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「本を読まない子」に、名作を与える前に考えてほしいこと

September 15, 2026

「本を読まない子」に、名作を与える前に考えてほしいこと

読書への入口は、「良い本」ではなく「好きなもの」かもしれない

日本語の読書がなかなか進まない。本を渡しても読まない。最初の数ページでやめてしまう。「うちの子は本が嫌いなんです」海外で日本語を育てているご家庭から、こうした相談を受けることがあります。

確かに、本を読むこと自体があまり好きではないお子さまもいるでしょう。でも教室で子どもたちを見ていると、ときどき思うことがあります。本を読むことが嫌いなのではなく、まだ「読みたい本」に出会っていないだけなのではないか。今回は、そんなことを強く感じた、あるお子さまのお話から始めたいと思います。


日本語の本を読むことが、あまり好きではなかった子

そのお子さまは、日本語で会話することはできます。でも、日本語の読書はあまり得意ではありませんでした。本を渡しても、積極的に読みたいという感じではありません。知らない言葉も出てきます。漢字もあります。学校では別の言語を使っていますから、日本語で文章を読むこと自体に少し負荷があります。

「読書をしましょう」と言われても、本人にとっては、楽しいことというより、日本語の勉強に近かったのかもしれません。

そんな中、ご家庭で犬を飼い始めたご家庭がありました。そのお嬢さまは犬が大好きでしたので、少し本の選び方を変えてみることにしました。犬が登場する物語だけではありません。介助犬について書かれたノンフィクションや障害のある人を支える犬についての本、犬と人との関係を扱った本など、本人の興味に近いものを選んで渡してみました。

すると、少しずつ様子が変わりました。


「読まされている」から、「知りたい」に変わった

最初に起きた変化は、急に読解力が上がったことではありません。本を読む理由ができたことでした。

犬についてもっと知りたい、この犬はどうなるのだろう、介助犬はどうやって人を助けるのだろう、なぜこの犬はこんな行動をするのだろう。

そこに本人自身の「知りたい」がありました。すると、知らない言葉が出てきても、前ほど簡単には本を閉じなくなります。少し難しい文章でも読み進め、分からないところを聞来たりしながら次の本を読む。そこから、犬とは直接関係のない本にも少しずつ読書が広がっていきました。

気がつけば、「日本語の本を読ませる」状態から、「本人が本を読む」状態へ変わっていたのです。

私はこの経験から、本を選ぶときに、「この子に読ませるべき本は何だろう」だけではなく、「この子は今、何を知りたいのだろう」と考えることが、とても大切なのだと改めて感じました。


親が選ぶ「良い本」と、子どもが読みたい本は違う

子どもに本を読ませたいと思うと、私たち大人はつい、名作や推薦図書、受賞作品など「せっかくなら良い本を」と考えます。

もちろん、どれも悪いものではありません。でも、その本がどれだけ素晴らしくても、本人にとって興味がなければ、読まれない本は、読書経験にはなりません。

一方、恐竜が大好きな子なら恐竜の本、サッカーが好きならサッカーの本、宇宙が好きなら宇宙の本など、本人がすでに強い関心を持っている分野なら、そこには最初から、「続きを読みたい理由」があります。

読書研究でも、読書への動機づけと実際の読書量、読解成績には関連があることが長く指摘されています。読書への内発的な動機や興味は、子どもがどれだけ読むかを考えるうえで重要な要素です。


「物語を読まない=読書嫌い」ではない

ここも、私はとても重要だと思っています。日本語の読書というと、児童文学や物語を読ませようとしがちです。でも、物語にそれほど興味を持たない子どももいます。その一方で、昆虫図鑑なら時計を忘れて没頭し、サッカー選手の伝記なら何冊も続けて読み、科学実験の本なら朝から晩までながめている、そのようなお子さまが少なからずいます。

読書の入口で大切なのは文学作品を読むことより、日本語の文字を自分から追い続ける経験を作ることではないでしょうか。

ノンフィクションにも専門語彙があり説明があります。原因と結果があり、数字・比較があります。知らない世界もあります。そして、「もっと知りたい」と思えば、次の本へつながります。

犬について知りたいから本を読む。本を読んだ結果、犬についてだけでなく、新しい日本語にも出会う。この順番でよいのではないでしょうか。


在外のお子さまの場合、「興味」はさらに重要

海外で育つお子さまの場合、日本語の本を読むには、もう一つハードルがあります。普段学校で読んでいる言語と、日本語が違います。英語やオランダ語では年齢相応の文章を読めるのに、日本語になると漢字が難しく、読書に時間も掛かります。知らない言葉も数多くあります。だから、同じ本を読むにも負荷が高くなります。

例えば12歳のお子さまが、日本語では9歳向け程度の本なら読みやすいとします。しかし本人の興味や知的好奇心は12歳です。9歳向けの内容では、読めるけれど、面白くない。一方、12歳向けの本は、面白そうだけれど、日本語が難しい。ここに、在外のお子さま特有の難しさがあります。

前回でも触れましたが、本人の知的年齢と、日本語で読める文章のレベルがずれることがあるのです。

だからこそ、本の内容そのものへの強い興味が助けになります。多少日本語が難しくても、「知りたい」があれば、読み進める理由になります。


難しい言葉があっても、興味があれば乗り越えられることがある

犬の本を読んでいたお子さまにも、始めて触れる言葉は当然ありました。例えば

  • 介助

  • 障害

  • 訓練

  • 信頼

  • 役割

  • 判断

こうした言葉は、日常の家庭会話では頻繁には使わないでしょう。でも、本人には犬について知りたいという目的があります。だから、「介助って何?」と聞く。判らないことばの前後の文章を読み直し、語彙を推察する。そして語彙を確認し、次に同じ言葉が出てきたときにはある程度想像がつく。この作業を繰り返すことにより、語彙学習が目的なのではなく、知りたいことを理解する過程で語彙が増えるという状態になります。これは読書の非常に大きな強みです。

