2026年3月25日
バイリンガルの現実と母語の大切さ
前回、バカロレアを選んだ理由について書きました。最後に「IBだけでは解決しない問題がある」と書きましたが、今回はその話です。 東京のインターに娘を入学させた日、私は心のどこかで安心していました。「これで娘はバイリンガルになれる」と。英語の環境に身を置きさえすれば、スポンジが水を吸うように言葉を吸収し、日本語と英語の両方を自在に操る国際人が育つ——そんな淡い期待を抱いていました。 娘が最初に通ったAoba International School でも、娘を幾つかのインターに通わせて8年が経ち、自らオランダで国語教室を運営して多くの子どもたちを見る中で、その考えがいかに大きな間違いだったかを痛感しています。 今ならはっきりと言えます。「海外に出た瞬間、子どもの日本語(母語)の成長は、恐ろしいスピードで鈍化し始める」という現実を。 見落とされていた「日本語のシャワー」の正体 日本で暮らしているとき、私たちは無意識のうちに膨大な「日本語の資産」を受け取っています。 国語の授業はもちろんですが、算数も理科も社会も、すべての教科を通じて「年齢に応じた抽象的な概念」を日本語で思考し、血肉に変えている。 学校を一歩出れば、通学路の看板、放課後の友だちとの何気ない会話、テレビ番組、駅やコンビニのアナウンス。これらすべてが「日本語のシャワー」となり、意識せずとも語彙は増え、思考の解像度は上がっていきます。 ところが、海外に出るとこのシャワーはピタリと止まります。 多くの家庭は、まず現地校やインターでの生活に馴染むため、英語や現地語の習得に必死になります。 それは とても必要なことです。でも同時に、多くのご家庭は「新しい日本語のインプット」が止まってしまうのです。 思考力が「日本を出た時のまま」で凍結する 「家では普通に日本語で会話できているから大丈夫」 そう安心している親御さんは少なくありません。でも、そこには大きな罠があります。家庭内の日常会話で使う日本語は、語彙も構文も非常に限定的だからです。 複雑な論理展開や抽象的な思考を伴わない会話だけでは、日本語での思考力は育ちません。一方で、習得中の英語もまだ「深い思考」ができるレベルには達していない。いわば、どちらの言語でも深く考えられない「ダブル・リミテッド」もしくは「セミリンガル」のリスクが常に隣り合わせなのです。 実際、中学生になっても語彙力や読解力、ひいては思考の深さが「日本を出国た時の年齢」のまま止まってしまっているお子さまを、私は少なからず見てきました。 「ブルブル」が怖いとわからない衝撃 その象徴的な例が、オノマトペ(擬音語・擬態語)の弱さです。 日本で暮らしていれば、オノマトペはわざわざ勉強するものではなく、生活の中で自然に身に付くものです。ところが、その機会を奪われた海外の子どもたちは、日本語の持つ繊細なニュアンスを掛むのが非常に苦手です。 私の教室で『おとなもブルブルようかい話』という本を扱ったときのことです。私達はタイトルを見ただけで「怖そうな本だ」と直感します。 ところが、幼い頃日本を離れ海外生活の長い子どもたちは、タイトルを見てこれが怖い本だと認識できた子は、残念ながら半数にも満たなかったのです。 「ブルブル」という言葉に込められた感覚が、身体感覚として備わっていない。これは単なる語彙の不足ではありません。日本語を介した「感性」や「想像力」が育っていないことを意味します。 だから私は、読書とディベートを組み合わせた この「思考の凍結」を防ぐには、限られた時間の中で、意識的に日本語をインプットしていくしかありません。 週末の日本語補習校や学習塾、公文、あるいは日本語話者のコミュニティへの参加。何らかの形で強制的に「日常会話以上」の日本語に触れることが必要です。 その中で、私が教室で実践しているのが、「読書」と「ディベート」の組み合わせです。 読書で質の高い文章を読み込み、語彙と読解力を補給する。そしてディベートで、読書で得た武器を使い、自分の頭で考え、言葉にする。このプロセスを経て初めて、知識は「思考力」へと昇華されるのだと実感しています。 インプットだけでも、アウトプットだけでも足りない。両方がかみ合って初めて、「日本語で深く考える力」が育つ。これが、私が教室で日々感じていることです。 本当のバイリンガルを目指して 「2つの言語が話せること」以上に大切なのは、「どちらか一方の言語で、深く、論理的に思考できる土台があること」です。 海外という素晴らしい環境を活かすためにも、その土台となる母語を疎かにしてはいけません。母語を鍛えることは、世界で戦うための「考える力」を鍛えることそのものなのだと、痛感しています。
