以前は文章を読むことそのものに抵抗があったお子さまが本を読み始めてから、文章に向き合うことを嫌がらなくなっていったことでした。 これは一つの事例にすぎません。でも、「本を読む習慣」が日本語だけに閉じた技能ではなく、文章を読むこと、情報を追うこと、分からないものを前後から考えること、長い内容に集中すること、といった学習行動全体と重なる部分があることは、考えてよいと思います。 読書への動機づけと読書活動、読解力との関連については、多くの研究でも報告されています。ただし、それらは相互に影響し合う関係であり、単純な一方向の因果関係とは限りません。 読書好きにすることを、ゴールにしなくてもいい すべての子どもが、毎週何冊も小説を読む「本好き」になる必要はありません。大人にも本が大好きな人と、必要なときだけ読む人がいます。それでいいと思います。 海外で日本語を育てるうえで大切なのは、少なくとも、日本語で読むことを嫌いにならないこと。そして、必要なときには日本語の文章から情報を取れること、興味のあるものなら、自分から日本語でも読んでみようと思えること。その状態を作ることではないでしょうか。 「何を読ませるか」より、「何が好きか」を聞いてみる 子どもが本を読まないとき、私たちはすぐ、「おすすめの児童書は何ですか?」「小学5年生なら何を読めばいいですか?」と考えます。もちろん、読書レベルに合った本を探すことは重要です。 でもその前に、一つだけ聞いてみてください。「今、何が一番好き?」その答えの先に、その子が初めて自分から開きたくなる日本語の本があるかもしれません。 海外で日本語の読書を続けることは簡単ではありません。だからこそ、最初から「国語力を伸ばす本」を探す必要はないと思います。まず、本人が読みたい本を見つける。読んで面白いと感じ、次にまた読みたいと思う。 その結果として新しい言葉に出会い。文章を読む量が増え、少し長い本も読めるようになる。 読書習慣をつくる第一歩は名作を本棚に並べることではなく、その子の「好き」と日本語の本をつなぐことだと、今の教室をはじめてから感じています。 参考資料 Merke, S., Ganushchak, L. & van Steensel, R. (2024), Effects of additions to independent silent reading on students’ reading proficiency, motivation, and behavior: Results of a meta-analysis, Educational Research Review, 42. Wigfield, A., Gladstone, J. R. & Turci, L. (2016), Beyond Cognition: Reading Motivation and Reading Comprehension, Child Development Perspectives. Baker, L. & Wigfield, A., Dimensions of Children's Motivation for Reading and Their Relations to Reading Activity and Reading Achievement, Reading Research Quarterly. Mori, Y. & Calder, T. M. (2017), The Role of Parental Support and Family Variables in L1 and L2 Vocabulary Development of Japanese Heritage Language Students in the United States, Foreign Language Annals.

在外のお子さまは、日本語を流暢に話せても、読む・書く力が同じように育っているとは限りません。会話力と読み書きの違い、家庭で意識したい日本語教育のポイントを解説します。

2026年9月9日

在外のお子さまの日本語|「話せる」と「読める・書ける」は別の力

会話が流暢だからこそ読み書きの遅れは見えにくい、という現実 海外で育つ子どもたちの日本語を見ていると、とても興味深いことがあります。 日本語で普通に話している。 冗談も言える。 親が言っていることも理解している。 日本のアニメも楽しんでいる。 だから保護者から見ると、「うちの子は日本語は大丈夫」に見えます。ところが、実際に日本語の文章を読んでもらうと、少し様子が変わることがあります。 漢字が読めない。 文章になると読む速度が急に落ちる。 一文ずつは読めても、全体として何が書いてあるのか分からない。 そして、「じゃあ、これについて自分の考えを書いてみて」と言うと、さらに難しくなる。 教室では、小学校高学年、ときには中学生になっていても、ひらがなやカタカナを書くことにかなり苦労するお子さまに出会うこともあります。でも、本人と日本語で話しているだけでは、そのことに気づかないことがあります。なぜなら、話す日本語はかなり流暢だからです。ここに、海外での日本語教育の非常に見えにくい落とし穴があります。 「日本語力」を一つの能力として考えない 私たちはつい、「この子は日本語ができる」もしくは「日本語が弱い」と、一つの能力のように考えてしまいます。でも、実際には日本語にはさまざまな力があります。 聞く 話す 読む 書く さらに読む中にも、 文字が読める 単語の意味が分かる 文章の内容を理解する 筆者の意図を読み取る 複数の情報を関連づける といった違う力があります。書くことも同じです。 ひらがなを書く 漢字を書く 文章を作る 出来事を順序立てて説明する 理由を書く 自分の意見と根拠を構造化する これらは全部同じ能力ではありません。 日本語を継承語として育てる子ども427人を対象とした2025年の研究でも、日本語能力を調べる際には、話す・理解する・読む・書くがそれぞれ別の項目として評価されています。また、読書・作文・宿題などのLiteracy活動が独立した言語経験として分析され、日本語能力との関連が示されています。 つまり、日本語を話せることと、日本語を読んだり書いたりできることは、分けて考える必要があるのです。 なぜ「話す」はできるのに、「読む・書く」は難しいのか 考えてみると、これはそれほど不思議なことではありません。子どもは、日本語の会話を毎日家庭で使っているかもしれません。朝起きて、「おはよう」、「早く着替えて」、「今日何時に帰ってくる?」。学校から帰れば、「今日どうだった?」、「お腹すいた」、「宿題終わった?」こうした日本語を何年も使っています。 でも、 ひらがなを毎日読んでいるでしょうか? カタカナを書いているでしょうか? 日本語の長い文章を読んでいるでしょうか? 日本語で作文を書いているでしょうか。 