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家では日本語なのに、兄弟の会話は現地語になる

2026年9月3日

家では日本語なのに、兄弟の会話は現地語になる。家庭の言語は、親だけでは決まらない。

海外で日本人家庭のお子さまたちを見ていると、とても興味深いことがあります。一人っ子の家庭と、兄弟姉妹がいる家庭では、日本語の使われ方がかなり違うことがあるのです。 例えば、オランダで暮らしているある家庭。親は日本人で、子どもには日本語で話しかけています。親から子へは日本語。子どもから親へも、基本的には日本語。 一見すると、「家では日本語を使っている家庭」です。ところが、兄弟姉妹だけになると突然、オランダ語もしくは英語になる。そんな家庭を、教室を運営しているとよく見ます。特に兄弟姉妹が2人、3人といる家庭では、親と話すときは日本語。でも子ども同士ではオランダ語もしくは英語。という言語の使い分けが、いつの間にか定着していることがあります。 そして、少し気になるケースもあります。上の子どもたちは日本語でも親と話せる。でも一番下のお子さまは、兄や姉から入ってくる言葉の多くがオランダ語になり、日本語で自分の考えを十分に表現することが難しくなっている。親は日本語で話しているのに、子どもはオランダ語で返す。さらに日本語での理解も少しずつ難しくなり、親子のコミュニケーションそのものに言語の壁が生まれている。そんなケースを見ることもあります。 もちろん、これはすべての多言語家庭に起こることではありません。でも、家庭の言語は、親が何語で子どもに話しているかだけでは決まらない。ということは、海外で子どもを育てるうえで知っておいてほしいと思います。 なぜ兄弟姉妹は、現地語で話すようになるのか 考えてみれば、とても自然なことです。子どもたちは一日の多くを学校で過ごします。私達の住むオランダだと、 学校ではオランダ語。 先生との会話もオランダ語。 友達との会話もオランダ語。 休み時間もオランダ語。 遊びで使う言葉もオランダ語。 スポーツクラブでもオランダ語。 YouTubeやゲームでもオランダ語や英語。 そうなると、子どもにとってオランダ語は、学校で勉強するためだけの言葉ではなく、子ども同士で生活するための言葉になっていきます。その状態で兄弟姉妹が家に帰ってきます。 学校で起きたことを話す。 ゲームの話をする。 一緒に遊ぶ。 けんかする。 冗談を言う。 親に聞かれたくない話をする。 そうした「子ども同士の世界」は、学校と同じオランダ語もしくは英語の方が自然になっていきます。親が、「家では日本語で話しなさい」と言ったとしても、子どもにとっては、「どうして?」となるかもしれません。 学校ではずっとオランダ語(英語)を使っている。友達ともオランダ語(英語)。兄弟姉妹も同じ学校文化の中にいる。そう考えると、兄弟姉妹の会話が現地語になること自体は、とても自然な言語選択です。 実は、研究でも兄弟姉妹の言語は重要視されている 家庭の言語というと、「母親が何語で話すか」「父親が何語で話すか」が注目されがちです。しかし近年のFamily Language Policy、つまり「家庭内言語方針」の研究では、兄弟姉妹の存在も重要な要素として扱われています。 2024年に発表された多言語家庭と言語維持についての研究レビューでは、過去の研究として、子どものその後の言語使用に影響する要素の中に、兄弟姉妹間で使われる言語が含まれていることが紹介されています。 あるカナダの研究では、兄弟姉妹同士で使う言語、少数言語での読み書き、親同士が使う言語などが、子どもの将来的な言語使用と強く関係する要素として示されています。つまり、 親→子 だけを見ていては、家庭内の言語環境を十分に理解できないということです。 子→子 兄→弟 姉→妹 この言語も非常に重要なのです。 最初の子と、末っ子では「日本語環境」が違う これは私自身、教室で子どもたちを見ていて特に興味深いと感じる部分です。例えば、3人兄弟の家庭を考えてみます。一番上の子どもが生まれたとき。家には、父親と母親と赤ちゃんしかいません。 親が日本語を使っていれば、その子に入ってくる家庭内の言葉の大部分は日本語です。ところが、5年後に3人目が生まれたとします。家庭には、父親、母親、兄、姉、末っ子がいます。 親は末っ子に日本語で話している。でも兄と姉はオランダ語で話している。兄と姉が末っ子に話しかけるときもオランダ語。兄姉が遊んでいるのを横で聞く言葉もオランダ語。すると、同じ家庭に生まれた兄弟であっても、一番上の子と一番下の子では、幼少期に家庭の中で耳にする言語の割合が全く違うということが起こります。 親は同じです。家庭教育方針も同じ。「家では日本語を話している」という認識も同じ。でも実際の言語環境は変わっています。ここは、多子家庭では意外と見落とされやすいところだと思います。 上の子が、現地語を家庭へ持ち込む 第一子が学校へ通い始めると、家庭にはそれまでなかった大量の言葉が入ってきます。オランダ語(英語)です。 「今日、先生がこう言った」 「○○ってどういう意味?」 「学校ではこう言うんだよ」 といった形で入ってくるだけではありません。 遊びのルール 流行している言葉 友達との冗談 歌 ゲーム 学校文化そのものを、上の子が家庭へ持ち帰ります。 そして弟や妹にとっては、親だけでなく、兄や姉も重要な言語モデルです。兄や姉がオランダ語を使えば、弟や妹にとってオランダ語を覚える機会はさらに増えます。 これは悪いことではありません。むしろ、現地社会で生活するためには非常に自然で、必要なことです。問題は、それと同時に、日本語に触れる割合が相対的に減っているということに家庭が気づいているかどうかです。 親が日本語を話しているだけでは、日本語量が足りなくなることがある 例えば、子どもが起きている時間を考えてみましょう。 学校で6時間 放課後の友達や習い事で2時間 兄弟姉妹との遊びで2時間 YouTubeやゲームで1時間 親と話す時間が2〜3時間 実際にはもっと複雑でしょうが、親だけが日本語を使い、それ以外の時間の多くがオランダ語や英語になれば、家庭で日本語を使っているつもりでも、子どもが一日に受け取る言語全体では日本語が少数派になっている可能性があります。 さらに、前回の記事でも書いたように、日本語は「自分に話しかけられた日本語」だけから学ぶものではありません。 周囲で誰かが話している言葉 兄弟がけんかしている言葉 家族が冗談を言っている言葉 誰かが説明している言葉 そういった「横から聞こえてくる日本語」も、日本で暮らしている子どもには大量に入ってきます。ところが兄弟姉妹間まで現地語になると、家庭の中で偶然耳にする日本語まで減っていきます。これは意外に大きな変化です。 子どもは、親の「言語方針」に必ず従うわけではない ここも重要です。家庭では、「家の中では日本語」と親が決めることがあります。でも、実際に言語を使うのは子ども自身です。 多言語家庭を研究した研究でも、子どもたちは受動的に親の言語方針に従っているだけではなく、自分でどの言語を使うかを選び、家族の言語習慣そのものに影響を与える存在だとされています。 これは、教室で子どもたちを見ていても非常によく分かります。親が日本語で、「今日は学校どうだった?」と聞く。子どもがオランダ語(英語)で答える。親はオランダ語(英語)が分かるので、そのままオランダ語(英語)で返す。それを毎日繰り返していると、いつの間にか親子の会話までオランダ語(英語)になる。 最初から、「今日から家ではオランダ語(英語)にしよう」と家族会議で決めたわけではありません。少しずつ、便利な方の言語へ流れていきます。家庭の言語は、このようにして変化していくことがあります。 「分かるけど話せない」が始まる 継承語としての日本語でよく見られるのが、「日本語は分かるけれど、日本語では答えない」という状態です。 親:「今日学校で何したの?」 子ども:「We gingen vandaag naar...」 親は意味が分かるので、「そうなんだ」と返す。 会話自体は成立しています。だから大きな問題に見えません。ところが、この状態が何年も続くと、子どもは日本語を聞いて理解する経験は続けていても、自分で日本語の文章を組み立てる経験が少なくなっていきます。 すると、「言っていることは分かる」でも、「自分では日本語で説明できない」という差が生まれてきます。さらに日本語で話そうとすると、「あれ」、「それ」、「なんか」などの抽象的な表現が増えていくことがあります。 頭の中に考えはあります。でも、それを日本語にするための言葉がすぐに出てこない。以前書いた「日本語の解像度」が少しずつ低くなっている状態とも言えます。 一番下の子ほど注意して見てほしい 教室で兄弟姉妹のいる家庭を見ていると、私は特に末っ子のお子さまの言語環境を気にすることがあります。 上の子は、日本語だけの家庭環境を比較的長く経験している。一方、下の子は、生まれたときから家庭に現地語を話す兄姉がいる。つまり、同じ家庭でも、日本語に触れてきた条件が違うからです。 もちろん、下のお子さまの方が日本語が弱くなると決まっているわけではありません。家庭の方針や祖父母との交流、日本語の本や日本人の友達、補習校や日本語教室など、さまざまな要因があります。 それでも、「上の子が日本語を話せているから、下の子も大丈夫だろう」と自動的に考えない方がいいと思います。兄弟ごとに言語環境をみることが重要です。 では、兄弟には日本語だけで話させるべき? ここで、「では兄弟同士も日本語だけにした方がいいのでしょうか?」という疑問が出てきます。 私は、単純に「オランダ語は禁止」とは考えません。子どもにとってオランダ語(英語)は、自分の学校生活や友人関係と結びついた大切な言語です。それを家庭で否定すると、「日本語=親から強制されるもの」になってしまう可能性があります。また、子ども同士の自然なコミュニケーションまで親が常に管理するのは現実的ではありません。 多言語家庭の研究でも、家庭の言語維持には親の方針だけではなく、子ども自身の態度や家族関係、社会の言語環境など複数の要因が影響します。だから私は、「何語を禁止するか」より、「日本語を使う必要がある場面をどう増やすか」と考えた方がよいと思っています。 日本語を「使わなければならない状況」をつくる 親は子どものオランダ語(英語)を理解できる、兄弟もオランダ語(英語)を理解できる、学校もオランダ語(英語)、そうなると子どもの立場から見れば、日本語を使わなくても生活できるのです。 言語は、必要がなければ使われなくなります。だから、日本語を育てたいのであれば、「日本語を勉強しなさい」だけではなく、日本語を使う意味のある場面をつくることが重要だと思います。例えば、 日本の祖父母と話す 日本にいるいとこと話す 日本人の友達と遊ぶ 日本語の本について兄弟で話す 日本語の映画を見る 日本へ一時帰国する 日本語でゲームをする 兄弟で日本語のクイズをする 家族で日本のニュースについて話す こうした機会です。「日本語を使うこと」そのものを目的にするのではなく、日本語を使って何か面白いことをするという状態をつくる方が自然ではないでしょうか。 兄弟姉妹がいることは、逆に大きな強みにもなる ここまで読むと、「兄弟がいると日本語維持には不利なのか」と思われるかもしれません。むしろ逆で、兄弟姉妹は家庭の中で日本語を使える最も身近な仲間にもなりえます。 一人っ子の場合、日本語を話す相手が親だけということがあります。兄弟がいれば、一緒に遊んだり、秘密を話したり、けんかしたり、相談し、冗談を言う仲間になり、非常に豊かな言語経験を家庭の中で作ることができます。 重要なのは、その関係が現地語だけで固定される前に、日本語でも兄弟同士の経験を積ませておくことではないでしょうか。 幼い頃から、日本語の絵本を一緒に読む、日本語でごっこ遊びをする、日本の祖父母と兄弟一緒に話す、日本へ行ったときに、日本語で一緒に遊ぶ、などの経験があれば、「日本語=親と話すためだけの言葉」ではなくなり、兄弟姉妹の言葉にもなります。 家庭言語は「自然に残るもの」ではない 海外に住んでいると、「親が日本人なのだから、日本語は自然に残るだろう」と思ってしまうことがあります。でも実際には、社会には非常に強い多数派言語があります。 オランダに住めばオランダ語。 英国なら英語。 フランスならフランス語。 子どもは学校へ行き、友達をつくり、その社会で生活します。当然、多数派言語の力は年齢とともに強くなります。 2024年の多言語家庭に関する研究でも、家庭言語の維持について、親から子への言語伝達だけではなく、学校や社会の言語環境、兄弟姉妹の言語使用などが複雑に関係することが整理されています。 つまり、日本語は、家に日本人の親がいるだけで自動的に維持されるものではありません。少し意識して環境をつくらないと、多数派言語へ少しずつ置き換わっていくことがあります。 日本語を守るというより、「家庭に日本語が存在する場所を残す」 私は、「家庭では絶対に日本語だけ」という厳しいルールがすべての家庭に必要だとは思いません。それぞれの家庭には事情があります。 両親の言語 子どもの年齢 学校 帰国予定 本人の性格 兄弟構成 日本語を将来どこまで必要とするのか。 すべて違います。 でも、日本語を将来も使える言語として残したいのであれば、一度、家庭の中を観察してみてください。 兄から弟へは? 姉から妹へは? 子どもたちだけになった瞬間、何語になりますか? 食事中は? ゲーム中は? けんかするときは? 感情的になったときは? そこを見ると、家庭の本当の言語環境が見えてきます。 「私たちは家では日本語です」と思っていたけれど、よく見てみたら日本語が使われているのは親子間だけだった。ということもあるかもしれません。 それ自体が悪いわけではありません。重要なのは、それを家庭が把握したうえで、将来の日本語をどうしたいかを選択することだと思います。 兄弟姉妹の言葉は、家庭の未来の言葉になる 兄弟姉妹は、親より長く一緒に生きていく可能性があります。子どもの頃、兄弟同士でどの言語を使っていたか、大人になったとき、どの言語で話すのか、そしてその先、自分たちの子どもに何語を伝えるのか。 家庭言語は、親から子へ一方向に受け継がれるものではありません。兄弟姉妹の間でも作られていきます。 だから私は、教室におこしになるご家庭に、「お子さまに何語で話しかけていますか?」だけではなく、「お子さまたちは、兄弟姉妹で何語を話していますか?」を伺うようにしています。 そこには、家庭の日本語環境を考えるうえで、とても重要なヒントが隠れているかもしれません。 参考資料 Pagé & Noels (2024), Family language policy retention across generations: childhood language policies, multilingualism experiences, and future language policies in multilingual emerging Canadian adults Slavkov (2017), Family language policy and school language choice: pathways to bilingualism and multilingualism in a Canadian context Said & Zhu (2019), Children’s agency in language use and socialisation, International Journal of Bilingualism Barron-Hauwaert (2011), Bilingual Siblings: Language Use in Families