特に教室で行っている”読書で育てる国語力クラス”なら単元毎に、重要な語彙を確認しながら読書を進めていくために、効率的に語彙力をUPする事ができます。言葉に「情景」がつくのです。


「興味のある本なら、難しくても何でもいい」ではない

ただし、ここには注意も必要です。好きなテーマであれば、どれだけ難しい本でもよいわけではありません。毎ページ辞書を引かなければ理解できない程難しい本だと、本人の興味よりも「読む負荷」の方が大きくなります。

2024年の独立読書に関するメタ分析でも、特に読むことに苦労する子どもは、自分に適した本を選ぶこと自体が難しい場合があると指摘されています。単に「好きな本を自由に読んで」とするだけでなく、適切な本との出会いを支援することが重要です。

だから、本人に選ばせることと、大人が支援することは両立します。私は、「これを読みなさい」ではなく、「犬が好きなら、この3冊はどう?」という関わり方がよいと思っています。選択肢は大人が用意し、最後は本人が選ぶ。このバランスがいいのだと考えています。


子どもに「本を選ばせる」ことの意味

学校教育の研究でも、子どもが選択できることは学習への参加意欲と関係することが報告されています。2024年の中学生を対象にした研究でも、読む本や課題に選択肢を持たせることと、感情面・行動面・認知面での授業参加の高まりとの関連が報告されています。もちろん、一つのクラスでの研究ですから、「自由に選ばせれば必ず読書好きになる」という意味ではありません。

ただ、自分で選んだ本と、親から「これはあなたのためになるから読みなさい」と渡された本では、子どもにとって意味が違うことは想像しやすいと思います。

読書を、親から与えられる課題から、自分の選択へ変える。これは、特に年齢が上がるほど重要になってくると思います。


在外のお子さまだからこそ、「日本語で好きなもの」を作る

海外で育つお子さまの場合、好きなものについて調べる言語そのものが、英語や現地語になっていることがあります。サッカーについて調べるなら英語。ゲームの攻略を見るのも英語。好きな俳優について検索するのも英語。科学の動画を見るのも英語。これは当然です。学校や友人の言語が英語や現地語だからです。

その結果、日本語は、親や祖父母と話す言語、日本語の宿題をする言語。になりやすいです。そこで、自分の「好き」と日本語をつなげてみることに意味があります。そうすると日本語が、「親から維持するように言われている言葉」ではなく、自分の興味へアクセスするための言葉になります。

これは継承語として日本語を残していくうえで、とても重要だと思います。


日本語で「楽しみのために読む」こと

米国で育つ15~18歳の日本語継承語話者を対象にした研究では、家庭環境やさまざまな要因を分析した結果、日本語で楽しみのために読書することが、日本語の語彙力を予測する要因の一つとして示されています。

ここで私が注目したいのは、「国語の問題を解く」ではなく、reading for pleasure――楽しみのために読むという点です。

日本語を育てるために読ませる、語彙を増やすために読ませる、帰国後に困らないために読ませる、もちろん親にはそうした目的があります。

でも子ども自身にとっては、もっと単純に「面白いから読む」でよいのだと思います。むしろ、その方が読書は長く続きます。


読書のたびに「勉強」にしない

せっかく子どもが本を読み始めたのに、親がつい、「この言葉どういう意味?」「主人公はどう思っていた?」「このページを要約して」「漢字、読めた?」と聞きすぎてしまうことがあります。もちろん、ときどき本について話すことはとても良いことです。

でも、毎回読解テストになると、子どもにとって、

本を読む=問題を出される

になってしまいます。

自分自身に置き換えても、小説を読んだ直後に毎回、「では、この章の要旨を200字以内で説明してください」と言われたら、そのうち読書が嫌になると思います。

時にはただ読んで終わる。それでいいと思います。「面白かった?」「うん」だけでもいい。本人が話したそうなら聞く。質問してきたら一緒に考える。読書そのものを楽しむ時間を残しておくことも重要です。


すべての知らない言葉を調べなくていい

同じように、分からない言葉が一つ出るたびに、「辞書で調べなさい」と読書を止める必要もありません。分からない言葉があっても、話の流れが分かるなら読み進めていい。重要な言葉なら、一緒に考える。何度も出てくるなら意味を確認する。前後から推測する。そうやって、ストーリーや内容への没入を壊さないことも大切です。

2024年のメタ分析では、独立読書に教師による支援などを加える介入は全体として読解力に小さいながらプラスの効果がありましたが、一方で読書中の過度な支援・指導は、読書への没入を妨げる可能性も示唆されています。

「教えること」と「読ませること」は、いつも同時でなくてもいいのです。


漫画でもいいのでしょうか?