インター校や現地校へ通っていれば、学校で毎日行っている読み書きは英語やオランダ語です。つまり、話す日本語には毎日練習する機会があるのに、読む・書く日本語にはほとんど練習する機会がないという状態が起こります。 そう考えれば、会話力と読み書きに差が生まれること自体は、むしろ自然です。継承語話者は、教育を受ける多数派言語では読み書きを身につけやすい一方、継承語では聞く・話す能力と読み書き能力に大きな個人差が生じることが知られています。研究レビューでも、継承語話者の能力は聞く・話す・読む・書くの各領域で一様ではないことが指摘されています。 文字は、会話しているだけでは自然には身につかない ここは非常に重要です。日本語をたくさん聞いていれば、ある程度日本語を話せるようになります。でも、「ありがとう」と何千回聞いていても、それだけで自然に「あ・り・が・と・う」と書けるようになるわけではありません。まして、「ありがとうございます」と、「有り難うございます」の違いを自然に理解するわけでもありません。 文字は、文字を見て、音と結びつけ、読んで、書いて、何度も使うことで身についていきます。日本で育つ子どもには、この機会が身のまわりに溢れています。幼稚園の名札や絵本、街中の看板、テレビの字幕、学校のプリント、教科書、黒板、宿題などなど、列挙し出すと切りがありません。 日本語が生活の中に文字として存在しています。海外で生活すると、この「文字としての日本語」が一気に限定されてしまいます。家庭で日本語を話していたとしても、日本語を文字として目にする量は、日本で生活する子どもとは全く違うのです。 ひらがな・カタカナが書けないことを、責めるべきではない 教室で、小学校高学年や中学生でも、ひらがな・カタカナの書字に苦労するお子さまを見ることがあります。例えば、「ぬ」と「め」が混乱する、「シ」と「ツ」が分からない、促音の「っ」をどこに入れるのか分からない、長音をどう書くのか迷う、文章のどの部分がカタカナになるのか判らない、言葉は知っているのに文字にできない。 でも、私はこれを、「中学生なのに、こんなことも書けない」と考えるべきではないと思っています。本人は、学校で英語やオランダ語を使って毎日勉強しています。そちらの言語ではEssayを書き、Presentationをし、難しい内容を理解しているかもしれません。 単に、日本語を書く経験が圧倒的に少なかっただけかもしれません。書くという能力は、話す能力とは別に練習する必要があります。 日本で育つ子どもについての研究でも、ひらがなの読みの力と、その後のひらがな・漢字の読み書き能力には関連があり、読み書きの技能が段階的に発達していくことが示されています。 ですから、「話せるのになぜ書けないの?」ではなく、「これまで書く機会がどのくらいあっただろう?」と考えた方がよいと思います。 日本語入力ができることと、日本語を書けることも少し違う 最近はもう一つ、興味深いことがあります。スマートフォンなら日本語で文章を打てる。LINEなら日本語でメッセージできる。でも、「紙に書いてみて」と言うと書けない。ということがあります。 スマートフォンなら、「きょうはがっこうにいきました」と入力すれば、「今日は学校に行きました」と変換してくれます。「学校」という漢字を書けなくても、読むことさえできれば選べます。これは悪いことではありません。現代社会では、手書きよりタイピングする機会の方が多いでしょう。ですから、「漢字を手で全部書けなければ日本語ができない」とも思いません。 ただし、入力できること、読めること、手で書けること、文章を構成できることは、それぞれ違う能力だということは理解しておく必要があります。 重要なのは、「学校」という漢字を手書きできるかだけではありません。「今日学校であった出来事を、知らない人にも分かるように説明してください」と言われたときに、日本語で文章を組み立てられるか。私は、こちらの方がより重要だと思っています。 「書く」は、文字を書くことだけではない 「日本語を書く力」というと、漢字を書けるかどうかに目が行きがちです。でも、高学年以降になると本当に必要になるのは、考えを文章にする力です。 例えば、「私はこの意見に賛成です」までは書ける。では、「なぜですか?」と聞かれたらどうでしょう。「なぜなら……」と理由を書く。さらに、「具体例を挙げてください」と言われる。そして、「反対の立場の人はどう考えるでしょうか」まで考える。こうなると、単に漢字を知っているだけでは書けません。 頭の中にある考えを、順序立て、必要な情報を選び、相手に伝わるように文章として構成する必要があります。 書くというのは、思考を言葉として外に出し、構造化する作業でもあります。 会話なら、相手が助けてくれる 書くことが難しいもう一つの理由があります。会話では、相手がいます。子どもが、「今日ね、学校であの子がさ、またあれやって……」と言えば、親が、「○○君?」と聞いてくれます。 「うん。それで先生が……」 「怒ったの?」 「そうそう」 と、相手が会話を補ってくれます。表情もあります。ジェスチャーもあります。分からなければ聞き返してもらえます。 でも文章では、相手は横にいません。「あの子」と言われても分かりません。「あれ」では伝わりません。書き手自身が、 誰のことなのか 何が起こったのか なぜ起こったのか どう感じたのか を説明する必要があります。 つまり書くことによって、「自分は分かっている」から「相手にも分かるように説明する」へ思考を変える必要があります。この力は、自然な家庭会話だけでは必ずしも十分に練習できません。 読めないと、「知っている日本語」が増えにくくなる 読み書きの中でも、私はまず「読むこと」が非常に重要だと思っています。なぜなら、読めるようになると、自分で日本語を増やせるようになるからです。 本を読む ニュースを読む インターネットで調べる 漫画を読む 字幕を読む 説明書を読む 日本語で検索する 誰かに日本語を教えてもらわなくても、文字を通じて、自分で新しい日本語を取りに行けるようになります。 逆に、日本語を話せても日本語を読むことが苦手だと、日本語のインプットは人との会話に依存します。家庭で使われている言葉から先へ進みにくくなります。 前回までの記事で何度も取り上げてきた日本語継承語話者427人の研究でも、読書・作文・宿題などの日本語Literacy活動が、日本語能力に関係する重要な要素として示されています。 読むことが、書くことにもつながる ここも重要です。文章を書けるようにするため、「作文をたくさん書かせよう」と考えることがあります。もちろん書く練習は必要です。でも、書く前に、良い日本語をたくさん読むことも非常に重要です。 文章を読めば、「こういうときは『しかし』を使うんだ」、「理由を書くときは『なぜなら』なんだ」、「話が変わると段落が変わるんだ」、「こうやって人物の気持ちを表現するんだ」といった文章の型を、少しずつ取り込んでいきます。 