母語での読書は、なぜ海外の子どもに必要なのか

2026年9月1日

母語での読書は、なぜ海外の子どもに必要なのか

日本語を「維持する」ためではなく、日本語で考える力を成長させるために 前回の記事では、海外で失われやすい日本語は漢字だけではない、という話を書きました。 「ちょろちょろ」と「ざぶざぶ」。 「悲しい」と「切ない」。 「見る」と「見つめる」。 日本で生活していれば、子どもたちは学校だけでなく、友達、先生、祖父母、テレビ、街の中の会話などから、実にさまざまな日本語を吸収していきます。しかし海外で生活すると、その環境が大きく変わります。 家庭では日本語を話している。 日本のYouTubeも見ている。 祖父母とも日本語で話している。 だから、日本語は大丈夫。 そう見えるお子さまでも、年齢が上がるにつれて日本語の語彙や読解力に差が出てくることがあります。では、日本に住んでいない子どもに、どうすれば年齢相応の日本語を与え続けることができるのでしょうか。 その一つの大きな答えが、読書です。ただし私は、読書を 「漢字を覚えるため」 「国語の成績を上げるため」 「日本語を忘れないため」 だけのものだとは考えていません。 海外で育つ子どもにとって読書には、もっと重要な役割があります。それは、日本語で考える力そのものを、本人の年齢と一緒に成長させ続けることです。 家庭で話す日本語には、どうしても限界がある 海外在住のご家庭から、「家ではずっと日本語なので、日本語には毎日触れています」というお話をよく聞きます。もちろん、これはとても重要なことです。 家庭で日本語を使わなくなれば、日本語への接触量はさらに少なくなります。ただ、少し別の角度から考えてみましょう。昨日一日、家庭でどんな会話をしたでしょうか。 「朝ごはん食べる?」 「今日何時に帰ってくる?」 「宿題やった?」 「学校どうだった?」 「早くお風呂に入って」 「明日の準備した?」 もちろん、これだけではありません。でも家庭での会話の多くは、生活を成立させるための会話です。しかも親子ですから、すべてを言葉で説明しなくても通じます。 子どもが、「今日さ、あの子がまたあれやって、それで先生に怒られてた」と言えば、親は普段の学校の話を知っているので、「ああ、○○君のことね」と理解できます。 しかし、文章ではそうはいきません。書き手は読み手のことを知りません。読み手も書き手の状況を知りません。だから文章では、 誰が、 どこで、 何をして、 なぜそうなり、 何を感じ、 何が起こったのか、 言葉を使って構築する必要があります。つまり、読書をするということは、家庭内の「分かり合っている人同士の日本語」とは違う種類の日本語に触れることでもあります。 本の中には、家庭で使わない言葉が大量に出てくる 例えば、小学生向けの物語を読んでいると、 「ためらう」 「見当をつける」 「気配を感じる」 「呆れる」 「気まずい」 「意地を張る」 「納得する」 「戸惑う」 「慎重に」 「思いがけず」 といった言葉が普通に出てきます。これらを、家庭で毎日のように使っているでしょうか。おそらく、それほど頻繁には使いません。 さらに年齢が上がれば、 「主張」 「根拠」 「傾向」 「背景」 「影響」 「対照的」 「一方で」 「つまり」 「必ずしも」 「~にもかかわらず」 といった、説明や論理を組み立てるための言葉も増えていきます。こうした言葉は、日常会話だけではなかなか大量に入ってきません。しかし、本を読めば何度も出会います。 そして大切なのは、言葉を単独ではなく、文脈の中で出会えることです。 読書では、知らない言葉を「前後から考える」 例えば本の中に、「おっこは一瞬ためらったが、思い切って扉を開けた」という文章があったとします。「ためらう」という言葉を知らなくても、 「一瞬」 「しかし」 「思い切って扉を開けた」 という前後の情報から、「すぐには行動できなかったのかな」、「やろうか、やめようか迷った感じかな」と推測できます。これが読書の非常に重要なところです。 知らない言葉が出る。 前後を読む。 意味を予想する。 読み進める。 別の本で、またその言葉に出会う。 少しずつ意味がはっきりしてくる。 こうして語彙は増えていきます。 読書中に未知語の意味を偶発的に学習できることは、以前から研究でも確認されています。20の実験研究をまとめたメタ分析でも、通常の読書の中で未知語の一部が学習されることが示されています。もちろん、一度目にしただけですべて覚えるわけではなく、複数回・複数の文脈で出会うことが重要です。 語彙が増えると、文章が読める。文章が読めると、さらに語彙が増える 読書には、ある意味で「好循環」があります。 知っている言葉が多い子どもほど、文章を理解しやすくなります。 文章を理解できると、本を読むことが苦痛ではなくなります。 本を読む量が増えると、さらに知らない言葉に出会います。 その言葉を覚えることで、さらに難しい文章が読めるようになります。 逆も起こります。 知らない言葉が多すぎる。 文章が分からない。 読んでも面白くない。 だから読まない。 読まないので、語彙が増えない。 ますます同年代向けの本が難しくなる。 この差は、低学年では小さく見えても、何年も続けば大きくなっていきます。 読書への接触量と、語彙・読解力・読み書き能力には関連があることが、多くの研究で報告されています。乳幼児から大学生までの99研究、7,669人を対象にしたメタ分析でも、読書への接触量と読解力・読み書き能力の間に中程度から強い関連が確認されています。研究者は、読めるから読む、読むからさらに読めるようになる、という相互的な「上向きの循環」を指摘しています。 海外で育つ子どもには、この循環が日本語で起こりにくい 日本で暮らしている子どもなら、日本語を読まない日でも大量の日本語に囲まれています。 学校のプリント 教科書 駅の看板 テレビ 図書館 商品パッケージ 友達からのメッセージ 先生が黒板に書く文章 社会科の資料 理科の問題 つまり、本人が「今日は読書をしよう」と思わなくても、日本語の文字を大量に目にします。海外では、この環境がありません。 学校の教科書は英語 先生からのメールも英語 道路標識も英語や現地語 図書館へ行っても英語 友達とのチャットも英語 インターネット検索も英語 日本語を家庭で話していたとしても、「日本語を読む量」は圧倒的に少なくなります。ここがとても重要です。会話を続けていれば、日本語が完全になくなるわけではありません。しかし、話せる日本語と、読める日本語の差が少しずつ広がっていくことがあります。 「日本語は話せるのに、日本語の本を読めない」 海外で育つお子さまには、こんなことがあります。 日本語で普通に会話している。 日本のアニメも理解している。 日本の祖父母とも問題なく話している。 ところが、日本の同年代向けの本を渡すと、 「難しい」 「意味が分からない」 「読みたくない」 となる。 親から見ると不思議です。「こんなに日本語を話せるのに、なぜ?」でも、これは不思議ではありません。会話では、表情があり、声のトーンがあり、ジェスチャーがあり、聞き返すこともできます。相手が言い換えてくれることもあります。多少聞き逃しても、会話は続きます。文章には、それがありません。 文字だけから誰が何をしているのか、言葉の意味は何か、前の段落とどうつながっているのか、筆者が何を言いたいのかを自分で組み立てなければなりません。 つまり読書には、会話とは違う種類の日本語力が必要なのです。 読書は、語彙だけを増やしているわけではない 私は読書の価値を、「語彙が増える」だけで説明するのも不十分だと思っています。本を読むと、文章の構造にも繰り返し触れます。 「なぜなら」 「ところが」 「一方で」 「そのため」 「つまり」 「例えば」 「にもかかわらず」 こうした言葉を理解すると、文章の中で、 何が原因なのか。 何が結果なのか。 どこから反対意見なのか。 どれが具体例なのか。 何をまとめているのか。 が見えるようになります。以前の記事で、小学校高学年から中学生にかけて、「原因と結果」、「意見と根拠」、「具体と抽象」、といった関係を理解することが重要になるという話を書きました。こうした思考を支えているのも、言葉です。 読書をするということは、単にストーリーを楽しむだけではなく、他人がどのように情報を整理し、考えを組み立て、それを言葉にしているのかを大量に見ることでもあります。読解力についてNational Reading Panelも、語彙は読解に重要な役割を持ち、読解は読み手が文章と能動的に関わる複雑な認知過程だと整理しています。 物語を読むことにも、大きな意味がある 「思考力を伸ばすなら、説明文や論説文を読ませた方がいいのでは?」と思うかもしれません。もちろん、それらも大切です。でも、物語にも非常に重要な役割があります。物語を読むと、 主人公は何を考えているのか。 なぜこんな行動をしたのか。 この人は本当は怒っているのか、悲しいのか。 なぜ二人はすれ違っているのか。 次に何が起こりそうなのか。 自分だったらどうするのか。 といったことを考えます。しかも、物語には自分の家庭にはいない人が登場します。 自分とは違う年齢。 違う性格。 違う家族。 違う時代。 違う価値観。 違う境遇。 一冊の本を読むということは、自分とは違う人間の頭の中を想像でふくらませながら、日本語で追体験することでもあります。海外で暮らしている子どもにとって、これは特に大きな意味があります。家庭内だけでは出会えない日本語と、家庭内だけでは出会えない考え方を、同時に経験できるからです。 日本語を継承する子どもの研究でも「Literacy」が重要な要素として出てくる 前回も紹介した、日本語を継承語として育てている427人を対象とした研究があります。この研究では、日本語環境で育つ子どもと比較しながら、何が継承語としての日本語発達の個人差と関係しているのかを分析しています。 その中で、家庭での日本語だけではなく、学校、地域社会、日本への滞在、そして、読書・作文・宿題などの日本語によるLiteracy活動が独立した言語経験の要素として分析されています。