よく聞かれる質問です。私は、入口としては、漫画でもいいと思っています。吹き出しを追い、知らない表現に出会い、ストーリーを理解し、次を読みたいと思う。これだけでも、日本語の文字に触れています。

ただし、漫画だけですべての日本語読解を育てられるとは思いません。漫画には絵があるため、文章だけを読んで状況を構築する負荷は低くなります。長い説明文や論理的文章に触れる量も限られます。

だから、漫画から始まり、興味のあるテーマの本へ。短い本から長い本へ。物語からノンフィクションへ。というように、少しずつ読む世界を広げていく事が必要だと思います。

入口は何でも構いません。重要なのは、そこから次へ進めることです。


大人の役割は「先生」より「司書」に近い

子どもに読書をしてほしいとき、大人はつい先生になろうとします。「これはあなたの学年なら読めるはず」「これは良い本だから読みなさい」「30分読んだ?」「感想を書いて」

でも、私は海外の日本語読書では、親の役割は先生よりも司書に近いと思っています。この子は何が好きだろう。今、何に興味があるだろう。どのくらいの日本語なら無理なく読めるだろう。この本の次には何があるだろう。少しだけ難しくするなら何を渡そう。

そんなふうに、本人と本の間をつなぐ。そして、本を渡したら少し離れる。これくらいがよいと思います。


「本を読まない」のではなく、「選び方」が合っていないこともある

読書が苦手なお子さまには、本当にさまざまな理由があります。

日本語が難しい。漢字が苦手。読む速度が遅い。内容が幼い。興味がない。本を読むより動画の方が楽しい。読むこと自体に苦手意識がある。

だから、「本を読みなさい」だけでは解決しません。まず、なぜ読まないのかを見る必要があります。

特に在外のお子さまの場合、「本人の知的レベルに合う本」と、「本人の日本語で読める本」が一致していないことがあります。ここを調整してあげることが、親と講師の大切な仕事だと思います。


読書が増えた時期に、学校の成績にも変化があった

冒頭で紹介したお子さまは、犬をきっかけに本を読むようになり、その後、読む本の種類も少しずつ増えていきました。そして同じ頃、インター校での成績にも改善が見られるようになりました。

ただし、ここは慎重に考える必要があります。日本語の本を読んだから、インター校の成績が上がったと断定することはできません。

本人自身が成長した、学校に慣れた、英語力が伸びてきた、勉強方法が分かってきた、など、さまざまな理由が考えられます。

ただ、私から見て印象的だったのは、以前は文章を読むことそのものに抵抗があったお子さまが本を読み始めてから、文章に向き合うことを嫌がらなくなっていったことでした。

これは一つの事例にすぎません。でも、「本を読む習慣」が日本語だけに閉じた技能ではなく、文章を読むこと、情報を追うこと、分からないものを前後から考えること、長い内容に集中すること、といった学習行動全体と重なる部分があることは、考えてよいと思います。

読書への動機づけと読書活動、読解力との関連については、多くの研究でも報告されています。ただし、それらは相互に影響し合う関係であり、単純な一方向の因果関係とは限りません。


読書好きにすることを、ゴールにしなくてもいい

すべての子どもが、毎週何冊も小説を読む「本好き」になる必要はありません。大人にも本が大好きな人と、必要なときだけ読む人がいます。それでいいと思います。

海外で日本語を育てるうえで大切なのは、少なくとも、日本語で読むことを嫌いにならないこと。そして、必要なときには日本語の文章から情報を取れること、興味のあるものなら、自分から日本語でも読んでみようと思えること。その状態を作ることではないでしょうか。


「何を読ませるか」より、「何が好きか」を聞いてみる

子どもが本を読まないとき、私たちはすぐ、「おすすめの児童書は何ですか?」「小学5年生なら何を読めばいいですか?」と考えます。もちろん、読書レベルに合った本を探すことは重要です。

でもその前に、一つだけ聞いてみてください。「今、何が一番好き?」その答えの先に、その子が初めて自分から開きたくなる日本語の本があるかもしれません。

海外で日本語の読書を続けることは簡単ではありません。だからこそ、最初から「国語力を伸ばす本」を探す必要はないと思います。まず、本人が読みたい本を見つける。読んで面白いと感じ、次にまた読みたいと思う。

その結果として新しい言葉に出会い。文章を読む量が増え、少し長い本も読めるようになる。

読書習慣をつくる第一歩は名作を本棚に並べることではなく、その子の「好き」と日本語の本をつなぐことだと、今の教室をはじめてから感じています。


参考資料

  • Merke, S., Ganushchak, L. & van Steensel, R. (2024), Effects of additions to independent silent reading on students’ reading proficiency, motivation, and behavior: Results of a meta-analysis, Educational Research Review, 42.

  • Wigfield, A., Gladstone, J. R. & Turci, L. (2016), Beyond Cognition: Reading Motivation and Reading Comprehension, Child Development Perspectives.

  • Baker, L. & Wigfield, A., Dimensions of Children’s Motivation for Reading and Their Relations to Reading Activity and Reading Achievement, Reading Research Quarterly.

  • Mori, Y. & Calder, T. M. (2017), The Role of Parental Support and Family Variables in L1 and L2 Vocabulary Development of Japanese Heritage Language Students in the United States, Foreign Language Annals.

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在外のお子さまの日本語|「話せる」と「読める・書ける」は別の力