2026年に発表された、9~15歳のバイリンガル児童の継承語としての英語の書く力を3年間追跡した研究でも、家庭での読書習慣がwritingの発達を支える重要な要素として報告されています。特に高いwriting能力を持つ子どもには、自主的な読書や継続的な家庭での読書経験が多く見られました。 対象言語は英語ですから、その結果をそのまま日本語へ当てはめることはできません。ただ、継承語の読み書きは、家庭でその言語を話しているだけで自動的に育つものではなく、文字に触れる活動が重要であるという点は、日本語教育を考えるうえでも非常に示唆的です。 「うちの子は日本語を話せるから大丈夫」が危険なのではない ここで誤解してほしくないことがあります。私は、「日本語を話せても読み書きできなければ意味がない」と言いたいわけではありません。会話できること自体、とても大きな力です。家庭によって、日本語をどこまで育てたいのかという目標も違います。海外に永住し、日本語は家族との会話ができれば十分、と考える家庭もあるでしょう。それも一つの選択です。 問題は、「話せるから、読み書きも必要になればすぐできるだろう」と錯覚してしまうことです。 話す力があることは大きな土台になります。でも、読む・書くためには、文字に触れ、読んで、書く経験が必ず必要なのです。 将来、日本語をどこで使うのかを考えてほしい では、日本語の読み書きをどこまで続けるべきなのでしょうか。これは、すべての家庭に同じ答えはありません。重要なのは、その子が将来、日本語をどのように使う可能性があるのかを考えることだと思います。 例えば、 日本へ帰国する可能性がある。 日本の中学・高校・大学へ進学する可能性がある。 日本で働く可能性がある。 日本の親族との関係を持ち続けたい。 将来、自分の子どもにも日本語を伝えたい。 日本の本やニュースを自分で読めるようにしたい。 そうした可能性が少しでもあるのであれば、「会話ができるから十分」で止めず、日本語を文字でも扱える状態を残しておくことには大きな意味があります。 反対に家庭として、「今後の教育・生活はすべて現地語で、日本語は家族との会話ができれば十分」と考えるのであれば、それも明確な教育方針です。 大切なのは、「気づかないうちに読み書きがなくなっていた」、ではなく、どのレベルの日本語を残すかを、家庭として意識的に選ぶことなのです。 漢字だけに焦点を当てすぎない 日本語の読み書きについて話すと、どうしても、「漢字を何文字覚えていますか?」という話になります。もちろん漢字は大切です。でも、漢字ドリルだけやっていても、読解力や文章力が自然に育つとは限りません。 例えば、「原因」という漢字を書ける。でも、「原因と結果の関係を説明してください」と言われたときに答えられない。それでは十分ではありません。逆に漢字を書くのは苦手でも、文章を読み、内容を理解し、自分の考えを日本語で説明できる。こちらには大きな力があります。 だから私は、日本語の読み書きを、「漢字が書けるか」だけで測らない方がいいと思っています。見るべきなのは、 文章を読めるか 意味を理解できるか 知らない言葉を前後から考えられるか 自分の考えを文章にできるか 相手に分かるように説明できるか という、もう少し広いLiteracyの力です。 読み書きも、いきなり100点を目指さなくていい 前回の記事でも書きましたが、日本語教育は0か100かで考える必要はありません。日本の学校と同じ量の漢字を毎日やる必要はないかもしれません。でも、週に一冊、日本語の本を読む、短い日記を書く、日本語でゲームをするなどの経験でも日本語を文字として使う回路を残すことができます。 大切なのは、日本語が「家族と話すための音」だけにならず、自分で情報を得て、自分の考えを伝えるための文字でもあり続けることだと思います。 読み書きができると、日本語の世界を自分で広げられる 私が、海外の子どもに日本語の読み書きを残してほしいと思う最大の理由は、漢字テストでいい点を取るためではありません。日本へ帰国したとき困らないためだけでもありません。 読み書きができれば、本人が親を介さずに、日本語の世界へアクセスできるからです。 自分で本を選ぶ 自分で検索する ニュースを読む 好きなアーティストの記事を読む 日本の人とメッセージする 大学について調べる 仕事を探す 契約書を読む そして自分の考えを文章で伝える そのとき日本語は、「親から受け継いだ家庭の言葉」から、「自分自身が使える言語」へ変わります。私は、これが読み書きの大きな意味だと思っています。 「日本語は大丈夫」の中身を、一度分解してみる お子さまが日本語で流暢に話していることは、とても大切な力です。でも、一度だけ、「日本語は大丈夫」という言葉を分解してみてください。 日本語を聞いて理解できる? 日本語で日常会話ができる? 知らない人にも出来事を説明できる? ひらがな・カタカナを読める? 書ける? 同年代向けの本を読める? 説明文を理解できる? 自分の考えを文章にできる? 理由や根拠を書ける? 全部できる必要はありません。家庭によって目標は違います。でも、どこまでできていて、どこから難しいのかを知っていることは、とても大切です。海外で育つ子どもの日本語は、「できる」「できない」の二択ではありません。読む、聞く、話す、書く力はそれぞれが違う速度で育ちます。 だから、「日本語を話しているから大丈夫」ではなく、「この子の日本語は、今どんな形で育っているだろう?」と見てみて、そこから、その家庭に本当に必要な日本語教育が見えてくるのではないかと思います。 参考資料 Kubota, M. & Rothman, J. (2025), Modeling individual differences in vocabulary development: A large-scale study on Japanese heritage speakers, Child Development, 96(1), 325–340. Nakamura, J. (2026), English as a Heritage Language in Japan: Writing Development From Late Childhood to Adolescence, Reading Research Quarterly. 花房香(2020)「読み書き能力の発達―就学前から小学2年生までの追跡研究―」 Takahashi, N. & Nakamura, T. (2015), Abilities needed by Japanese children to write kanji: Development of the ATLAN Kakitori subtest, The Japanese Journal of Psychology.