研究では、日本への滞在経験が語彙得点を予測し、日本への滞在とLiteracyの双方が、より広い意味での日本語能力を予測していました。これは、海外で日本語を育てるうえで、とても示唆的だと思います。 単に、「家庭で日本語を話しているか」だけではない。日本語を使って読んだり、書いたりする経験があるか。そこまで考える必要があるということです。 ただし、「本を渡しておけばいい」わけでもない ここは、とても大切です。「読書が重要」と書くと、では日本から本をたくさん買って、「毎日30分読みなさい」と言えばいいのか。という話になります。私は、そうは思いません。 読書研究でも、単に子どもに自主的な黙読を大量にさせれば、それだけで必ず読解力が上がる、と単純に因果関係を言えるわけではありません。 National Reading Panelも、独立した黙読だけを読書指導として用いることについては、十分な因果的エビデンスがないとして慎重な評価をしています。一方で、語彙指導、文章理解の方略、ガイド付きの音読などについては効果を示す研究があります。 つまり、読書は魔法ではありません。本人がほとんど理解できない本を与えて、「とにかく読みなさい」と言っても、効果的とは限りません。むしろ本嫌いになる可能性があります。 大切なのは「少しだけ難しい本」を読むこと 海外で日本語の読書を続けるうえで、私が特に重要だと思うのは、その子に合った本を選ぶことです。 簡単すぎる本では、新しい言葉にあまり出会いません。難しすぎる本では、分からない言葉だらけになり、内容を楽しめません。 大部分は理解できる。 でも、ときどき知らない言葉が出てくる。 前後を読めば、何となく意味を予想できる。 ストーリーの続きが気になるので、そのまま読みたくなる。 このくらいの負荷が理想的です。 そして、分からない言葉が出るたびに読書を止めて辞書を引かせる必要もありません。 重要な言葉なら一緒に考える。 前後から予想させる。 何度も出てきたら確認する。 場合によっては、そのまま読み進める。 読書を、「知らない言葉を全部覚える作業」にしないことも大切です。 音読や読み聞かせは、何歳まで? 「もう小学5年生なので、読み聞かせは卒業ですよね」と聞かれることがあります。必ずしもそうではないと感じます。自分一人では読むのが難しい本でも、大人が読めば理解できることがあります。つまり、読む力より、聞いて理解する力の方が高い時期があります。 特に海外で育ち、会話の日本語は比較的強いけれど、漢字や日本語を読むことには慣れていない子どもには、大人が読んであげる、交代で読む、オーディオブックを使う、音声を聞きながら文字を追うという方法も使えます。 ただし、日本語の文字を読む力を伸ばしたいのであれば、音声だけで終わらせず、少しずつ実際の文章にも触れることが重要です。 「読んだ後に問題を解く」ことだけが読解ではない 日本の国語教育というと、文章を読んで、問題を解いて、答え合わせをするというイメージを持つ方も多いと思います。 もちろん読解問題にも役割があります。でも家庭での読書なら、もっと自由でいいと思います。例えば、 「どの人が一番好き?」 「なんでこの子、こんなこと言ったと思う?」 「このあと、どうなると思う?」 「もし自分だったらどうする?」 「この人、本当は怒ってるのかな?」 「今日出てきた『気まずい』って、どういう感じ?」 こんな会話で十分です。大切なのは正解することではなく、本の中で起きていることを、日本語で考え、想像をふくらませ、日本語で説明すること。です。これを続けていくと、読書が単なるインプットではなく、 読む。 考える。 話す。 言葉を知る。 また読む。 という循環になります。 幼児期の研究ではありますが、子どもを会話に参加させながら本を読む「dialogic reading」は、通常の読み聞かせと比べて表出語彙の発達にプラスの効果を示したメタ分析もあります。 「日本語と英語、両方読ませなければ」と考えすぎなくてもいい 海外のご家庭には、もう一つ時間という大きな悩みがあります。 学校の宿題は英語。 英語の本も読まなければならない。 日本語の漢字もある。 日本語の本も読ませたい。 サッカークラブもある。 ピアノもある。 チェスも始めたい。 お友だちとのスリープオーバーもある。 全部やろうとすると、子どもも親も疲れてしまいます。ここで一度考えたいのは、最終的に何を目指しているのかではないでしょうか。 私は、まず一つの言語であっても、年齢相応の本を読み、複雑なことを理解し、考え、説明できる力を育てることが非常に重要だと思っています。 英語でも日本語でも、簡単な文章しか読まない状態にするより、一つの言語でしっかり深く読める状態をつくる。その上で、もう一つの言語もできる限り育てていく。家庭の進路や帰国予定によって、どちらにどれだけ時間を使うかは変わります。 ただし、将来日本へ帰国する可能性があるのであれば、日本語の読書を何年間も完全に止めてしまうことには慎重であってほしいと思います。会話だけでは、後から「読むための日本語」を取り戻すのに大きな負荷がかかることがあるからです。 日本語の読書は「国語の勉強」ではない 海外にいると、日本語の本を読むことが、「日本語の勉強」になってしまいがちです。でも日本に住んでいる子どもにとって、読書は必ずしも「国語の勉強」ではありません。 面白いから読む。 続きが知りたいから読む。 好きなキャラクターがいるから読む。 怖い話が好きだから読む。 恐竜について知りたいから読む。 スポーツ選手について知りたいから読む。 海外にいる子どもにも、できるだけこの状態を作ってあげたいと思います。「日本語維持のために読ませる」だけになってしまうと、本人にとって読書は義務になります。 でも、本の内容そのものが面白いから、結果として日本語を大量に読む。この状態が作れれば、とても強いです。そのためには親が読ませたい本ではなく、本人が読みたい本を見つけることも非常に重要です。 物語でなくても構いません。スポーツや動物、伝記やミステリーなど、本人が日本語でページをめくりたくなるものから始めればいいと思います。 海外での読書は、日本語環境を「人工的につくる」こと 日本にいれば、日本語は勝手に周りから入ってきます。海外では、それをある程度意識的につくらなければなりません。読書は、そのための非常に効率的な方法です。一冊の本を開けば、 知らない人が話しています。 知らない場所があります。 知らない感情があります。 知らない出来事があります。 知らない言葉があります。 そして、それらすべてを日本語で経験できます。 つまり読書は、海外の日常では足りなくなった日本語環境を、本の中につくることでもあります。だから私は、海外で日本語を育てるうえで、「漢字を何文字覚えたか」だけではなく、「今、この子は日本語で何を読んでいるだろう?」ということを、とても重要な指標だと考えています。 子どもの年齢が上がるなら、読む日本語も一緒に成長させる 以前の記事でも書きましたが、小学2年生で身につけた日本語を、そのまま維持するだけでは小学6年生の日本語にはなりません。同じように、小学2年生向けの本を読み続けているだけでは、12歳、15歳になったときに必要な日本語にはなかなか届きません。 子どもが成長する、興味が変わる、考えることが複雑になる、それに合わせて、絵本から児童書へ、物語から説明文へと、読んでいる文章も少しずつ変えていく必要があります。 そして、ニュース、伝記、歴史、科学、意見文へ展開していくことにより、本人の成長と一緒に、読む日本語の世界も広げていく。これが海外での日本語教育において、とても重要だと思います。 「日本語を忘れないため」から、「日本語で成長するため」へ 海外在住のご家庭では、「日本語を忘れさせたくない」という言葉をよく聞きます。もちろん、それは大切です。でも私は、もう一歩先を考えてほしいと思っています。 忘れないだけではなく、8歳なら8歳の日本語、12歳なら12歳の日本語と、日本語も本人と一緒に成長させる。そのために、家庭での会話だけでは得にくい日本語を届ける。読書には、その役割があります。 語彙を増やす。 文章を理解する。 人の気持ちを考える。 原因と結果を追う。 知らない世界を知る。 自分と違う価値観に出会う。 そして、それについて日本語で考える。 だから、母語での読書は、日本語維持のためだけにするものではありません。子どもが年齢相応に考えるための言葉を育て続ける。そのための土台なのだと思います。 海外で日本語を育てるなら、「今日は漢字を何文字覚えた?」だけではなく、時々こう聞いてみてください。 「最近、日本語でどんな本を読んでいる?」そこから見えてくるものは、意外に大きいと思います。 参考資料 Kubota et al. (2025), Modeling individual differences in vocabulary development: A large-scale study on Japanese heritage speakers, Child Development Mol & Bus (2011), To Read or Not to Read: A Meta-Analysis of Print Exposure From Infancy to Early Adulthood, Psychological Bulletin Swanborn & de Glopper (1999), Incidental Word Learning While Reading: A Meta-Analysis, Review of Educational Research National Reading Panel (2000), Teaching Children to Read, National Institute of Child Health and Human Development Mol et al. (2008), Added Value of Dialogic Parent–Child Book Readings: A Meta-Analysis, Early Education and Development