2026.09.09

在外のお子さまの日本語|「話せる」と「読める・書ける」は別の力

会話が流暢だからこそ読み書きの遅れは見えにくい、という現実 海外で育つ子どもたちの日本語を見ていると、とても興味深いことがあります。 日本語で普通に話している。 冗談も言える。 親が言っていることも理解している。 日本のアニメも楽しんでいる。 だから保護者から見ると、「うちの子は日本語は大丈夫」に見えます。ところが、実際に日本語の文章を読んでもらうと、少し様子が変わることがあります。 漢字が読めない。 文章になると読む速度が急に落ちる。 一文ずつは読めても、全体として何が書いてあるのか分からない。 そして、「じゃあ、これについて自分の考えを書いてみて」と言うと、さらに難しくなる。 教室では、小学校高学年、ときには中学生になっていても、ひらがなやカタカナを書くことにかなり苦労するお子さまに出会うこともあります。でも、本人と日本語で話しているだけでは、そのことに気づかないことがあります。なぜなら、話す日本語はかなり流暢だからです。ここに、海外での日本語教育の非常に見えにくい落とし穴があります。 「日本語力」を一つの能力として考えない 私たちはつい、「この子は日本語ができる」もしくは「日本語が弱い」と、一つの能力のように考えてしまいます。でも、実際には日本語にはさまざまな力があります。 聞く 話す 読む 書く さらに読む中にも、 文字が読める 単語の意味が分かる 文章の内容を理解する 筆者の意図を読み取る 複数の情報を関連づける といった違う力があります。書くことも同じです。 ひらがなを書く 漢字を書く 文章を作る 出来事を順序立てて説明する 理由を書く 自分の意見と根拠を構造化する これらは全部同じ能力ではありません。 日本語を継承語として育てる子ども427人を対象とした2025年の研究でも、日本語能力を調べる際には、話す・理解する・読む・書くがそれぞれ別の項目として評価されています。また、読書・作文・宿題などのLiteracy活動が独立した言語経験として分析され、日本語能力との関連が示されています。 つまり、日本語を話せることと、日本語を読んだり書いたりできることは、分けて考える必要があるのです。 なぜ「話す」はできるのに、「読む・書く」は難しいのか 考えてみると、これはそれほど不思議なことではありません。子どもは、日本語の会話を毎日家庭で使っているかもしれません。朝起きて、「おはよう」、「早く着替えて」、「今日何時に帰ってくる?」。学校から帰れば、「今日どうだった?」、「お腹すいた」、「宿題終わった?」こうした日本語を何年も使っています。 でも、 ひらがなを毎日読んでいるでしょうか? カタカナを書いているでしょうか? 日本語の長い文章を読んでいるでしょうか? 日本語で作文を書いているでしょうか。 インター校や現地校へ通っていれば、学校で毎日行っている読み書きは英語やオランダ語です。つまり、話す日本語には毎日練習する機会があるのに、読む・書く日本語にはほとんど練習する機会がないという状態が起こります。 そう考えれば、会話力と読み書きに差が生まれること自体は、むしろ自然です。継承語話者は、教育を受ける多数派言語では読み書きを身につけやすい一方、継承語では聞く・話す能力と読み書き能力に大きな個人差が生じることが知られています。研究レビューでも、継承語話者の能力は聞く・話す・読む・書くの各領域で一様ではないことが指摘されています。 文字は、会話しているだけでは自然には身につかない ここは非常に重要です。日本語をたくさん聞いていれば、ある程度日本語を話せるようになります。でも、「ありがとう」と何千回聞いていても、それだけで自然に「あ・り・が・と・う」と書けるようになるわけではありません。まして、「ありがとうございます」と、「有り難うございます」の違いを自然に理解するわけでもありません。 文字は、文字を見て、音と結びつけ、読んで、書いて、何度も使うことで身についていきます。日本で育つ子どもには、この機会が身のまわりに溢れています。幼稚園の名札や絵本、街中の看板、テレビの字幕、学校のプリント、教科書、黒板、宿題などなど、列挙し出すと切りがありません。 日本語が生活の中に文字として存在しています。海外で生活すると、この「文字としての日本語」が一気に限定されてしまいます。家庭で日本語を話していたとしても、日本語を文字として目にする量は、日本で生活する子どもとは全く違うのです。 ひらがな・カタカナが書けないことを、責めるべきではない 教室で、小学校高学年や中学生でも、ひらがな・カタカナの書字に苦労するお子さまを見ることがあります。例えば、「ぬ」と「め」が混乱する、「シ」と「ツ」が分からない、促音の「っ」をどこに入れるのか分からない、長音をどう書くのか迷う、文章のどの部分がカタカナになるのか判らない、言葉は知っているのに文字にできない。 でも、私はこれを、「中学生なのに、こんなことも書けない」と考えるべきではないと思っています。本人は、学校で英語やオランダ語を使って毎日勉強しています。そちらの言語ではEssayを書き、Presentationをし、難しい内容を理解しているかもしれません。 単に、日本語を書く経験が圧倒的に少なかっただけかもしれません。書くという能力は、話す能力とは別に練習する必要があります。 日本で育つ子どもについての研究でも、ひらがなの読みの力と、その後のひらがな・漢字の読み書き能力には関連があり、読み書きの技能が段階的に発達していくことが示されています。 