「日本語は来年から」で、本当に間に合う?海外在住のお子さまの日本語教育で見落とされやすい「時間」の問題

2026年9月6日

「日本語は来年から」で、本当に間に合う?海外在住のお子さまの日本語教育で見落とされやすい「時間」の問題

日本語教室へのお問い合わせをいただいたご家庭とお話ししていると、時々こんなお話を伺います。 「日本語は大切だと思っているのですが、今は習い事が忙しくて……」 「今年は学校に慣れることを優先したいので、日本語は来年から考えようと思っています」 「もう少し落ち着いたら、補習校か日本語教室を始めようと思っています」 その判断自体が間違っているとは思いません。海外で暮らす子どもたちは忙しいです。英語や現地語の学習、サッカーやピアノの習い事、オランダではチェスも人気がありますし、お友だちとのスリープオーバー(お泊まり会)もあります。 すべてをやらせることはできません。家庭ごとに優先順位が違うのも当然です。ですから、「今すぐ日本語教室へ通わせるべきです」という話をしたいわけではありません。 でも大切なのは、私の教室でなくとも、補習校やオンラインの教室などに通い、日本語を年齢と一緒に成長させる機会を、完全に止めないことだと思っています。 なぜなら、子どもの日本語には、大人の習い事とは少し違う「時間」の問題があるからです。 1年間休んでも、元の場所で待っていてくれるわけではない 例えば、大人がピアノを習っているとします。1年間忙しくなり、ピアノを休む。翌年再開したとき、多少忘れていることはあっても、基本的には自分が以前いたところから再スタートできます。ピアノそのものが、この1年間で小学4年生から小学5年生になったりはしません。 でも、子どもの日本語は違います。小学3年生で日本語学習を止めたとします。1年後、本人は小学4年生になります。当然、比較対象になる日本の子どもたちも小学4年生です。その間、日本の学校にいる子どもたちは、新しい漢字を覚え、新しい語彙を学び、より長い文章を読み、説明文を読み、理由を説明し、文章を書き、理科や社会を日本語で学んでいます。 つまり、こちらが止まっている間も、「年齢相応の日本語」の方は先へ進んでいます。ここが非常に重要です。 日本語学習を1年間休んだからといって、必ず日本語能力そのものが大きく低下するとは限りません。家庭で日本語を話していれば、日常会話はむしろ上達することもあります。 でも、本人の日本語が以前と同じくらいに保たれていても、同年代との距離は広がる可能性があります。 「落ちる」というより、「伸びる速度が違う」と考えた方が近いかもしれません。 小学3年生の日本語のまま、小学4年生になる 以前の記事でも書きましたが、小学3年生で話せる日本語は、小学3年生としては十分な日本語かもしれません。でも、それをそのまま小学6年生まで維持しても、小学6年生相当の日本語にはなりません。子どもの成長とともに必要な言葉が変わるからです。 低学年なら、「どっちが違う?」「何が先だった?」「どうして?」くらいだったものが、学年が上がるにつれて、「その理由は?」「具体例を挙げて」「二つを比較すると?」「原因は何だと思う?」「この資料から何が分かる?」「筆者の主張は?」「その意見の根拠は?」となっていきます。 さらに中学生になると、「客観的に考える」、「複数の立場を比較する」、「根拠の妥当性を考える」、「具体例から一般化する」といった、より高度な言語と思考が求められます。 つまり、日本語のゴールポストは毎年動いているのです。 「家では日本語だから、来年からでも大丈夫」 ここでよく出てくるのが、「でも家では日本語を話しているので、一年間くらい大丈夫ですよね」という考えです。 もちろん、家庭で日本語を話していることは大きな意味があります。でも、前回の記事でも書いたように、家庭で使う日本語と、読書や学習で使う日本語は、必ずしも同じではありません。 「今日学校どうだった?」「お腹すいた?」「早く寝なさい」「明日はサッカーだよ」という日本語を毎日使っていても、 「原因」 「傾向」 「根拠」 「対照的」 「影響」 「一方で」 「にもかかわらず」 といった言葉を使う機会は、それほど多くありません。つまり、日常会話の日本語は毎日使っていても、学習に必要な日本語はあまり使っていないという状態が起こり得ます。 そのため、「日本語を話しているから日本語学習は止まっていない」とは、必ずしも言えません。 実際、日本語を継承語として育つ子どもの語彙には差が生まれる 以前の記事でも紹介した、日本語を継承語として育てている子ども427人を対象とした研究があります。2025年に『Child Development』に掲載された研究です。この研究では、日本語を継承語として育つ子どもと、日本語環境で育つ子どもの語彙発達を比較しています。 その結果、グループとして見ると、幼児期には大きな差が見られなかったものの、5歳7か月頃から語彙得点の差が現れ、その差は調査対象となった青年期まで続いていました。もちろん、これは、「海外に住むと5歳7か月から日本語が遅れる」という意味ではありません。この研究の参加者は主に英語圏・ドイツ語圏で育った日本語継承語話者であり、個人差も非常に大きくあります。 むしろ重要なのは、幼い頃には日本語環境で育つ子どもとの差が見えにくくても、年齢が上がるにつれて語彙発達の違いが表面化することがあるという点です。これは、教室で子どもたちを見ている実感とも重なります。 低学年では「大丈夫」に見える これが、この問題を難しくしています。小学校低学年の年齢では日本語で普通に話している。祖父母とも話せる。日本のアニメも分かる。簡単な本も読める。だから、「日本語は大丈夫そう」に見えます。 そして、「今は英語を優先しよう」「サッカーを続けたい」「ピアノもあるし」「日本語は来年からでもいいかな」となります。 ところが小学5年生、小学6年生になる頃、日本の同年代向けの文章を読ませてみると、 知らない言葉が急に増える。 文章を読む速度が遅い。 説明文になると理解しにくい。 「どういう意味?」と聞かれても説明できない。 ということが起こる場合があります。本人の日本語が突然悪くなったのではありません。周囲の日本語の方が先へ進んだ結果、差が見えるようになってきた可能性があります。 