海外で失われる日本語は、漢字だけではない

2026年8月31日

海外で失われる日本語は、漢字だけではない

「ちょろちょろ」と「ざぶざぶ」の違い、説明できますか? 海外で子どもの日本語について話をしていると、保護者の方が気にされるのは、どうしても「漢字」や「読み書き」になりがちです。 「漢字が日本の同学年より遅れています」 「ひらがなは読めるけれど、文章を読むのを嫌がります」 「作文を書かせると、漢字をほとんど使いません」 もちろん、どれも大切な問題です。 でも、海外で子どもたちの日本語を見ていると、もう一つ、もっと見えにくいものが失われていくことがあります。それは、日本語で情景や感情を細かく捉える力です。 例えば、水が流れている様子を考えてみてください。 ちょろちょろ さらさら ざあざあ ざぶざぶ どばどば ぽたぽた 日本語を母語として育った大人であれば、それぞれの言葉を聞いた瞬間、かなり違った光景が頭に浮かぶのではないでしょうか。「ちょろちょろ」と流れる水と、「どばどば」と流れる水は、同じ「水が流れている」でも全く違います。「ぽたぽた」と「ざあざあ」では、音も、量も、スピードも、目の前に浮かぶ景色も違います。 私たちは、こうした違いを学校で一つひとつ、「ちょろちょろとは、少量の液体が細く継続的に流れる様子で……」などと習った記憶はほとんどないはずです。それでも分かります。なぜでしょうか。 日本語には、情景を一瞬で伝える言葉がたくさんある 「ちょろちょろ」「ざあざあ」のような言葉は、オノマトペと呼ばれます。オノマトペには、実際の音を表す擬音語だけではなく、状態や様子、感情などを表す擬態語も含まれます。国立国語研究所も、「はらはら」「がっつり」「ワンワン」「ニャアニャア」などを例に、擬音語・擬態語をまとめてオノマトペと説明しています。日本語の面白いところは、音だけではなく、動作や状態、感情までこうした表現を使うことです。 例えば、「歩く」だけでも、 とぼとぼ歩く よろよろ歩く ふらふら歩く ぶらぶら歩く すたすた歩く では、全く違う人が頭に浮かびます。 「見る」でも、 じっと見る ちらっと見る ぼんやり見る まじまじと見る では、視線だけではなく、その人の心理まで少し見えてきます。 感情についても、 イライラする モヤモヤする ハラハラする ワクワクする ゾクゾクする のように、非常に微妙な状態の違いを一言で表現できます。オノマトペは、単なる幼児語ではありません。日本語では、大人の日常会話にも、文学にも、漫画にも、広告にも、ごく普通に登場します。国立国語研究所の資料を見ると、一つの音の基礎から「ばたん」「ばたっ」「ばたり」「ばたばた」「ばたーん」「ばったり」のように多くの派生形が作られ、それぞれ少しずつ異なるニュアンスを持つことも日本語のオノマトペの特徴として紹介されています。 つまり日本語では、ほんの数文字の違いによって、目の前の情景をかなり細かく描き分けることができるのです。 こうした言葉は、どこで覚えたのでしょうか ここで考えてみてください。皆さんは、「ざぶざぶ」という言葉をどこで覚えたでしょうか。小学校の国語でしょうか。単語帳でしょうか。おそらくどこで覚えたか、覚えていないと思います。 雨の日に、「今日は雨がざあざあ降っているね」と誰かが言った。 お風呂で、「そんなにざぶざぶやったら水がこぼれるよ」と言われた。 水道から少し水が出ていて、「水がちょろちょろ出てるよ」と言われた。 絵本の中で読んだ。 テレビで聞いた。 友達が使っていた。 誰かと誰かが話しているのを横で聞いていた。 私たちは、そうした何千、何万という小さな言語経験を積み重ねて、日本語を身につけています。つまり日本語は、自分に向かって教えられた言葉だけから身につけているわけではありません。生活しているだけで、周囲から大量の日本語が入ってきているのです。 日本にいれば、子どもは「自分に関係のない日本語」まで聞いている 日本で暮らしている子どもの一日を想像してみましょう。 朝、テレビからニュースが流れている。 通学中に上級生が話している。 学校で先生同士が話している。 友達が別の友達に話しかけている。 図書館で司書さんが説明している。 お店で店員さんがお客さんと話している。 電車ではアナウンスが流れる。 駅で知らない大人同士が話している。 家では親が電話で誰かと話している。 祖父母は、親とは少し違った言葉を使う。 テレビでは、子どもとは全く違う世代の人が話している。 本人に直接話しかけられているわけではありません。それでも、そのすべてが日本語のインプットになっています。 「ああ、大人同士だとこんな話し方をするんだ」 「先生にはこういう言い方をするんだ」 「怒っているときには、こういう表現を使うんだ」 「知らない人には、このくらい丁寧に話すんだ」 「この場面では、この言葉を使うんだ」 そういうことを、誰かから文法として説明されることなく覚えていきます。私はこれを、海外での日本語教育を考えるうえで非常に重要なことだと思っています。 「家では日本語だから大丈夫」では補えないもの 海外で暮らしていても、ご家庭で日本語を使っていれば、日本語に触れる機会はあります。これは非常に大切です。しかし、家庭の中だけで触れる日本語と、日本社会の中で触れる日本語は、量も種類も大きく異なります。家庭では、話し手が限られます。多くの場合、父親、母親、兄弟姉妹くらいです。そして親子の場合、言葉を全部言わなくても通じます。 「ねえ、あれ取って」 「今日どうだった?」 「あとでやってね」 「それ、この前のやつ?」 これでも十分にコミュニケーションが成立します。親は子どものことをよく知っているので、子どもが十分に説明できなくても意味を推測してくれます。「それでね、あの人が、あれやって、それで嫌だった」という説明でも、「ああ、○○ちゃんのことね」と理解してくれるかもしれません。しかし、社会ではそうはいきません。 初めて会う人に説明する。 年齢の違う人と話す。 先生に質問する。 知らない人にお願いする。 状況を知らない相手に最初から説明する。 自分とは違う考えを持つ人と話す。 そうした経験では、より正確な言葉が必要になります。家庭の日本語だけでは、日本語がなくなるわけではない。しかし、日本語の世界が狭くなっていく可能性があります。ここが、海外で育つ子どもの日本語を見るうえで、とても重要だと思っています。 実際、日本語の語彙には差が生まれてくる 近年、日本語を継承語として育てている子どもを対象にした興味深い研究があります。2025年に『Child Development』に掲載された研究では、日本語を継承語として育つ427人と、日本語環境で育つ子どもたちの語彙発達を比較しています。その結果、集団として見ると、日本語を継承語として育つ子どもたちの語彙知識は、幼児期から日本語環境の子どもたちとの差が見え始め、その差には大きな個人差があることが示されました。さらに興味深いのは、何が日本語の発達と関係していたかです。研究では、家庭でどのくらい日本語を使っているかだけではなく、 読書や作文などのLiteracy 学校 地域社会 日本への一時帰国 日本滞在中に周囲から耳に入ってくる日本語 これらを含めて、子どもの言語経験を分析しています。特に、日本で過ごす期間には、親だけではなく、 祖父母 親戚 友達 知らない大人 周囲の会話 など、普段暮らしている国では得にくい多様な日本語に触れる機会があります。研究者も、こうした多様な話者や場面から日本語に触れることの重要性に注目しています。これは、海外で日本語教育をしていると、とても納得できる話です。 日本への一時帰国で、日本語が急に変わる子がいる 海外在住のお子さまが日本へ一時帰国すると、「日本から帰ってきたら、急に日本語が増えた」と感じることが多々あります。もちろん、日本語を話す時間そのものが増えた影響もあるでしょう。でも、それだけではないと思います。 コンビニに行く。 電車に乗る。 いとこと遊ぶ。 祖父母と話す。 テレビを見る。 公園で知らない子どもと遊ぶ。 レストランで隣の席の人が話している。 街を歩いている。 そのすべてから日本語が入ってきます。日本に住んでいる私たちにとっては「何でもない日常」ですが、海外で育っている子どもにとっては、大量の生きた日本語に浸かっている状態です。そして、そこで入ってくる日本語の多くは、教科書には載っていません。 日本語の違いは、オノマトペだけではない 今回、分かりやすい例としてオノマトペを取り上げました。でも、海外で触れる機会が減る日本語は、それだけではありません。 例えば、「怒る」だけでも、 腹を立てる。 機嫌を損ねる。 カッとなる。 むっとする。 苛立つ。 憤る。 叱る。 たしなめる。 では、意味が少しずつ違います。「見る」でも、 眺める。 見つめる。 見渡す。 のぞく。 観察する。 確認する。 目を通す。 では、行動が違います。 さらに、 たぶん おそらく もしかすると ひょっとすると でも、話し手が感じている確率やニュアンスは少し違います。こうした違いをたくさん知っていると、自分の気持ちや状況をより正確に言葉にできます。 逆に、使える言葉が少なければ、 すごい やばい 楽しい 嫌だ むかつく といった少数の言葉で、多くの状態を表すことになります。言いたいことがないのではありません。感じているものを細かく切り分けるための言葉が足りないのです。(因みに我が家では、「やばい」の使用は禁止しています) 言葉が増えると、世界の「解像度」が上がる 私は、語彙力という言葉を「知っている単語の数」だけで考えない方がいいと思っています。言葉が増えるということは、世界を細かく区別して捉えられるようになることでもあります。 「雨が降っている。」だけではなく、 しとしと降っている。 ぱらぱら降っている。 ざあざあ降っている。 ぽつぽつ降り始めた。 土砂降りになった。 と表現できれば、同じ「雨」でも違う状態として捉えられます。 人の気持ちも同じです。「悲しい」だけではなく、 寂しい。 悔しい。 切ない。 心細い。 虚しい。 残念だ。 やるせない。 といった言葉を知っていれば、自分の中にある感情をより細かく認識し、相手にも伝えることができます。私は、これが日本語の解像度だと思っています。 「英語にはそういう表現がない」という話ではありません ここは誤解のないように書いておきたいと思います。英語にも、もちろん非常に豊かな表現があります。例えば「歩く」という動作だけでも、walkだけではなく、stroll、stagger、wander、stride、tiptoeなど、動き方を細かく表す動詞があります。英語にも擬音表現やsound symbolismがあります。ですから、「日本語は豊かで英語は単純だ」という話ではありません。重要なのは、それぞれの言語が世界を表現する方法が違うということです。 日本語の場合、オノマトペをはじめとした表現が日常会話の中に深く入り込んでいて、それを日本社会の中で大量に聞きながら子どもたちは育ちます。海外で暮らすということは、単に「日本語を話す時間が減る」というだけではありません。日本語が使われる場面の種類そのものが減るということなのです。 だから、海外での日本語教育には「読書」が必要になる では、日本に住んでいない子どもに、どうすれば多様な日本語を与えられるのでしょうか。親が一日中、難しい日本語で話しかければいいのでしょうか。それは現実的ではありません。 そこで非常に大きな役割を果たすのが、読書です。一冊の物語の中には、家庭には存在しない人たちがたくさん登場します。 おじいさんが話す。 子どもが話す。 先生が話す。 乱暴な人が話す。 丁寧な人が話す。 怒っている人が話す。 悲しんでいる人が話す。 昔の人が話す。 自分とは違う性格の人が話す。 雨が降る。 風が吹く。 川が流れる。 扉が閉まる。 人が走る。 転ぶ。 泣く。 笑う。 緊張する。 安心する。 つまり本の中では、海外の日常生活だけでは出会えない日本語に、何度でも出会うことができます。 読書は、漢字を覚えるためだけにするものではありません。文章問題を解けるようにするためだけでもありません。海外にいる子どもにとっては、失われた日本語環境の一部を補う手段でもあるのです。日本語を継承語として育つ子どもについての近年の研究でも、読書・作文・宿題など、日本語でのLiteracy活動が言語発達に関係する重要な要素として扱われています。 家庭でできることは、国語のドリルだけではない 海外で子どもの日本語を育てようとすると、「漢字ドリルをやらせなければ」「国語の問題集を買わなければ」と考えがちです。もちろん、それらも必要な場合があります。でも、それだけではありません。例えば、 一緒に本を読む。 日本語のオーディオブックを聞く。 年齢の違う日本人と話す。 祖父母と定期的に話す。 日本へ帰ったときには、家族だけでなく同年代の子どもとも過ごす。 映画やドラマを日本語で見る。 食事中にニュースについて話す。 そして時々、 どう思った? どういう音だった? その人、どんな歩き方してた? 『嫌だった』って、腹が立ったの? 悲しかったの? 悔しかったの? と、少しだけ言葉を掘り下げてみる。こうした日常の積み重ねも、日本語教育です。 海外で守りたいのは、「日本語を話せること」だけではない 海外で育っている子どもが、日本語で親と話している。一見すると、日本語は問題ないように見えます。でも、「日本語を話せるか」だけを見ていると、見落としてしまうことがあります。 どのくらいの語彙を使っているのか。 どのくらい細かく情景を説明できるのか。 自分の感情をどのくらい正確に言葉にできるのか。 知らない相手にも状況を説明できるのか。 本の中の微妙な表現を理解できるのか。 そして、本人の年齢とともに、日本語の世界も広がっているのか。そこまで見て、初めて日本語の成長が見えてきます。海外で失われる日本語は、漢字だけではありません。 「ざぶざぶ」と「ちょろちょろ」の違い。 「悲しい」と「切ない」の違い。 「見る」と「見つめる」の違い。 そうした小さな違いの積み重ねが、その子が日本語で見ている世界の解像度をつくっています。だから私は、海外で日本語を育てるとき、「日本語を忘れさせない」だけでは足りないと思っています。 日本語で、もっとたくさんの世界に出会わせる。 日本語で、もっと細かく世界を見る。 日本語で、もっと正確に自分の気持ちを表現する。 そこまで含めて、日本語を年齢と一緒に成長させていく。それが、海外での母語教育で大切なことではないでしょうか。 次回は、「母語での読書は、なぜ海外の子どもに必要なのか」というテーマで、読書が単なる日本語維持ではなく、語彙力、読解力、そして「考える力」にどのようにつながっていくのかを考えてみたいと思います。