ですから、「話せるのになぜ書けないの?」ではなく、「これまで書く機会がどのくらいあっただろう?」と考えた方がよいと思います。 日本語入力ができることと、日本語を書けることも少し違う 最近はもう一つ、興味深いことがあります。スマートフォンなら日本語で文章を打てる。LINEなら日本語でメッセージできる。でも、「紙に書いてみて」と言うと書けない。ということがあります。 スマートフォンなら、「きょうはがっこうにいきました」と入力すれば、「今日は学校に行きました」と変換してくれます。「学校」という漢字を書けなくても、読むことさえできれば選べます。これは悪いことではありません。現代社会では、手書きよりタイピングする機会の方が多いでしょう。ですから、「漢字を手で全部書けなければ日本語ができない」とも思いません。 ただし、入力できること、読めること、手で書けること、文章を構成できることは、それぞれ違う能力だということは理解しておく必要があります。 重要なのは、「学校」という漢字を手書きできるかだけではありません。「今日学校であった出来事を、知らない人にも分かるように説明してください」と言われたときに、日本語で文章を組み立てられるか。私は、こちらの方がより重要だと思っています。 「書く」は、文字を書くことだけではない 「日本語を書く力」というと、漢字を書けるかどうかに目が行きがちです。でも、高学年以降になると本当に必要になるのは、考えを文章にする力です。 例えば、「私はこの意見に賛成です」までは書ける。では、「なぜですか?」と聞かれたらどうでしょう。「なぜなら……」と理由を書く。さらに、「具体例を挙げてください」と言われる。そして、「反対の立場の人はどう考えるでしょうか」まで考える。こうなると、単に漢字を知っているだけでは書けません。 頭の中にある考えを、順序立て、必要な情報を選び、相手に伝わるように文章として構成する必要があります。 書くというのは、思考を言葉として外に出し、構造化する作業でもあります。 会話なら、相手が助けてくれる 書くことが難しいもう一つの理由があります。会話では、相手がいます。子どもが、「今日ね、学校であの子がさ、またあれやって……」と言えば、親が、「○○君?」と聞いてくれます。 「うん。それで先生が……」 「怒ったの?」 「そうそう」 と、相手が会話を補ってくれます。表情もあります。ジェスチャーもあります。分からなければ聞き返してもらえます。 でも文章では、相手は横にいません。「あの子」と言われても分かりません。「あれ」では伝わりません。書き手自身が、 誰のことなのか 何が起こったのか なぜ起こったのか どう感じたのか を説明する必要があります。 つまり書くことによって、「自分は分かっている」から「相手にも分かるように説明する」へ思考を変える必要があります。この力は、自然な家庭会話だけでは必ずしも十分に練習できません。 読めないと、「知っている日本語」が増えにくくなる 読み書きの中でも、私はまず「読むこと」が非常に重要だと思っています。なぜなら、読めるようになると、自分で日本語を増やせるようになるからです。 本を読む ニュースを読む インターネットで調べる 漫画を読む 字幕を読む 説明書を読む 日本語で検索する 誰かに日本語を教えてもらわなくても、文字を通じて、自分で新しい日本語を取りに行けるようになります。 逆に、日本語を話せても日本語を読むことが苦手だと、日本語のインプットは人との会話に依存します。家庭で使われている言葉から先へ進みにくくなります。 前回までの記事で何度も取り上げてきた日本語継承語話者427人の研究でも、読書・作文・宿題などの日本語Literacy活動が、日本語能力に関係する重要な要素として示されています。 読むことが、書くことにもつながる ここも重要です。文章を書けるようにするため、「作文をたくさん書かせよう」と考えることがあります。もちろん書く練習は必要です。でも、書く前に、良い日本語をたくさん読むことも非常に重要です。 文章を読めば、「こういうときは『しかし』を使うんだ」、「理由を書くときは『なぜなら』なんだ」、「話が変わると段落が変わるんだ」、「こうやって人物の気持ちを表現するんだ」といった文章の型を、少しずつ取り込んでいきます。 2026年に発表された、9~15歳のバイリンガル児童の継承語としての英語の書く力を3年間追跡した研究でも、家庭での読書習慣がwritingの発達を支える重要な要素として報告されています。特に高いwriting能力を持つ子どもには、自主的な読書や継続的な家庭での読書経験が多く見られました。 対象言語は英語ですから、その結果をそのまま日本語へ当てはめることはできません。ただ、継承語の読み書きは、家庭でその言語を話しているだけで自動的に育つものではなく、文字に触れる活動が重要であるという点は、日本語教育を考えるうえでも非常に示唆的です。 「うちの子は日本語を話せるから大丈夫」が危険なのではない ここで誤解してほしくないことがあります。私は、「日本語を話せても読み書きできなければ意味がない」と言いたいわけではありません。会話できること自体、とても大きな力です。家庭によって、日本語をどこまで育てたいのかという目標も違います。海外に永住し、日本語は家族との会話ができれば十分、と考える家庭もあるでしょう。それも一つの選択です。 問題は、「話せるから、読み書きも必要になればすぐできるだろう」と錯覚してしまうことです。 話す力があることは大きな土台になります。でも、読む・書くためには、文字に触れ、読んで、書く経験が必ず必要なのです。 