「来年から」が、何年も続く家庭がある 教室を運営していて、少し気になることがあります。「今年は忙しいので、来年から」とお話しされていたご家庭が、翌年になると往々にしてもっと忙しくなっていることです。学年が上がれば、学校の宿題も増えます。スポーツも本格的になります。音楽を続けていれば練習時間も増えます。友人関係も重要になります。Secondary Schoolへ進めば、さらに忙しくなります。 つまり、「来年になれば時間ができる」とは限りません。むしろ、私が教室を通じて見てきた範囲では、学年が上がるにつれて、日本語を新しく生活に入れることの方が難しくなるケースがほとんどです。 小学2年生なら、「土曜日は日本語の本を読む」という習慣を比較的作りやすい。 でも中学1年生になって突然、「今日から毎週日本語を勉強しよう」と言われても、本人にとっては、「なぜ今さら?」となるかもしれません。 時間の問題だけではありません。生活習慣の問題にもなるのです。 一度離れた日本語を「勉強」に戻すのは意外に大変 幼い頃から日本語の本を読むことが日常に入っている子にとって、日本語の読書は、「勉強」ではありません。本を読むだけです。日本語で話すことも、「日本語学習」ではありません。普通に話しているだけです。 でも数年間、日本語で読み書きをほとんどしなかった後で再開すると、日本語は突然、「追加の勉強」になります。 学校では英語やオランダ語で十分勉強している。その後漢字を覚える、日本語の本を読む、作文や感想文を書く 本人からすると、「なぜ?」となります。しかも、その時点では日本語の本が難しくなっています。同年代向けの本は読みにくい。でも簡単な本では内容が幼すぎて面白くない。これは海外で日本語読書を再開するときに、よく起こる問題です。知的な年齢と、日本語で読める本の年齢が合わなくなるのです。 12歳なのに、日本語では7~8歳向けの文章しか楽に読めない。でも12歳の本人は、その内容には興味を持てない。だから読まない。読まないので、さらに読む力が伸びない。こうした循環に入ると、日本語を再開するハードルは一段高くなります。 だから「少しだけ続ける」ことに意味がある では、海外にいる間、日本の学校と同じだけ国語をやらなければならないのでしょうか。私はそうは思いません。家庭によって目標は違います。日本へ数年後に帰る家庭や海外で高校まで過ごす家庭、永住する家庭など、様々で、それぞれ必要な日本語は違います。 でも、日本語を将来も使える言語として残したいのであれば、ゼロにしないことには大きな意味があると思います。 週に何時間も勉強できなくても、 本を読む 日本語で日記を書く 祖父母に文章を送る 漫画を読む 日本のニュースを一緒に見る 漢字を少し続ける 日本語のオーディオブックを聞きながら文字を追う 補習校へ行く 日本語教室へ通う 何でも構いません。重要なのは、本人の日本語に、新しい言葉と新しい文章が入り続ける状態をつくることです。 「週1回で意味があるの?」という質問 これも時々聞かれます。「週1回、日本語をやるだけで意味がありますか?」もちろん、週1時間だけで日本の学校に毎日通っている子どもと同じ日本語環境を作ることはできません。 でも私は、週1回そのものより、そこから日常へ何がつながるかが重要だと思っています。例えば、一冊の本を読み始めると、面白くなって家でも続きを読み知らない言葉に出会う。次の本を手に取るようになり、そこで覚えた表現を家庭で使うこともあるでしょう。そうなると、日本語との接触は週1時間ではなくなります。 逆に、週1回教室へ行っていても、それ以外の6日間、日本語の文章を全く読まないのであれば、できることには限界があります。ですから、「何時間日本語を習っているか」だけでなく、「日本語が生活の中に残っているか」を見る方が大切だと思います。 読書を続けている子には、違う景色が見えることがある 教室には、幼い頃から海外で育っているにもかかわらず、非常に高い日本語力を持つお子さまもいます。そうしたお子さまたちを見ていると、共通していることがあります。もちろん全員ではありませんが、日本語の本を継続的に読んでいることです。 家庭には日本語の本がたくさんある。日本へ行ったら本を買って帰る。図書館を利用する。本人も読書することに抵抗がない。そして結果として、年齢とともに読んでいる本も少しずつ難しくなっていく。 日本語を継承語として育てる子どもを対象にした2025年の研究でも、日本語での読書・作文・宿題などのLiteracy活動は、日本語の自己・保護者評価による能力と関連していました。また、日本で過ごすなどの集中的な日本語環境は語彙得点とも関連していました。 さらに、米国の15~18歳の日本語継承語話者を対象とした研究では、日本語で楽しみのために読書する頻度が、日本語語彙力を予測する要因の一つになっていました。もちろん、「本を読めば必ず日本語が高くなる」という単純な因果関係ではありません。本が好きだから読む。日本語が得意だから読む。親の働きかけがあるから読む。さまざまな要因が絡みます。 それでも、日本語で読み続けることが、年齢とともに日本語を成長させる重要な環境の一つであるとは言えそうです。 日本語学習は「追いつく」より「離れすぎない」方が楽 私は、この点を保護者の方に一番伝えたいと思っています。日本語教育では、「必要になったら取り戻せばいい」と考えがちです。もちろん、後から伸ばすことはできるでしょう。子どもには大きな学習能力がありますし、日本語環境へ戻ることで急速に伸びるケースもあります。だから、「今やらなければ取り返しがつかない」と不安を煽る必要はありません。 ただ、小学3年生のときに少し離れている状態から戻るのと、中学1年生になって何年分もの読み書きや語彙の差を一度に埋めようとするのとでは、必要な負荷が違います。後者では本人の学校生活も忙しくなり、扱う文章も難しく、必要な漢字も増えています。本人の「日本語を勉強する理由」も必要になります。 だから私は、「後から一気に追いつく」より、「大きく離れないように少しずつ続ける」方が、子どもにとっても家庭にとっても負担が少ないと思っています。 日本語よりサッカーを選ぶ。それも家庭の選択です ここは大切なので、はっきり書いておきたいと思います。