2026年8月30日

EALから早く抜けることだけを目標にしてはいけない理由

「英語が話せる」と「英語で学べる」の間には、大きな距離があります 海外へ移住し、インターナショナルスクールや英語圏の学校にお子さまを入れると、多くのご家庭が最初に直面するのが「英語」の問題です。学校によって名称や仕組みは異なりますが、英語を母語としない子どもには、EAL(English as an Additional Language)、ESL、ELLなどと呼ばれる英語学習支援が提供されることがあります。 海外へ来たばかりの頃は、先生が何を言っているのか分からない。 友達が話していることについていけない。 授業で発言できない。 宿題にも時間がかかる。 そんな我が子を見ていると、親としては当然、「一日でも早く英語ができるようになってほしい」と思うでしょう。そして、「早くEALから抜けてほしい」ということが、最初の大きな目標になっていきます。 その気持ちはよく分かります。ただ、私はここで一つ注意してほしいと思っています。EALから抜けることを、英語教育のゴールにしないでほしい。ということです。 本当に見るべきなのは、「英語を話せるようになったか」ではなく、「英語を使って年齢相応の学習ができるようになったか」だからです。 子どもの英語は、ある時期から急激に伸びて見える 海外へ来たばかりの頃はほとんど英語を話せなかった子どもでも、毎日英語環境にいれば、少しずつ変化していきます。 友達と遊ぶ。 先生に質問する。 給食について話す。 「昨日何をした?」と聞かれて答える。 数か月、1年、2年と経つうちに、親が驚くほど自然な英語を話すようになることがあります。発音は親よりきれいかもしれません。友達と冗談も言っています。英語のYouTubeを笑いながら見ています。 すると、私たち大人は、「もう英語は大丈夫そうだ」と感じます。でも、ここからが重要です。 例えば、「今日のランチ、何食べた?」という質問に答える英語と、「産業革命によってヨーロッパ社会はどのように変化したのか、三つの観点から説明しなさい」という問いに答える英語は、全く違います。日常生活で使う英語と、学校で学習するために必要な英語は同じではありません。 EALの子どもには、二つの課題が同時にあります EAL教育を専門とする英国のThe Bell Foundationは、EALの子どもが学校で取り組まなければならないことを非常に分かりやすく説明しています。EALの子どもには、「英語を学ぶ」ことと、「英語を使って学ぶ」ことという二つの課題が同時にあります。これは、とても重要なポイントです。例えば小学5年生で海外へ移住したとします。英語が小学1年生程度だからといって、学校で4年間待ってくれるわけではありません。 本人は小学5年生です。 算数も小学5年生。 理科も小学5年生。 社会も小学5年生。 友達は年齢相応の語彙を使って授業を受けています。その中で本人は、英語そのものを学習しながら、同時に英語を使って小学5年生の内容を理解しなければなりません。National Academiesも、English Learnersについて、英語力の習得と学年相応の教科学習へのアクセスを同時に確保することの重要性を指摘しています。 言い換えれば、「学校のカリキュラムは、子どもの英語が追いつくまで待ってくれない」のです。 「友達と普通に話している」だけでは判断できない ここが、保護者にとって最も見分けにくいところだと思います。 英語で友達と遊んでいる。 先生とも問題なく話している。 英語のテレビを見ている。 買い物も一人でできる。 これらを見ると、かなり英語ができているように感じます。実際、日常生活に必要な英語力はかなり高くなっているでしょう。しかし学校では、その先が要求されます。例えば、 compare ― 比較する analyse ― 分析する evaluate ― 評価する justify ― 根拠を示して正当化する infer ― 情報から推論する summarise ― 要約する evidence ― 根拠・証拠 consequence ― 結果・影響 perspective ― 視点・立場 といった言葉を理解し、文章を読み、情報を整理し、自分の考えを組み立て、それを文章や発表で表現する必要があります。さらに、理科には理科の言葉があります。社会には社会の言葉があります。数学にも数学特有の文章表現があります。 つまり「英語力」と一言で言っても、友達と話すための英語と、学習するための英語には大きな違いがあるのです。The Bell Foundationも、EAL学習者について、学術的な話し言葉は日常会話の流暢さより遅れて発達することがあると指摘しています。 学習に必要な英語力の習得には時間がかかる 「子どもは英語を覚えるのが早い」これは、ある意味では正しいと思います。でも、それを、「子どもなら数年で英語の問題はなくなる」と考えてしまうと危険です。 英国のEAL児童を対象とした研究では、「New to English」の状態から、カリキュラムをより十分に理解できる「Competent」レベルまで進んだ子どもについて、その移行には平均4.6年かかっていました。 さらに、Receptionから「New to English」でスタートした児童でも、6年後にCompetentまたはFluentへ移行していなかった児童が約3分の2いました。もちろん、これは英国の学校制度における調査結果です。 子どもの年齢、家庭環境、学校、本人の言語背景などによって大きな個人差がありますし、この数字をそのままインターナショナルスクールのすべての子どもに当てはめることはできません。 ただ、少なくとも、日常会話ができるようになることと、学習に十分な英語力を身につけることには時間差があるということは、知っておいてよいと思います。 「EALで成績がいいから大丈夫」とは限らない もう一つ、私が保護者の方に注意してほしいのが「成績」です。EAL支援を受けている間に、「うちの子、成績も結構いいんです」という状態になることがあります。もちろん、それはお子さまが頑張っている証拠です。自信を持っていいことです。ただし、その成績だけを見て、「英語でも同学年の子と同じレベルで学習できるようになった」と判断するのは少し早いかもしれません。 EAL支援では、学校や子どものレベルに応じて、 語彙を分かりやすくする 視覚資料を使う 文章を理解しやすくする 先生が補足説明をする 課題の取り組み方を支援する 学習内容と言語の両方を支援する といったさまざまなscaffolding(足場かけ)が行われます。これは「簡単な勉強をさせている」という意味ではありません。むしろ、EALの子どもが英語力の不足によって本来持っている思考力や教科の能力を発揮できなくならないようにする、大切な教育支援です。The Bell Foundationも、EAL学習者の認知的・学術的能力と英語力は別のものであり、英語の壁によって本来理解できるカリキュラムへ十分アクセスできないことがあると指摘しています。 ですから、EAL支援を受けながら取った成績には、本人の学力+学校からの適切な言語支援の両方が反映されています。これは当然のことです。ただし、支援が徐々に減り、通常の授業で年齢相応の文章を読み、試験を受け、Essayを書かなければならなくなったとき、初めて見えてくる課題もあります。 EALを抜けた後から、本当の学習言語の課題が見えることがある EALから通常授業へ移行すると、本人に求められる英語の量と質が上がります。 先生が話すスピード 教科書の文章量 専門語彙 テスト問題の複雑さ Essay Presentation Group Discussion Research 学年が上がれば、それらはさらに高度になります。そのとき、それまで成績に大きな問題がなかったお子さまが、 「教科書を読むのにものすごく時間がかかる」 「授業は分かっているのにテストで点が取れない」 「Essayになると書けない」 「問題文の意味を取り違える」 といった状況になることがあります。 ここで保護者は驚きます。「今まで成績は良かったのに」「EALも卒業したのに」「英語も普通に話しているのに」 でも、必ずしも急に学力が下がったわけではありません。これまで見えにくかった「学習するための英語力」の差が、課題が高度になることで表面に出てきた可能性があります。 だから私は「EALを抜けること」を目標にしすぎない方がいいと思う もちろん、英語力が上がり、EAL支援が必要なくなることは喜ばしいことです。でも、「いつEALを卒業できるのか」だけを追いかけるのではなく、次のようなことを見てほしいと思います。 この子は、同学年向けの文章を一人で読んで理解できるか。 授業で出てくる抽象的な語彙を理解しているか。 問題文が長くなっても、何を聞かれているのか理解できるか。 自分の意見だけではなく、その理由や根拠まで説明できるか。 複数の情報を比較し、そこから結論を出せるか。 Essayで考えを構造化できるか。 これらができるようになって初めて、「英語を使って学べるようになってきた」と考えることができます。 そして、ここでも母語を疎かにしないでほしい では、英語が学習言語として十分に育つまでの数年間、どうすればいいのでしょうか。私は、ここで前回の記事と同じことをお伝えしたいと思います。母語を止めないことです。例えば、11歳のお子さまが英語ではまだ十分に複雑なことを説明できないとしても、日本語ならできるかもしれません。 日本語で、 「あなたはどう思う?」と聞く。 「どうしてそう思ったの?」と聞く。 反対意見を読ませる。 本を読む。 要約する。 ニュースについて話す。 自分の考えを書く。 これを続ければ、英語力が本人の年齢に追いつくまで、思考まで同じ場所で待たせる必要はありません。英語ではまだ十分表現できない高度なことを、日本語で考え続ければいいのです。National Academiesも、English Learnersに学年相応の内容へアクセスさせることや、第一言語を教科学習の支援に活用することを有望な教育実践の一つとして挙げています。またUNESCOも、子どもが理解できる家庭言語を教育の基盤として活用しながら、他の言語での学習へつなげていく多言語教育を推奨しています。 「英語に集中させたいから、日本語は少し休もう」は慎重に 海外へ来た直後、「まずは英語を早く伸ばさなければ」という気持ちは、とても自然だと思います。でも、そのために、 日本語の読書をやめる。 日本語の学習をやめる。 日本語で難しいことを話す機会をなくす。 というところまで進めてしまうと、別の問題が起こります。英語が年齢相応の学習言語になるまでには時間がかかります。その間、日本語でも年齢相応の学習をしていなければ、英語でも高度な学習ができない。日本語でも高度な学習をしないという期間が生まれる可能性があります。 私が海外の子どもの母語教育で最も注意したいのは、ここです。英語が伸びることが問題なのではありません。むしろ、どんどん伸ばしてほしいと思います。ただし、英語が育っている途中だからこそ、その間の「考えるための言語」を失わないでほしいと思います。 見るべきなのは「EAL」というラベルではない EALという言葉自体にも注意が必要です。The Bell Foundationも、「EAL」というラベルだけでは、その子どもの英語力や、学習上どのような支援が必要なのかまでは分からないと指摘しています。同じ「EAL」の子どもでも、海外へ来て3か月の小学2年生と、海外生活5年目の中学2年生では、必要な支援は全く違います。 逆に、EALの支援対象ではなくなったからといって、学習に必要な英語が完全に年齢相応になったことを意味するとは限りません。ですから、保護者が見るべきなのは、「EALか、EALではないか」ではなく、「この子は今、どの言語で、どこまで深く学べるのか」だと思います。 本当のゴールは、「英語を使って考えられること」 海外へ来たばかりの頃、英語で一言も話せなかった子どもが、友達と笑いながら英語で話している。これは本当にうれしい瞬間だと思います。そして、EALの支援が減っていき、通常授業へ移っていく。これも大きな成長です。 でも、その先があります。 英語で本を読む。 英語で物事を比較する。 英語で「なぜ?」を考える。 英語で人の意見を批判的に読む。 英語で根拠を示す。 英語で自分とは違う考えを理解する。 英語で長い文章を書く。 そこまで来て初めて、英語が「外国語」から「考え、学ぶための言語」へ変わっていきます。だから、EALから早く抜けることだけを目標にしないでほしいのです。「英語を話せるか」だけではなく、「英語で学べるか」、そして英語がそこまで育つ途中では、「日本語で年齢相応に考え続けられているか」。 この二つを一緒に見てほしいと思います。バイリンガル教育のゴールは、二つの言語で挨拶ができることでも、発音よく英語を話せることでもありません。私は、少なくとも一つの言語で深く考える力を止めず、やがて複数の言語を使って学び、考えられるようになること。そこを目指すことが大切なのではないかと思っています。 参考資料 The Bell Foundation, Effective Teaching of EAL Learners Lindorff, Strand & Ma / The Bell Foundation, English as an Additional Language and Educational Achievement in England National Academies of Sciences, Engineering, and Medicine (2017), Promoting the Educational Success of Children and Youth Learning English: Promising Futures UNESCO (2025), Languages matter: Global guidance on multilingual education