将来、日本語をどこで使うのかを考えてほしい では、日本語の読み書きをどこまで続けるべきなのでしょうか。これは、すべての家庭に同じ答えはありません。重要なのは、その子が将来、日本語をどのように使う可能性があるのかを考えることだと思います。 例えば、 日本へ帰国する可能性がある。 日本の中学・高校・大学へ進学する可能性がある。 日本で働く可能性がある。 日本の親族との関係を持ち続けたい。 将来、自分の子どもにも日本語を伝えたい。 日本の本やニュースを自分で読めるようにしたい。 そうした可能性が少しでもあるのであれば、「会話ができるから十分」で止めず、日本語を文字でも扱える状態を残しておくことには大きな意味があります。 反対に家庭として、「今後の教育・生活はすべて現地語で、日本語は家族との会話ができれば十分」と考えるのであれば、それも明確な教育方針です。 大切なのは、「気づかないうちに読み書きがなくなっていた」、ではなく、どのレベルの日本語を残すかを、家庭として意識的に選ぶことなのです。 漢字だけに焦点を当てすぎない 日本語の読み書きについて話すと、どうしても、「漢字を何文字覚えていますか?」という話になります。もちろん漢字は大切です。でも、漢字ドリルだけやっていても、読解力や文章力が自然に育つとは限りません。 例えば、「原因」という漢字を書ける。でも、「原因と結果の関係を説明してください」と言われたときに答えられない。それでは十分ではありません。逆に漢字を書くのは苦手でも、文章を読み、内容を理解し、自分の考えを日本語で説明できる。こちらには大きな力があります。 だから私は、日本語の読み書きを、「漢字が書けるか」だけで測らない方がいいと思っています。見るべきなのは、 文章を読めるか 意味を理解できるか 知らない言葉を前後から考えられるか 自分の考えを文章にできるか 相手に分かるように説明できるか という、もう少し広いLiteracyの力です。 読み書きも、いきなり100点を目指さなくていい 前回の記事でも書きましたが、日本語教育は0か100かで考える必要はありません。日本の学校と同じ量の漢字を毎日やる必要はないかもしれません。でも、週に一冊、日本語の本を読む、短い日記を書く、日本語でゲームをするなどの経験でも日本語を文字として使う回路を残すことができます。 大切なのは、日本語が「家族と話すための音」だけにならず、自分で情報を得て、自分の考えを伝えるための文字でもあり続けることだと思います。 読み書きができると、日本語の世界を自分で広げられる 私が、海外の子どもに日本語の読み書きを残してほしいと思う最大の理由は、漢字テストでいい点を取るためではありません。日本へ帰国したとき困らないためだけでもありません。 読み書きができれば、本人が親を介さずに、日本語の世界へアクセスできるからです。 自分で本を選ぶ 自分で検索する ニュースを読む 好きなアーティストの記事を読む 日本の人とメッセージする 大学について調べる 仕事を探す 契約書を読む そして自分の考えを文章で伝える そのとき日本語は、「親から受け継いだ家庭の言葉」から、「自分自身が使える言語」へ変わります。私は、これが読み書きの大きな意味だと思っています。 「日本語は大丈夫」の中身を、一度分解してみる お子さまが日本語で流暢に話していることは、とても大切な力です。でも、一度だけ、「日本語は大丈夫」という言葉を分解してみてください。 日本語を聞いて理解できる? 日本語で日常会話ができる? 知らない人にも出来事を説明できる? ひらがな・カタカナを読める? 書ける? 同年代向けの本を読める? 説明文を理解できる? 自分の考えを文章にできる? 理由や根拠を書ける? 全部できる必要はありません。家庭によって目標は違います。でも、どこまでできていて、どこから難しいのかを知っていることは、とても大切です。海外で育つ子どもの日本語は、「できる」「できない」の二択ではありません。読む、聞く、話す、書く力はそれぞれが違う速度で育ちます。 だから、「日本語を話しているから大丈夫」ではなく、「この子の日本語は、今どんな形で育っているだろう?」と見てみて、そこから、その家庭に本当に必要な日本語教育が見えてくるのではないかと思います。 参考資料 Kubota, M. & Rothman, J. (2025), Modeling individual differences in vocabulary development: A large-scale study on Japanese heritage speakers, Child Development, 96(1), 325–340. Nakamura, J. (2026), English as a Heritage Language in Japan: Writing Development From Late Childhood to Adolescence, Reading Research Quarterly. 花房香(2020)「読み書き能力の発達―就学前から小学2年生までの追跡研究―」 Takahashi, N. & Nakamura, T. (2015), Abilities needed by Japanese children to write kanji: Development of the ATLAN Kakitori subtest, The Japanese Journal of Psychology.