子どもの時間は有限です。サッカーが大好きなら、サッカーを優先する。音楽の才能があるなら、音楽に時間を使う。英語を最優先にする。それも、家庭として十分にあり得る選択です。すべての海外在住の子どもが、日本の同年代と同じ日本語力を持たなければならないとは思いません。 大切なのは、何を選び、何を手放しているのかを理解したうえで選択することだと思います。 「日本語は今やらなくても、必要になったらすぐ戻るだろう」と思って日本語を止めることと、「日本語の読み書きには一定のギャップが生まれる可能性がある。それでも今は他のことを優先する」と理解して選ぶことは違います。後者なら、家庭としての教育方針です。そして、「完全にやめるのではなく、週末に本だけは読もう」という中間の選択もできます。教育には、0か100かしかないわけではありません。 日本語を始める「完璧なタイミング」は、なかなか来ない 「学校に慣れたら」 「英語が落ち着いたら」 「サッカーが一段落したら」 「来年になったら」 「Secondaryに入ったら」 そう考えているうちに、時間は過ぎていきます。そして子どもは成長します。小学3年生は小学4年生になり、小学4年生は小学5年生になります。日本語も、それに合わせて成長する必要があります。だからたくさんやる必要はありません。完璧にやる必要もありません。日本の学校と同じことをすべてやる必要もありません。でも、「日本語だけは来年から」と完全に止める前に、一度考えてみてほしいと思います。 来年になったとき、戻る場所は今と同じでしょうか。お子さま自身は一歳成長しています。同年代の日本語も一歳分成長しています。そして、日本語を再び生活に入れるための時間は、本当に増えているでしょうか。 日本語教育で大切なのは、一気に追いつくことではなく、本人の成長と一緒に、日本語も少しずつ前へ進ませておくことなのかもしれません。 参考資料 Kubota, M. et al. (2025), Modeling individual differences in vocabulary development: A large-scale study on Japanese heritage speakers, Child Development, 96(1), 325–340. Mori, Y. & Calder, T. M. (2017), The Role of Parental Support and Family Variables in L1 and L2 Vocabulary Development of Japanese Heritage Language Students in the United States, Foreign Language Annals.

家では日本語なのに、兄弟の会話は現地語になる

2026年9月3日

家では日本語なのに、兄弟の会話は現地語になる。家庭の言語は、親だけでは決まらない。

海外で日本人家庭のお子さまたちを見ていると、とても興味深いことがあります。一人っ子の家庭と、兄弟姉妹がいる家庭では、日本語の使われ方がかなり違うことがあるのです。 例えば、オランダで暮らしているある家庭。親は日本人で、子どもには日本語で話しかけています。親から子へは日本語。子どもから親へも、基本的には日本語。 一見すると、「家では日本語を使っている家庭」です。ところが、兄弟姉妹だけになると突然、オランダ語もしくは英語になる。そんな家庭を、教室を運営しているとよく見ます。特に兄弟姉妹が2人、3人といる家庭では、親と話すときは日本語。でも子ども同士ではオランダ語もしくは英語。という言語の使い分けが、いつの間にか定着していることがあります。 そして、少し気になるケースもあります。上の子どもたちは日本語でも親と話せる。でも一番下のお子さまは、兄や姉から入ってくる言葉の多くがオランダ語になり、日本語で自分の考えを十分に表現することが難しくなっている。親は日本語で話しているのに、子どもはオランダ語で返す。さらに日本語での理解も少しずつ難しくなり、親子のコミュニケーションそのものに言語の壁が生まれている。そんなケースを見ることもあります。 もちろん、これはすべての多言語家庭に起こることではありません。でも、家庭の言語は、親が何語で子どもに話しているかだけでは決まらない。ということは、海外で子どもを育てるうえで知っておいてほしいと思います。 なぜ兄弟姉妹は、現地語で話すようになるのか 考えてみれば、とても自然なことです。子どもたちは一日の多くを学校で過ごします。私達の住むオランダだと、 学校ではオランダ語。 先生との会話もオランダ語。 友達との会話もオランダ語。 休み時間もオランダ語。 遊びで使う言葉もオランダ語。 スポーツクラブでもオランダ語。 YouTubeやゲームでもオランダ語や英語。 そうなると、子どもにとってオランダ語は、学校で勉強するためだけの言葉ではなく、子ども同士で生活するための言葉になっていきます。その状態で兄弟姉妹が家に帰ってきます。 学校で起きたことを話す。 ゲームの話をする。 一緒に遊ぶ。 けんかする。 冗談を言う。 親に聞かれたくない話をする。 そうした「子ども同士の世界」は、学校と同じオランダ語もしくは英語の方が自然になっていきます。親が、「家では日本語で話しなさい」と言ったとしても、子どもにとっては、「どうして?」となるかもしれません。 学校ではずっとオランダ語(英語)を使っている。友達ともオランダ語(英語)。兄弟姉妹も同じ学校文化の中にいる。そう考えると、兄弟姉妹の会話が現地語になること自体は、とても自然な言語選択です。 実は、研究でも兄弟姉妹の言語は重要視されている 家庭の言語というと、「母親が何語で話すか」「父親が何語で話すか」が注目されがちです。しかし近年のFamily Language Policy、つまり「家庭内言語方針」の研究では、兄弟姉妹の存在も重要な要素として扱われています。 2024年に発表された多言語家庭と言語維持についての研究レビューでは、過去の研究として、子どものその後の言語使用に影響する要素の中に、兄弟姉妹間で使われる言語が含まれていることが紹介されています。 