小学校低学年での海外移住ほど、母語教育に注意してほしい理由

2026年8月29日

小学校低学年での海外移住ほど、母語教育に注意してほしい理由

「もう日本語は話せるから大丈夫」が、一番の落とし穴かもしれません 前回の記事では、海外駐在で学校を選ぶ際には、「インター校か日本人学校か」を考える前に、まずいつ日本へ帰るのか、将来どの言語で学ぶのかを考えてほしいという話を書きました。今回は、その中でも特に気をつけてほしいケースについて書きたいと思います。 小学校低学年での海外移住です。 こう書くと、「小さいうちに海外へ行かない方がいいの?」と思われるかもしれません。そういう意味ではありません。 むしろ、低学年から海外で生活することには大きなメリットがあります。新しい言語を吸収する柔軟性もありますし、異なる文化や価値観を自然に受け入れることもできます。 問題は海外へ行くことではありません。 私が気をつけてほしいと思っているのは、 「日本語はもう話せるから、母語は大丈夫」と考えてしまうことです。 小学2年生の日本語は、完成した日本語ではない 例えば、小学2年生の子どもが海外へ引っ越したとします。 家族とは普通に日本語で話せます。 「今日、学校でね……」 と一日の出来事を説明できます。 友達とも遊べます。 テレビやYouTubeも日本語で理解できます。 親から見れば、十分に日本語ができています。 そのため、 「日本語はもう身についているから、これからは英語に集中しよう」 と考えるのも無理はありません。 しかし、ここには大きな誤解があります。 小学2年生で身についている日本語は、8歳の子どもとして必要な日本語です。12歳の日本語でも、15歳の日本語でもありません。 子どもの日本語は、日本で生活しているだけでも、その後何年にもわたって成長していきます。 しかも、単に漢字をたくさん覚えたり、難しい言葉を知ったりするだけではありません。 「日本語を使って、どのくらい複雑なことを考えられるか」そのものが変わっていきます。 小学校では、「考えるための言葉」を段階的に学んでいる 日本の学習指導要領を見ると、この変化がよく分かります。 国語では、低学年から中学校にかけて、情報と情報の関係を理解する力を段階的に育てるよう設計されています。 例えば、 小学1・2年生では、「共通していること」「違うこと」「順序」などを扱います。 小学3・4年生になると、「考え」と、それを支える「理由や事例」の関係を学びます。 小学5・6年生では、「原因」と「結果」などの関係を考えるようになります。 さらに中学校になると、「意見」と「根拠」そして、「具体」と「抽象」といった関係へ進んでいきます。 文部科学省の学習指導要領でも、このように情報の関係を段階的に高度化させる構成になっています。つまり子どもたちは、日本の学校に通いながら、言葉を覚えているだけではありません。 言葉を使って、物事を整理し、比較し、理由を考え、説明する方法を学んでいるのです。 「りんご」と「果物」は違う種類の言葉 少し具体的に考えてみましょう。 「りんご」 「みかん」 「バナナ」 は、子どもでも比較的早く覚えます。 目の前にあるものと、言葉を結びつければいいからです。 でも、 「果物」 という言葉は少し違います。 りんごそのものを指しているわけではありません。 りんごやみかんやバナナなどの共通点を取り出して、一つ上の概念としてまとめた言葉です。 さらに年齢が上がれば、 「原因」 「結果」 「傾向」 「比較」 「立場」 「根拠」 「影響」 「目的」 「例外」 「可能性」 といった、目では直接見ることのできない言葉を大量に使うようになります。 そして中学生、高校生になると、 「自由」 「責任」 「公平」 「文化」 「価値観」 「社会」 といった、さらに抽象度の高い概念について考えます。 こうした言葉は、日常会話だけで自然にすべて身につくものではありません。 本を読む。 授業を聞く。 文章を書く。 先生から質問される。 友達と意見を交換する。 「なぜそう思うの?」と聞かれて説明する。 そうした経験の積み重ねによって、徐々に使えるようになっていきます。 小3で英語環境へ入ると、何が起こるのか ここで、例えば小学3年生で日本からインター校へ移ったケースを考えてみます。日本語では、8〜9歳相応の会話ができます。でも英語はまだ初心者です。当然、学校では最初から高度な英語を使えるわけではありません。 「これは何?」 「私は○○が好きです」 「昨日○○へ行きました」 といった比較的簡単な表現から始めることになります。もちろん、英語力が伸びるにつれて、より複雑な内容も扱えるようになっていきます。 問題は、その間です。 本人の頭の中は9歳、10歳、11歳と成長しているのに、英語で自由に扱える言葉は、必ずしもその年齢の思考に追いついているとは限りません。 英語学習者は、第二言語の習得と同時に、年齢相応の算数、理科、社会などの学習内容も身につけなければならないという二重の課題を抱えます。National Academiesも、English Learnersについて、英語習得と学年相応の教科学習を同時に進める必要があると指摘しています。* これは、子どもの思考力が低くなったという話ではありません。考えていることを学習言語で十分に扱えない時期が生まれる可能性があるという話です。 だからこそ、その間も日本語を成長させてほしい ここで非常に重要なのが母語です。英語がまだ十分に育っていないのであれば、その間も日本語で、 本を読む。 文章を書く。 理由を説明する。 ニュースについて話す。 「あなたはどう思う?」と聞かれる。 「なぜそう考えるの?」と掘り下げる。 こうした経験を続けることができます。 つまり、英語を習得している間も、日本語を使って「思考の年齢」を上げ続けることができるのです。 母語・家庭言語を維持することと第二言語を習得することは、どちらか一方を選ばなければならない関係ではありません。UNESCOは2025年の多言語教育に関するガイダンスで、子どもが理解できる家庭言語を学習の基盤として活用しながら第二言語を導入することの重要性を示しています。**また、National Academiesの研究レビューでも、家庭言語を使うことが第二言語の発達を妨げるという根拠はなく、十分な言語経験があれば子どもは複数の言語を発達させることができると整理されています。 ですから、「英語を早く伸ばしたいから、日本語を減らそう」と単純に考える必要はありません。むしろ、英語を伸ばすからこそ、日本語も止めない。という考え方が重要だと思います。 家で日本語を話していれば十分では? ここで、多くのご家庭から聞く言葉があります。「家ではずっと日本語で話しているので、日本語は大丈夫だと思います」確かに、家庭で日本語を使い続けることはとても大切です。でも、それだけで十分でしょうか。家庭で交わされる会話を思い出してみてください。 「宿題やった?」 「今日どうだった?」 「早く着替えて」 「何食べたい?」 「明日は何時に出る?」 もちろん、家庭によって違いますが、日常会話の多くは生活に必要な言葉です。 一方、学校では、 「二つの意見の共通点は何ですか」 「この結果になった原因を説明してください」 「筆者の考えを要約してください」 「あなたはどちらの立場に賛成ですか」 「その根拠は何ですか」 という言葉を使います。 同じ日本語でも、求められているものが全く違います。生活するための日本語と、学ぶため・考えるための日本語は同じではありません。だから、家庭で日本語を話しているからといって、自動的に日本語が12歳、15歳相応まで成長していくとは限らないのです。 ある日突然、日本語力が落ちたように見える 海外で育つお子さまを見ていると、低学年の間はそれほど問題が見えないことがあります。 日本語で普通に会話できる。 日本の祖父母とも話せる。 漫画も読める。 YouTubeも理解している。 ところが、小学校高学年から中学生くらいになると、 「あれ?」 となることがあります。 日本の同学年向けの文章を読むと、理解に時間がかかる。 説明文になると急に分からなくなる。 文章を読んで、「つまり何が言いたいの?」と聞いても答えられない。 自分の意見は言えるけれど、「なぜ?」と聞くと説明が続かない。 本人の日本語が突然悪くなったわけではありません。本人の日本語が止まっている間に、同年代の子どもたちが使う日本語の方が先へ進んでしまったと考えた方が近い場合があります。これが海外での日本語教育の難しいところです。 「維持」ではなく「成長」を考える 海外に住むご家庭では、よく、「日本語を維持したい」という言葉を使います。でも私は、低学年のお子さまについては、「維持」という言葉だけでは足りないと考えてます。 小学2年生の日本語を維持しても、小学6年生になったときには足りません。 小学6年生の日本語をそのまま維持しても、高校生になったときには足りません。 子ども自身が成長している以上、言葉も一緒に成長しなければならないからです。 必要なのは、日本語を維持することではなく、日本語を年齢相応に成長させ続けることです。 これは漢字を何文字書けるか、という話だけではありません。 語彙を増やす。 長い文章を読む。文章の構造を理解する。 人の話を聞く。 自分とは違う意見に触れる。 自分の考えを説明する。 理由を考える。 具体例を挙げる。 要約する。 比較する。 こうしたことを日本語で経験し続ける必要があります。その意味でも、母語での読書はとても重要です。読書については、別の記事で詳しく書きたいと思います。 バイリンガル教育は、「英語を足すこと」ではない 海外へ来ると、「せっかくだから英語を身につけさせたい」と考えるのは当然だと思います。私も、それ自体は素晴らしいことだと思います。でも、 日本語100だった子どもに英語100を追加すれば、日本語100+英語100のバイリンガルになる。そんな単純な話ではありません。 子どもには一日24時間しかありません。 英語で学校へ行くようになれば、日本語に触れる時間は大きく減ります。 日本語で本を読む時間も減ります。 日本語で先生から説明を聞く時間もなくなります。 日本語で同年代の友達と議論する機会も減ります。 その状態で何もしなければ、英語が伸びる一方で、日本語の成長速度が落ちることは十分に考えられます。 だからこそ、英語をどう伸ばすかと同じくらい、日本語をどう成長させ続けるかを設計してほしいと思っています。 低学年で海外へ行くことが危険なのではない 最後に、ここは誤解のないように書いておきたいと思います。私は、「小学校低学年で海外へ行くのは危険だ」と言いたいわけではありません。 幼い時期に海外で暮らし、複数の言語や文化に触れられることは、子どもにとって大きな財産になり得ます。複数言語を学ぶことそのものが子どもを混乱させるという考えも、現在の研究では支持されていません。 私がむしろ危険だと思うのは、「もう日本語は話せるから大丈夫」と考えて、日本語の成長を学校から完全に切り離してしまうことです。 8歳で海外へ行ったのであれば、8歳の日本語を守るのではありません。 10歳になれば10歳の日本語へ。 12歳になれば12歳の日本語へ。 15歳になれば15歳の日本語へ。 英語と一緒に、日本語も成長させていく。 その環境を意識的につくる必要があります。 海外にいると、日本語は「あるか、ないか」で考えがちです。 話せるから大丈夫。 話せなくなったから問題。 でも、本当に見なければならないのは、その間です。「この子の日本語は、本人の年齢と一緒に成長しているだろうか?」私は、海外で子どもを育てるご家庭には、ときどきこの問いを考えていただきたいと思っています。 次回は、「家では日本語を話しているから大丈夫、ではない――海外で失われる日本語は、漢字だけではない」というテーマで、家庭内会話だけでは触れにくい語彙や表現、そして海外生活の中で失われやすい「日本語の解像度」について書きたいと思います。 *National Academies of Sciences, Engineering, and Medicine (2017) Promoting the Educational Success of Children and Youth Learning English: Promising Futures Washington, DC: The National Academies Press. DOI: 10.17226/24677 **UNESCO (2025) Languages matter: Global guidance on multilingual education UNESCO, 29 January 2025.