「日本語は来年から」で、本当に間に合う?海外在住のお子さまの日本語教育で見落とされやすい「時間」の問題

2026.09.06

「日本語は来年から」で、本当に間に合う?海外在住のお子さまの日本語教育で見落とされやすい「時間」の問題

日本語教室へのお問い合わせをいただいたご家庭とお話ししていると、時々こんなお話を伺います。 「日本語は大切だと思っているのですが、今は習い事が忙しくて……」 「今年は学校に慣れることを優先したいので、日本語は来年から考えようと思っています」 「もう少し落ち着いたら、補習校か日本語教室を始めようと思っています」 その判断自体が間違っているとは思いません。海外で暮らす子どもたちは忙しいです。英語や現地語の学習、サッカーやピアノの習い事、オランダではチェスも人気がありますし、お友だちとのスリープオーバー(お泊まり会)もあります。 すべてをやらせることはできません。家庭ごとに優先順位が違うのも当然です。ですから、「今すぐ日本語教室へ通わせるべきです」という話をしたいわけではありません。 でも大切なのは、私の教室でなくとも、補習校やオンラインの教室などに通い、日本語を年齢と一緒に成長させる機会を、完全に止めないことだと思っています。 なぜなら、子どもの日本語には、大人の習い事とは少し違う「時間」の問題があるからです。 1年間休んでも、元の場所で待っていてくれるわけではない 例えば、大人がピアノを習っているとします。1年間忙しくなり、ピアノを休む。翌年再開したとき、多少忘れていることはあっても、基本的には自分が以前いたところから再スタートできます。ピアノそのものが、この1年間で小学4年生から小学5年生になったりはしません。 でも、子どもの日本語は違います。小学3年生で日本語学習を止めたとします。1年後、本人は小学4年生になります。当然、比較対象になる日本の子どもたちも小学4年生です。その間、日本の学校にいる子どもたちは、新しい漢字を覚え、新しい語彙を学び、より長い文章を読み、説明文を読み、理由を説明し、文章を書き、理科や社会を日本語で学んでいます。 つまり、こちらが止まっている間も、「年齢相応の日本語」の方は先へ進んでいます。ここが非常に重要です。 日本語学習を1年間休んだからといって、必ず日本語能力そのものが大きく低下するとは限りません。家庭で日本語を話していれば、日常会話はむしろ上達することもあります。 でも、本人の日本語が以前と同じくらいに保たれていても、同年代との距離は広がる可能性があります。 「落ちる」というより、「伸びる速度が違う」と考えた方が近いかもしれません。 小学3年生の日本語のまま、小学4年生になる 以前の記事でも書きましたが、小学3年生で話せる日本語は、小学3年生としては十分な日本語かもしれません。でも、それをそのまま小学6年生まで維持しても、小学6年生相当の日本語にはなりません。子どもの成長とともに必要な言葉が変わるからです。 低学年なら、「どっちが違う?」「何が先だった?」「どうして?」くらいだったものが、学年が上がるにつれて、「その理由は?」「具体例を挙げて」「二つを比較すると?」「原因は何だと思う?」「この資料から何が分かる?」「筆者の主張は?」「その意見の根拠は?」となっていきます。 さらに中学生になると、「客観的に考える」、「複数の立場を比較する」、「根拠の妥当性を考える」、「具体例から一般化する」といった、より高度な言語と思考が求められます。 つまり、日本語のゴールポストは毎年動いているのです。 「家では日本語だから、来年からでも大丈夫」 ここでよく出てくるのが、「でも家では日本語を話しているので、一年間くらい大丈夫ですよね」という考えです。 もちろん、家庭で日本語を話していることは大きな意味があります。でも、前回の記事でも書いたように、家庭で使う日本語と、読書や学習で使う日本語は、必ずしも同じではありません。 「今日学校どうだった?」「お腹すいた?」「早く寝なさい」「明日はサッカーだよ」という日本語を毎日使っていても、 「原因」 「傾向」 「根拠」 「対照的」 「影響」 「一方で」 「にもかかわらず」 といった言葉を使う機会は、それほど多くありません。つまり、日常会話の日本語は毎日使っていても、学習に必要な日本語はあまり使っていないという状態が起こり得ます。 そのため、「日本語を話しているから日本語学習は止まっていない」とは、必ずしも言えません。 実際、日本語を継承語として育つ子どもの語彙には差が生まれる 以前の記事でも紹介した、日本語を継承語として育てている子ども427人を対象とした研究があります。2025年に『Child Development』に掲載された研究です。この研究では、日本語を継承語として育つ子どもと、日本語環境で育つ子どもの語彙発達を比較しています。 その結果、グループとして見ると、幼児期には大きな差が見られなかったものの、5歳7か月頃から語彙得点の差が現れ、その差は調査対象となった青年期まで続いていました。もちろん、これは、「海外に住むと5歳7か月から日本語が遅れる」という意味ではありません。この研究の参加者は主に英語圏・ドイツ語圏で育った日本語継承語話者であり、個人差も非常に大きくあります。 むしろ重要なのは、幼い頃には日本語環境で育つ子どもとの差が見えにくくても、年齢が上がるにつれて語彙発達の違いが表面化することがあるという点です。これは、教室で子どもたちを見ている実感とも重なります。 低学年では「大丈夫」に見える これが、この問題を難しくしています。小学校低学年の年齢では日本語で普通に話している。祖父母とも話せる。日本のアニメも分かる。簡単な本も読める。だから、「日本語は大丈夫そう」に見えます。 そして、「今は英語を優先しよう」「サッカーを続けたい」「ピアノもあるし」「日本語は来年からでもいいかな」となります。 ところが小学5年生、小学6年生になる頃、日本の同年代向けの文章を読ませてみると、 知らない言葉が急に増える。 文章を読む速度が遅い。 説明文になると理解しにくい。 「どういう意味?」と聞かれても説明できない。 ということが起こる場合があります。本人の日本語が突然悪くなったのではありません。周囲の日本語の方が先へ進んだ結果、差が見えるようになってきた可能性があります。 「来年から」が、何年も続く家庭がある 教室を運営していて、少し気になることがあります。「今年は忙しいので、来年から」とお話しされていたご家庭が、翌年になると往々にしてもっと忙しくなっていることです。学年が上がれば、学校の宿題も増えます。スポーツも本格的になります。音楽を続けていれば練習時間も増えます。友人関係も重要になります。Secondary Schoolへ進めば、さらに忙しくなります。 つまり、「来年になれば時間ができる」とは限りません。むしろ、私が教室を通じて見てきた範囲では、学年が上がるにつれて、日本語を新しく生活に入れることの方が難しくなるケースがほとんどです。 小学2年生なら、「土曜日は日本語の本を読む」という習慣を比較的作りやすい。 でも中学1年生になって突然、「今日から毎週日本語を勉強しよう」と言われても、本人にとっては、「なぜ今さら?」となるかもしれません。 時間の問題だけではありません。生活習慣の問題にもなるのです。 一度離れた日本語を「勉強」に戻すのは意外に大変 幼い頃から日本語の本を読むことが日常に入っている子にとって、日本語の読書は、「勉強」ではありません。本を読むだけです。日本語で話すことも、「日本語学習」ではありません。普通に話しているだけです。 でも数年間、日本語で読み書きをほとんどしなかった後で再開すると、日本語は突然、「追加の勉強」になります。 