あるカナダの研究では、兄弟姉妹同士で使う言語、少数言語での読み書き、親同士が使う言語などが、子どもの将来的な言語使用と強く関係する要素として示されています。つまり、 親→子 だけを見ていては、家庭内の言語環境を十分に理解できないということです。 子→子 兄→弟 姉→妹 この言語も非常に重要なのです。 最初の子と、末っ子では「日本語環境」が違う これは私自身、教室で子どもたちを見ていて特に興味深いと感じる部分です。例えば、3人兄弟の家庭を考えてみます。一番上の子どもが生まれたとき。家には、父親と母親と赤ちゃんしかいません。 親が日本語を使っていれば、その子に入ってくる家庭内の言葉の大部分は日本語です。ところが、5年後に3人目が生まれたとします。家庭には、父親、母親、兄、姉、末っ子がいます。 親は末っ子に日本語で話している。でも兄と姉はオランダ語で話している。兄と姉が末っ子に話しかけるときもオランダ語。兄姉が遊んでいるのを横で聞く言葉もオランダ語。すると、同じ家庭に生まれた兄弟であっても、一番上の子と一番下の子では、幼少期に家庭の中で耳にする言語の割合が全く違うということが起こります。 親は同じです。家庭教育方針も同じ。「家では日本語を話している」という認識も同じ。でも実際の言語環境は変わっています。ここは、多子家庭では意外と見落とされやすいところだと思います。 上の子が、現地語を家庭へ持ち込む 第一子が学校へ通い始めると、家庭にはそれまでなかった大量の言葉が入ってきます。オランダ語(英語)です。 「今日、先生がこう言った」 「○○ってどういう意味?」 「学校ではこう言うんだよ」 といった形で入ってくるだけではありません。 遊びのルール 流行している言葉 友達との冗談 歌 ゲーム 学校文化そのものを、上の子が家庭へ持ち帰ります。 そして弟や妹にとっては、親だけでなく、兄や姉も重要な言語モデルです。兄や姉がオランダ語を使えば、弟や妹にとってオランダ語を覚える機会はさらに増えます。 これは悪いことではありません。むしろ、現地社会で生活するためには非常に自然で、必要なことです。問題は、それと同時に、日本語に触れる割合が相対的に減っているということに家庭が気づいているかどうかです。 親が日本語を話しているだけでは、日本語量が足りなくなることがある 例えば、子どもが起きている時間を考えてみましょう。 学校で6時間 放課後の友達や習い事で2時間 兄弟姉妹との遊びで2時間 YouTubeやゲームで1時間 親と話す時間が2〜3時間 実際にはもっと複雑でしょうが、親だけが日本語を使い、それ以外の時間の多くがオランダ語や英語になれば、家庭で日本語を使っているつもりでも、子どもが一日に受け取る言語全体では日本語が少数派になっている可能性があります。 さらに、前回の記事でも書いたように、日本語は「自分に話しかけられた日本語」だけから学ぶものではありません。 周囲で誰かが話している言葉 兄弟がけんかしている言葉 家族が冗談を言っている言葉 誰かが説明している言葉 そういった「横から聞こえてくる日本語」も、日本で暮らしている子どもには大量に入ってきます。ところが兄弟姉妹間まで現地語になると、家庭の中で偶然耳にする日本語まで減っていきます。これは意外に大きな変化です。 子どもは、親の「言語方針」に必ず従うわけではない ここも重要です。家庭では、「家の中では日本語」と親が決めることがあります。でも、実際に言語を使うのは子ども自身です。 多言語家庭を研究した研究でも、子どもたちは受動的に親の言語方針に従っているだけではなく、自分でどの言語を使うかを選び、家族の言語習慣そのものに影響を与える存在だとされています。 これは、教室で子どもたちを見ていても非常によく分かります。親が日本語で、「今日は学校どうだった?」と聞く。子どもがオランダ語(英語)で答える。親はオランダ語(英語)が分かるので、そのままオランダ語(英語)で返す。それを毎日繰り返していると、いつの間にか親子の会話までオランダ語(英語)になる。 最初から、「今日から家ではオランダ語(英語)にしよう」と家族会議で決めたわけではありません。少しずつ、便利な方の言語へ流れていきます。家庭の言語は、このようにして変化していくことがあります。 「分かるけど話せない」が始まる 継承語としての日本語でよく見られるのが、「日本語は分かるけれど、日本語では答えない」という状態です。 親:「今日学校で何したの?」 子ども:「We gingen vandaag naar...」 親は意味が分かるので、「そうなんだ」と返す。 会話自体は成立しています。だから大きな問題に見えません。ところが、この状態が何年も続くと、子どもは日本語を聞いて理解する経験は続けていても、自分で日本語の文章を組み立てる経験が少なくなっていきます。 すると、「言っていることは分かる」でも、「自分では日本語で説明できない」という差が生まれてきます。さらに日本語で話そうとすると、「あれ」、「それ」、「なんか」などの抽象的な表現が増えていくことがあります。 頭の中に考えはあります。でも、それを日本語にするための言葉がすぐに出てこない。以前書いた「日本語の解像度」が少しずつ低くなっている状態とも言えます。 一番下の子ほど注意して見てほしい 教室で兄弟姉妹のいる家庭を見ていると、私は特に末っ子のお子さまの言語環境を気にすることがあります。 上の子は、日本語だけの家庭環境を比較的長く経験している。一方、下の子は、生まれたときから家庭に現地語を話す兄姉がいる。つまり、同じ家庭でも、日本語に触れてきた条件が違うからです。 もちろん、下のお子さまの方が日本語が弱くなると決まっているわけではありません。家庭の方針や祖父母との交流、日本語の本や日本人の友達、補習校や日本語教室など、さまざまな要因があります。 それでも、「上の子が日本語を話せているから、下の子も大丈夫だろう」と自動的に考えない方がいいと思います。兄弟ごとに言語環境をみることが重要です。 では、兄弟には日本語だけで話させるべき? ここで、「では兄弟同士も日本語だけにした方がいいのでしょうか?」という疑問が出てきます。 私は、単純に「オランダ語は禁止」とは考えません。子どもにとってオランダ語(英語)は、自分の学校生活や友人関係と結びついた大切な言語です。