2026年8月28日

駐在や海外移住のご家庭へ。本当にインター校がお子さまにとってベストな選択ですか?

学校を選ぶ前に、まず考えてほしい「いつ日本に帰るのか」ということ 海外赴任が決まったとき、お子さまのいるご家庭が最初に悩むことの一つが学校選びではないでしょうか。 日本人学校にするのか。 現地校にするのか。 それともインターナショナルスクールにするのか。 せっかく海外で暮らすのだから、英語を身につけてほしい。インター校に数年間通えば、将来は日本語と英語を自由に使えるバイリンガルになれるかもしれない。そう考えてインター校を選ばれるご家庭は少なくありません。 もちろん、それ自体は一つの選択肢です。 私は「インター校に行くべきではない」と言いたいわけではありません。実際、インター校には、日本の学校では得にくい素晴らしい教育環境があります。 ただ、海外で子どもたちの日本語教育に携わるようになって、強く感じるようになったことがあります。 それは、 「どの学校に入れるか」を考える前に、「いつ、どこへ帰るのか」を考えた方がいい。 ということです。 小2から3年間なのか、高校卒業までなのか 例えば、小学2年生のお子さまと一緒に海外赴任するとします。 3年間の赴任で、小学5年生には日本へ戻る予定なのか。 中学校まで海外で過ごす予定なのか。 高校も海外なのか。 あるいは、そのまま海外の大学への進学まで考えているのか。 これによって、取るべき教育戦略は大きく変わります。 もし高校卒業まで海外で学び、その後も英語で大学教育を受ける可能性が高いのであれば、英語を中心とした教育環境に早く適応することには大きな意味があります。 一方で、小学校の途中から数年間だけ海外で過ごし、その後、日本の学校へ戻るのであれば話は変わります。 「せっかく海外に来たのだから英語を伸ばそう」 という理由だけでインター校を選ぶと、帰国するときに思っていた以上に大きな学習上のギャップが生まれていることがあります。 インター校に通えば、バイリンガルになるわけではない ここは、海外に来たばかりのご家庭に特に知っておいていただきたいことです。 インター校に通うことと、バイリンガルになることは同じではありません。もちろん、毎日英語で授業を受け、友達と英語で話していれば、英語は伸びていきます。 特に子どもは、大人よりずっと早く日常会話を身につけることがあります。 数年すると、友達と英語で冗談を言い、YouTubeも英語で見て、親よりきれいな発音で話すようになるかもしれません。 すると保護者から見ると、 「もう英語は大丈夫」 と思えるようになります。 でも、「英語で話せること」と「英語を使って年齢相応の学習ができること」は同じではありません。 同様に、 「家では日本語で話していること」と「日本語を使って年齢相応の学習ができること」も同じではありません。 ここが、海外子育てで非常に見えにくいところです。 海外生活で止まるのは、「国語」の勉強だけではありません 日本の学校に通っていれば、小学校の6年間を通して、子どもたちは日本語でさまざまなことを学びます。 国語だけではありません。 算数でも、 「理由を説明しましょう」 「二つの考え方を比較しましょう」 と問われます。 理科では、観察したことと、そこから考えられることを分けます。 社会では、複数の資料を読み、原因と結果を考えます。 学年が上がるにつれて、 「なぜそう考えたのか」 「具体例を挙げなさい」 「共通点と相違点を説明しなさい」 「筆者の主張をまとめなさい」 といった課題が増えていきます。 つまり日本の学校では、子どもたちは教科の知識だけではなく、日本語を使って考える方法そのものを少しずつ学んでいきます。 海外へ移るということは、この流れから一度離れるということでもあります。 もちろん、インター校でも同じように考える力は育てます。 ただし、それを英語で学ぶことになります。 英語を習得している途中のお子さまであれば、最初から年齢相応の複雑な言葉を自由に扱えるわけではありません。 「考える力がない」のではありません。 考えたいことに対して、使える言葉がまだ追いついていない。 そんな時期が生まれる可能性があります。 母語や家庭言語を学習の土台として維持することの重要性は、近年の多言語教育でも重視されています。UNESCOも、家庭言語を学習の基盤として活用することは、読み書きだけでなく、他の言語や教科学習を支える土台になるとしています。 帰国したら日本語はすぐ戻る? ここでもう一つ、よくある考え方があります。 「どうせ3年後には日本に帰るのだから、そのとき日本語はまた伸びるだろう」 確かに、日常会話だけを見れば、比較的早く日本の環境に戻れる子もいるでしょう。 しかし、問題は日常会話ではありません。 例えば、小学3年生から小学6年生まで海外で過ごしたとします。 日本へ戻ったとき、「漢字を少し忘れている。」 というだけなら、まだ比較的分かりやすい問題です。 もっと大きいのは、 その3年間に日本の学校で学んでいたはずの語彙、文章表現、教科学習の言葉に触れていないことです。 さらに、理科や社会などでは、学習してきた内容そのものも異なります。 そこで、 「帰国したら3年間の遅れを取り戻せばいい」と考えがちなのですが、実際にはそれほど単純ではありません。 例えば、理科の知識を取り戻そうとして日本の参考書を開いたとします。 その参考書に書かれている文章そのものを読む力が弱くなっていたら、どうでしょう。 つまり、 失った教科知識を取り戻したいのに、それを学び直すための道具である日本語まで弱くなっている。 ということが起こり得ます。 そうなると、「3年分の理科・社会を勉強すれば終わり」ではありません。 学習内容と、それを理解するための日本語の両方を同時に取り戻す必要があります。中学生になってからこれを行うのは、決して簡単ではありません。 特に慎重に考えてほしい、小学校低学年での海外移住 私は特に、小学校低学年で海外へ移るご家庭には、このことを考えてほしいと思っています。 低学年のお子さまは、すでに日本語を流暢に話します。 そのため、 「日本語はもう母語として完成している」 ように見えます。 でも、実際にはここから先、日本語は大きく変化していきます。 小学校高学年、中学生になるにつれて、子どもたちは、 具体的なことだけではなく抽象的なことを考えたり、 自分の意見と事実を分けたり、 複数の情報を比較したり、 根拠を示して説明したりするようになります。 それに伴って、使う言葉も急速に高度になります。 つまり低学年は、 日本語が完成した時期ではなく、これから日本語を「考えるための言葉」へ育てていく入口でもあります。 この時期に学習言語を英語へ切り替えることが何を意味するのか。 これは「子どもは英語を覚えるのが早いから」という理由だけではなく、もう少し長期的に考える必要があります。 この問題については、次回移以降に詳しく書きたいと思います。 では、インター校を選んではいけないのか? もちろん、そんなことはありません。 インター校には多くのメリットがあります。 多様な国籍や文化的背景を持つ子どもたちと学べる。 自分の意見を発言することを求められる。 プレゼンテーションやプロジェクト型学習が多い。 日本とは異なる価値観に触れられる。 海外に住んでいるからこそ得られる、本当に貴重な経験です。 だからこそ、私は、 「インター校か日本人学校か、どちらがよい選択肢か」 という議論には、今教室をはじめてから意味を感じなくなりました。 それより重要なのは、 「この子は、この先どこで、何語を使って学んでいくのか」 という点だと考えています。 学校を決める前に、家族で考えてほしい5つのこと 海外赴任/移住が決まり、学校を選ぶのであれば、私は少なくとも次のことを家族で考えることをおすすめします。 日本へ帰国する可能性が最も高いのはいつか 帰国後、日本の学校へそのまま編入する予定なのか 高校・大学は日本と海外のどちらを想定しているのか 10歳、12歳、15歳になったとき、どの言語で本を読み、複雑なことを考えられる子にしたいのか 英語を伸ばす一方で、日本語を「会話」ではなく「学習できる言語」として、どう成長させ続けるのか 特に最後の問いは重要です。 日本語を家庭で話しているだけでは、必ずしも年齢相応の日本語へ成長し続けるとは限りません。 小学校低学年の日本語のまま、会話だけは流暢ということも起こり得ます。 英語か、日本語か、ではない 海外で子どもを育てていると、「英語を伸ばすか、日本語を守るか」という二者択一で考えてしまいがちです。でも、本来はそうではありません。 英語を伸ばしながら、日本語も年齢相応に成長させる。 日本語を土台にしながら、英語でも学べるようにする。 それは決して矛盾したことではありません。むしろ多言語教育についての研究でも、母語・家庭言語による学習を続けることは、第二言語の習得を妨げるものではなく、学習の土台として重要だと考えられています。 問題は、「インター校に入れたから、あとは学校に任せておけばバイリンガルになる」と考えてしまうことです。 学校を選ぶことは、教育戦略そのものではありません。 大切なのは、この子が将来、どの言語で深く考え、どの言語で学び続けられるようにするのか。そこから逆算して、学校と家庭での言語環境を設計することだと思います。 海外生活は、子どもにとって大きな財産になります。 だからこそ、「英語が話せるようになった」というところだけで終わらせず、その先まで考えてみてほしいのです。 次回は、「小学校低学年での海外移住ほど、母語教育に注意してほしい理由」について書きたいと思います。