学校では英語やオランダ語で十分勉強している。その後漢字を覚える、日本語の本を読む、作文や感想文を書く 本人からすると、「なぜ?」となります。しかも、その時点では日本語の本が難しくなっています。同年代向けの本は読みにくい。でも簡単な本では内容が幼すぎて面白くない。これは海外で日本語読書を再開するときに、よく起こる問題です。知的な年齢と、日本語で読める本の年齢が合わなくなるのです。 12歳なのに、日本語では7~8歳向けの文章しか楽に読めない。でも12歳の本人は、その内容には興味を持てない。だから読まない。読まないので、さらに読む力が伸びない。こうした循環に入ると、日本語を再開するハードルは一段高くなります。 だから「少しだけ続ける」ことに意味がある では、海外にいる間、日本の学校と同じだけ国語をやらなければならないのでしょうか。私はそうは思いません。家庭によって目標は違います。日本へ数年後に帰る家庭や海外で高校まで過ごす家庭、永住する家庭など、様々で、それぞれ必要な日本語は違います。 でも、日本語を将来も使える言語として残したいのであれば、ゼロにしないことには大きな意味があると思います。 週に何時間も勉強できなくても、 本を読む 日本語で日記を書く 祖父母に文章を送る 漫画を読む 日本のニュースを一緒に見る 漢字を少し続ける 日本語のオーディオブックを聞きながら文字を追う 補習校へ行く 日本語教室へ通う 何でも構いません。重要なのは、本人の日本語に、新しい言葉と新しい文章が入り続ける状態をつくることです。 「週1回で意味があるの?」という質問 これも時々聞かれます。「週1回、日本語をやるだけで意味がありますか?」もちろん、週1時間だけで日本の学校に毎日通っている子どもと同じ日本語環境を作ることはできません。 でも私は、週1回そのものより、そこから日常へ何がつながるかが重要だと思っています。例えば、一冊の本を読み始めると、面白くなって家でも続きを読み知らない言葉に出会う。次の本を手に取るようになり、そこで覚えた表現を家庭で使うこともあるでしょう。そうなると、日本語との接触は週1時間ではなくなります。 逆に、週1回教室へ行っていても、それ以外の6日間、日本語の文章を全く読まないのであれば、できることには限界があります。ですから、「何時間日本語を習っているか」だけでなく、「日本語が生活の中に残っているか」を見る方が大切だと思います。 読書を続けている子には、違う景色が見えることがある 教室には、幼い頃から海外で育っているにもかかわらず、非常に高い日本語力を持つお子さまもいます。そうしたお子さまたちを見ていると、共通していることがあります。もちろん全員ではありませんが、日本語の本を継続的に読んでいることです。 家庭には日本語の本がたくさんある。日本へ行ったら本を買って帰る。図書館を利用する。本人も読書することに抵抗がない。そして結果として、年齢とともに読んでいる本も少しずつ難しくなっていく。 日本語を継承語として育てる子どもを対象にした2025年の研究でも、日本語での読書・作文・宿題などのLiteracy活動は、日本語の自己・保護者評価による能力と関連していました。また、日本で過ごすなどの集中的な日本語環境は語彙得点とも関連していました。 さらに、米国の15~18歳の日本語継承語話者を対象とした研究では、日本語で楽しみのために読書する頻度が、日本語語彙力を予測する要因の一つになっていました。もちろん、「本を読めば必ず日本語が高くなる」という単純な因果関係ではありません。本が好きだから読む。日本語が得意だから読む。親の働きかけがあるから読む。さまざまな要因が絡みます。 それでも、日本語で読み続けることが、年齢とともに日本語を成長させる重要な環境の一つであるとは言えそうです。 日本語学習は「追いつく」より「離れすぎない」方が楽 私は、この点を保護者の方に一番伝えたいと思っています。日本語教育では、「必要になったら取り戻せばいい」と考えがちです。もちろん、後から伸ばすことはできるでしょう。子どもには大きな学習能力がありますし、日本語環境へ戻ることで急速に伸びるケースもあります。だから、「今やらなければ取り返しがつかない」と不安を煽る必要はありません。 ただ、小学3年生のときに少し離れている状態から戻るのと、中学1年生になって何年分もの読み書きや語彙の差を一度に埋めようとするのとでは、必要な負荷が違います。後者では本人の学校生活も忙しくなり、扱う文章も難しく、必要な漢字も増えています。本人の「日本語を勉強する理由」も必要になります。 だから私は、「後から一気に追いつく」より、「大きく離れないように少しずつ続ける」方が、子どもにとっても家庭にとっても負担が少ないと思っています。 日本語よりサッカーを選ぶ。それも家庭の選択です ここは大切なので、はっきり書いておきたいと思います。子どもの時間は有限です。サッカーが大好きなら、サッカーを優先する。音楽の才能があるなら、音楽に時間を使う。英語を最優先にする。それも、家庭として十分にあり得る選択です。すべての海外在住の子どもが、日本の同年代と同じ日本語力を持たなければならないとは思いません。 大切なのは、何を選び、何を手放しているのかを理解したうえで選択することだと思います。 「日本語は今やらなくても、必要になったらすぐ戻るだろう」と思って日本語を止めることと、「日本語の読み書きには一定のギャップが生まれる可能性がある。それでも今は他のことを優先する」と理解して選ぶことは違います。後者なら、家庭としての教育方針です。そして、「完全にやめるのではなく、週末に本だけは読もう」という中間の選択もできます。教育には、0か100かしかないわけではありません。 日本語を始める「完璧なタイミング」は、なかなか来ない 「学校に慣れたら」 「英語が落ち着いたら」 「サッカーが一段落したら」 「来年になったら」 「Secondaryに入ったら」 そう考えているうちに、時間は過ぎていきます。そして子どもは成長します。小学3年生は小学4年生になり、小学4年生は小学5年生になります。日本語も、それに合わせて成長する必要があります。だからたくさんやる必要はありません。完璧にやる必要もありません。日本の学校と同じことをすべてやる必要もありません。でも、「日本語だけは来年から」と完全に止める前に、一度考えてみてほしいと思います。 来年になったとき、戻る場所は今と同じでしょうか。お子さま自身は一歳成長しています。同年代の日本語も一歳分成長しています。そして、日本語を再び生活に入れるための時間は、本当に増えているでしょうか。 日本語教育で大切なのは、一気に追いつくことではなく、本人の成長と一緒に、日本語も少しずつ前へ進ませておくことなのかもしれません。 参考資料 Kubota, M. et al. (2025), Modeling individual differences in vocabulary development: A large-scale study on Japanese heritage speakers, Child Development, 96(1), 325–340. Mori, Y. & Calder, T. M. (2017), The Role of Parental Support and Family Variables in L1 and L2 Vocabulary Development of Japanese Heritage Language Students in the United States, Foreign Language Annals.