それを家庭で否定すると、「日本語=親から強制されるもの」になってしまう可能性があります。また、子ども同士の自然なコミュニケーションまで親が常に管理するのは現実的ではありません。 多言語家庭の研究でも、家庭の言語維持には親の方針だけではなく、子ども自身の態度や家族関係、社会の言語環境など複数の要因が影響します。だから私は、「何語を禁止するか」より、「日本語を使う必要がある場面をどう増やすか」と考えた方がよいと思っています。 日本語を「使わなければならない状況」をつくる 親は子どものオランダ語(英語)を理解できる、兄弟もオランダ語(英語)を理解できる、学校もオランダ語(英語)、そうなると子どもの立場から見れば、日本語を使わなくても生活できるのです。 言語は、必要がなければ使われなくなります。だから、日本語を育てたいのであれば、「日本語を勉強しなさい」だけではなく、日本語を使う意味のある場面をつくることが重要だと思います。例えば、 日本の祖父母と話す 日本にいるいとこと話す 日本人の友達と遊ぶ 日本語の本について兄弟で話す 日本語の映画を見る 日本へ一時帰国する 日本語でゲームをする 兄弟で日本語のクイズをする 家族で日本のニュースについて話す こうした機会です。「日本語を使うこと」そのものを目的にするのではなく、日本語を使って何か面白いことをするという状態をつくる方が自然ではないでしょうか。 兄弟姉妹がいることは、逆に大きな強みにもなる ここまで読むと、「兄弟がいると日本語維持には不利なのか」と思われるかもしれません。むしろ逆で、兄弟姉妹は家庭の中で日本語を使える最も身近な仲間にもなりえます。 一人っ子の場合、日本語を話す相手が親だけということがあります。兄弟がいれば、一緒に遊んだり、秘密を話したり、けんかしたり、相談し、冗談を言う仲間になり、非常に豊かな言語経験を家庭の中で作ることができます。 重要なのは、その関係が現地語だけで固定される前に、日本語でも兄弟同士の経験を積ませておくことではないでしょうか。 幼い頃から、日本語の絵本を一緒に読む、日本語でごっこ遊びをする、日本の祖父母と兄弟一緒に話す、日本へ行ったときに、日本語で一緒に遊ぶ、などの経験があれば、「日本語=親と話すためだけの言葉」ではなくなり、兄弟姉妹の言葉にもなります。 家庭言語は「自然に残るもの」ではない 海外に住んでいると、「親が日本人なのだから、日本語は自然に残るだろう」と思ってしまうことがあります。でも実際には、社会には非常に強い多数派言語があります。 オランダに住めばオランダ語。 英国なら英語。 フランスならフランス語。 子どもは学校へ行き、友達をつくり、その社会で生活します。当然、多数派言語の力は年齢とともに強くなります。 2024年の多言語家庭に関する研究でも、家庭言語の維持について、親から子への言語伝達だけではなく、学校や社会の言語環境、兄弟姉妹の言語使用などが複雑に関係することが整理されています。 つまり、日本語は、家に日本人の親がいるだけで自動的に維持されるものではありません。少し意識して環境をつくらないと、多数派言語へ少しずつ置き換わっていくことがあります。 日本語を守るというより、「家庭に日本語が存在する場所を残す」 私は、「家庭では絶対に日本語だけ」という厳しいルールがすべての家庭に必要だとは思いません。それぞれの家庭には事情があります。 両親の言語 子どもの年齢 学校 帰国予定 本人の性格 兄弟構成 日本語を将来どこまで必要とするのか。 すべて違います。 でも、日本語を将来も使える言語として残したいのであれば、一度、家庭の中を観察してみてください。 兄から弟へは? 姉から妹へは? 子どもたちだけになった瞬間、何語になりますか? 食事中は? ゲーム中は? けんかするときは? 感情的になったときは? そこを見ると、家庭の本当の言語環境が見えてきます。 「私たちは家では日本語です」と思っていたけれど、よく見てみたら日本語が使われているのは親子間だけだった。ということもあるかもしれません。 それ自体が悪いわけではありません。重要なのは、それを家庭が把握したうえで、将来の日本語をどうしたいかを選択することだと思います。 兄弟姉妹の言葉は、家庭の未来の言葉になる 兄弟姉妹は、親より長く一緒に生きていく可能性があります。子どもの頃、兄弟同士でどの言語を使っていたか、大人になったとき、どの言語で話すのか、そしてその先、自分たちの子どもに何語を伝えるのか。 家庭言語は、親から子へ一方向に受け継がれるものではありません。兄弟姉妹の間でも作られていきます。 だから私は、教室におこしになるご家庭に、「お子さまに何語で話しかけていますか?」だけではなく、「お子さまたちは、兄弟姉妹で何語を話していますか?」を伺うようにしています。 そこには、家庭の日本語環境を考えるうえで、とても重要なヒントが隠れているかもしれません。 参考資料 Pagé & Noels (2024), Family language policy retention across generations: childhood language policies, multilingualism experiences, and future language policies in multilingual emerging Canadian adults Slavkov (2017), Family language policy and school language choice: pathways to bilingualism and multilingualism in a Canadian context Said & Zhu (2019), Children’s agency in language use and socialisation, International Journal of Bilingualism Barron-Hauwaert (2011), Bilingual Siblings: Language Use in Families

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