バイリンガルの現実と母語の大切さ

2026年3月25日

バイリンガルの現実と母語の大切さ

前回、バカロレアを選んだ理由について書きました。最後に「IBだけでは解決しない問題がある」と書きましたが、今回はその話です。 東京のインターに娘を入学させた日、私は心のどこかで安心していました。「これで娘はバイリンガルになれる」と。英語の環境に身を置きさえすれば、スポンジが水を吸うように言葉を吸収し、日本語と英語の両方を自在に操る国際人が育つ——そんな淡い期待を抱いていました。 娘が最初に通ったAoba International School  でも、娘を幾つかのインターに通わせて8年が経ち、自らオランダで国語教室を運営して多くの子どもたちを見る中で、その考えがいかに大きな間違いだったかを痛感しています。 今ならはっきりと言えます。「海外に出た瞬間、子どもの日本語(母語)の成長は、恐ろしいスピードで鈍化し始める」という現実を。   見落とされていた「日本語のシャワー」の正体 日本で暮らしているとき、私たちは無意識のうちに膨大な「日本語の資産」を受け取っています。 国語の授業はもちろんですが、算数も理科も社会も、すべての教科を通じて「年齢に応じた抽象的な概念」を日本語で思考し、血肉に変えている。 学校を一歩出れば、通学路の看板、放課後の友だちとの何気ない会話、テレビ番組、駅やコンビニのアナウンス。これらすべてが「日本語のシャワー」となり、意識せずとも語彙は増え、思考の解像度は上がっていきます。 ところが、海外に出るとこのシャワーはピタリと止まります。 多くの家庭は、まず現地校やインターでの生活に馴染むため、英語や現地語の習得に必死になります。 それは とても必要なことです。でも同時に、多くのご家庭は「新しい日本語のインプット」が止まってしまうのです。 思考力が「日本を出た時のまま」で凍結する 「家では普通に日本語で会話できているから大丈夫」 そう安心している親御さんは少なくありません。でも、そこには大きな罠があります。家庭内の日常会話で使う日本語は、語彙も構文も非常に限定的だからです。 複雑な論理展開や抽象的な思考を伴わない会話だけでは、日本語での思考力は育ちません。一方で、習得中の英語もまだ「深い思考」ができるレベルには達していない。いわば、どちらの言語でも深く考えられない「ダブル・リミテッド」もしくは「セミリンガル」のリスクが常に隣り合わせなのです。 実際、中学生になっても語彙力や読解力、ひいては思考の深さが「日本を出国た時の年齢」のまま止まってしまっているお子さまを、私は少なからず見てきました。 「ブルブル」が怖いとわからない衝撃 その象徴的な例が、オノマトペ(擬音語・擬態語)の弱さです。 日本で暮らしていれば、オノマトペはわざわざ勉強するものではなく、生活の中で自然に身に付くものです。ところが、その機会を奪われた海外の子どもたちは、日本語の持つ繊細なニュアンスを掛むのが非常に苦手です。 私の教室で『おとなもブルブルようかい話』という本を扱ったときのことです。私達はタイトルを見ただけで「怖そうな本だ」と直感します。 ところが、幼い頃日本を離れ海外生活の長い子どもたちは、タイトルを見てこれが怖い本だと認識できた子は、残念ながら半数にも満たなかったのです。 「ブルブル」という言葉に込められた感覚が、身体感覚として備わっていない。これは単なる語彙の不足ではありません。日本語を介した「感性」や「想像力」が育っていないことを意味します。 だから私は、読書とディベートを組み合わせた この「思考の凍結」を防ぐには、限られた時間の中で、意識的に日本語をインプットしていくしかありません。 週末の日本語補習校や学習塾、公文、あるいは日本語話者のコミュニティへの参加。何らかの形で強制的に「日常会話以上」の日本語に触れることが必要です。 その中で、私が教室で実践しているのが、「読書」と「ディベート」の組み合わせです。 読書で質の高い文章を読み込み、語彙と読解力を補給する。そしてディベートで、読書で得た武器を使い、自分の頭で考え、言葉にする。このプロセスを経て初めて、知識は「思考力」へと昇華されるのだと実感しています。 インプットだけでも、アウトプットだけでも足りない。両方がかみ合って初めて、「日本語で深く考える力」が育つ。これが、私が教室で日々感じていることです。 本当のバイリンガルを目指して 「2つの言語が話せること」以上に大切なのは、「どちらか一方の言語で、深く、論理的に思考できる土台があること」です。 海外という素晴らしい環境を活かすためにも、その土台となる母語を疎かにしてはいけません。母語を鍛えることは、世界で戦うための「考える力」を鍛えることそのものなのだと、痛感しています。

ロジカルシンキングクラス | 私がバカロレアを選んだ理由

2026年3月21日

娘に○×教育を受けさせたくなかった。だからバカロレアを選んだ

○×教育を受けさせたくなかった 以前書いたニュージーランドでの衝撃。あれから約10年が経ち、娘が小学校に入るタイミングが来ました。 あの経験がずっと頭にありました。型にはまった○×を基本に教える日本の教育では、娘は世界で自由な教育を受けている子どもたちと戦っていくことができない。そう痛感していました。 でも、「じゃあ何を選べばいいのか」がわからなかった。 色々調べた結果、たどり着いたのが国際バカロレア(IB)でした。自ら問いを立てて探究する力、多角的な視点、批判的思考力。IBが掲げる「ラーナープロファイル」には、Thinker(考える人)、Inquirers(探究する人)、Risk-takers(挑戦する人)、Open-minded(心を開く人)などが並んでいます。これは世界中のどのIB校でも共通の評価基準です。 読んだ瞬間、「これだ」と思いました。まさに私が求めていた教育像そのものでした。 東京のインターからコペンハーゲン、そしてハーグへ ただ、当時の日本でIBを受けられる学校は、インターナショナルスクールに限られていました。今でこそ日本語で受けられるIB校や公立の一条校も増えてきましたが、その頃は選択肢がほとんどなかった。 娘は東京のAobaインターナショナルスクールに通いました。その後、コペンハーゲン、ハーグと転校を繰り返しましたが、すべてIB校を選んだので、転校はかなりスムーズでした。カリキュラムの枠組みが世界共通なので、「前の学校で何をやっていたか」がそのまま引き継がれる。これは海外転勤の多い家庭にとって、大きな安心材料です。 「DPから入ればいい」という誤解 バカロレアを初めて知ったとき、私は「せめてDP(高校に相当する2年間)にだけでも通わせたい」と思っていました。最後の2年間だけでもIBの教育を受けられれば、それで十分だろうと。 でも、実際に娘を通わせてみて、それがいかに甘い考えだったかがわかりました。 DPでは、完全に自立して自ら研究テーマを設定し、そのプロジェクトを完結させることが求められます。管理教育で育った子どもには、これがかなり難しい。実際、都立国際のDP学生からは「地獄のような2年間だった」という声も多く聞かれます。 英語メインの授業、批判的思考、毎日のように重なるテスト。いろんな要因が複合しているのでしょうが、根本的な問題は「自分で問いを立て、自分で答えを探す」ことに慈れていないことだと感じます。 MYPの5年間が、すべての土台になる 今、娘はMYP(中学に相当する5年間)に通っています。実感として、この5年間があるかないかで、DPへの対応力がまるで違います。 MYPの1年目から、毎週のように重要なテストが実施されます。ボランティア活動も課せられる。2言語、場合によっては3言語での学習が求められる。そして最終学年には「パーソナルプロジェクト」という集大成が待っています。自分の関心があるテーマを選び、1年かけて調査・研究を行い、最終成果物を制作する。論文、アート作品、ビジネス計画、実験、Webサイト等々、形式は自由です。 つまりMYPの5年間で、「自分で問いを立て、自分で探究し、自分で完結させる」力を少しずつ熟成していく。その土台がないままDPに飛び込むのは、正直に言うと、地獄に突進するようなものだと感じます。 日本のIB校に望むこと 当時は数校しかなかったMYP校も、現在は47校にまで増えました。DP校は79校。公立のMYP校も出てきているのは、素晴らしいことです。 でも、MYP校がDP校より少ないという現状は気になります。先ほど書いた通り、MYPの土台なしにDPに入るのは非常にチャレンジングです。どちらもどんどん増えていくことを、切に望みます。 それでも、IBだけでは解決しない問題 IBを選んだことに後悔はありません。娘の成長を見ていて、この選択は正しかったと思っています。 でも、海外のIB校に通わせたからこそ見えてきた問題があります。それは「母語」の問題です。 海外に出ればバイリンガルになれる、というのは幻想でした。その話は次回、詳しく書きます。

評価される日本、ロジカルシンキングクラス

2026年3月16日

それでも評価される日本、世界との融合

前回まで、日本の企業文化や教育が抱える構造的な問題について書いてきました。夕方5時のオフィス、コンビニ前のパトロール、FAX。正直、悲観的な話が続いたと思います。 でも今回は、逆の話をします。 オランダに来て、「日本ってすごいんだ」と大きく見方が変わった出来事が3つありました。 ① 80カ国が並んだ文化祭で起きたこと 娘が通う学校では、年に一回「International Day」と銘打った文化祭が開催されます。80カ国以上の家庭が在籍するこの学校で、各国がブースを出す。条件は全く同じ。お金があるから大きなブースを出せるわけではありません。 で、いざ始まってみると、面白いことがわかりました。 ほとんどの国のブースには、人が寄りつかない。出し物が食べ物なのか何なのかすらわからないブースも多い。イタリア、フランス、韓国、中国は食べ物が知られているので、それなりに人が集まる。 でも、日本は圧倒的に別格でした。 ほぼ全員が寿司を知っている。しかもカッパ巻きがビーガンに対応していることまで認識されている。さらにそこに漫画や着物といったカルチャーを組み合わせると、とんでもない爆発力を発揮する。行列が途切れることがありませんでした。 80カ国が同じ条件で並んだとき、日本は唯一無二の存在だった。これは世界のどこで開催しても同じ結果になると思います。食、カルチャー、サービスの質。これらが複合的に重なって、日本というブランドは他の追随を許さない。 ② 片手間で始めた日本語クラスが、とんでもないバズり方をした 私の教室は、読書の教室とロジカルシンキングクラスが本業です。ただ、授業は夕方のみ。朝から夕方までのアイドルタイムを埋めるために、片手間で日本語クラスを始めました。 ところが、これがとんでもないバズり方をしたのです。 理由は人それぞれ。仕事で日本語が必要な人、日本映画が好きな人、台湾旅行の予定だったのに大阪でダイバートして、その滞在が感動的だったから日本語を学びたくなった人。理由の多様さに驚きました。 しかも、トライアル価格から50%値上げしても、誰も辞めない。 日本語への需要が、私が想像していたよりもはるかに大きかったのです。日本という国への興味と憧れは、ヨーロッパでは確実に高まっています。 ③ グロービスの登壇で目の当たりにした、日本的経営への関心 3つ目は、グロービスのイベントでの経験です。 「ヨーロッパは日本的経営から何を学べるか」というトピックで、ヨーロッパ各地の会場で登壇しました。どの会場も数百人の応募。カルチャーだけでなく、ビジネスの領域でも日本への関心が非常に高いことを目の当たりにしました。 しかも、そのセッションを通して改めて知った事実があります。 200年以上存続している企業の半数は、日本にあるということ。 これは衝撃的でした。世界中のどの国よりも、日本企業は「続ける」ことに長けている。 「今」か「100年」か——価値基準の違い この事実を知って、前回まで書いてきた「日本の遅さ」が、少し違って見えてきました。 欧米社会は「今」を基準に価値判断をしている。四半期決算、短期のKPI、スピード重視。一方で日本的経営は、「100年継続できるか」という時間軸で意思決定しているのではないか。 あの慎重すぎるとも言える稟議書文化も、前例主義も、もしかしたら「100年続けるための仕組み」として機能している面があるのかもしれない。 もちろん、それだけでは現代のグローバル競争を戦えない。だからこそ、「日本の強み」と「世界のスピード」の両方を持つ人材が必要なのだと思います。 子どもたちへ伝えたいこと 日本には、世界から評価される強みがある。食もカルチャーも、ものづくりの精神も、企業を100年単位で守り続ける力も。 でも同時に、その強みに安住しているだけでは世界とは戦えない。 日本の強みを活かしつつ、弱みを乗り越える力。既存の枠組みを疑い、新しい問いを立て、自分の言葉で考えを伝える力。それがロジカルシンキングだと私は考えています。 子どもたちへの教育を通しながら、「日本の強みと世界の融合」をどう実現するか。これは私自身が考え続けていきたい問いでもあります。