海外で失われる日本語は、漢字だけではない
August 31, 2026
目次
- 1. 「ちょろちょろ」と「ざぶざぶ」の違い、説明できますか?
- 2. 日本語には、情景を一瞬で伝える言葉がたくさんある
- 3. こうした言葉は、どこで覚えたのでしょうか
- 4. 日本にいれば、子どもは「自分に関係のない日本語」まで聞いている
- 5. 「家では日本語だから大丈夫」では補えないもの
- 6. 実際、日本語の語彙には差が生まれてくる
- 7. 日本への一時帰国で、日本語が急に変わる子がいる
- 8. 日本語の違いは、オノマトペだけではない
- 9. 言葉が増えると、世界の「解像度」が上がる
- 10. 「英語にはそういう表現がない」という話ではありません
- 11. だから、海外での日本語教育には「読書」が必要になる
- 12. 家庭でできることは、国語のドリルだけではない
- 13. 海外で守りたいのは、「日本語を話せること」だけではない
「ちょろちょろ」と「ざぶざぶ」の違い、説明できますか?
海外で子どもの日本語について話をしていると、保護者の方が気にされるのは、どうしても「漢字」や「読み書き」になりがちです。
- 「漢字が日本の同学年より遅れています」
- 「ひらがなは読めるけれど、文章を読むのを嫌がります」
- 「作文を書かせると、漢字をほとんど使いません」
もちろん、どれも大切な問題です。
でも、海外で子どもたちの日本語を見ていると、もう一つ、もっと見えにくいものが失われていくことがあります。それは、日本語で情景や感情を細かく捉える力です。
例えば、水が流れている様子を考えてみてください。
- ちょろちょろ
- さらさら
- ざあざあ
- ざぶざぶ
- どばどば
- ぽたぽた
日本語を母語として育った大人であれば、それぞれの言葉を聞いた瞬間、かなり違った光景が頭に浮かぶのではないでしょうか。「ちょろちょろ」と流れる水と、「どばどば」と流れる水は、同じ「水が流れている」でも全く違います。「ぽたぽた」と「ざあざあ」では、音も、量も、スピードも、目の前に浮かぶ景色も違います。
私たちは、こうした違いを学校で一つひとつ、「ちょろちょろとは、少量の液体が細く継続的に流れる様子で……」などと習った記憶はほとんどないはずです。それでも分かります。なぜでしょうか。
日本語には、情景を一瞬で伝える言葉がたくさんある
「ちょろちょろ」「ざあざあ」のような言葉は、オノマトペと呼ばれます。オノマトペには、実際の音を表す擬音語だけではなく、状態や様子、感情などを表す擬態語も含まれます。国立国語研究所も、「はらはら」「がっつり」「ワンワン」「ニャアニャア」などを例に、擬音語・擬態語をまとめてオノマトペと説明しています。日本語の面白いところは、音だけではなく、動作や状態、感情までこうした表現を使うことです。
例えば、「歩く」だけでも、
- とぼとぼ歩く
- よろよろ歩く
- ふらふら歩く
- ぶらぶら歩く
- すたすた歩く
では、全く違う人が頭に浮かびます。
「見る」でも、
- じっと見る
- ちらっと見る
- ぼんやり見る
- まじまじと見る
では、視線だけではなく、その人の心理まで少し見えてきます。
感情についても、
- イライラする
- モヤモヤする
- ハラハラする
- ワクワクする
- ゾクゾクする
のように、非常に微妙な状態の違いを一言で表現できます。オノマトペは、単なる幼児語ではありません。日本語では、大人の日常会話にも、文学にも、漫画にも、広告にも、ごく普通に登場します。国立国語研究所の資料を見ると、一つの音の基礎から「ばたん」「ばたっ」「ばたり」「ばたばた」「ばたーん」「ばったり」のように多くの派生形が作られ、それぞれ少しずつ異なるニュアンスを持つことも日本語のオノマトペの特徴として紹介されています。
つまり日本語では、ほんの数文字の違いによって、目の前の情景をかなり細かく描き分けることができるのです。
こうした言葉は、どこで覚えたのでしょうか
ここで考えてみてください。皆さんは、「ざぶざぶ」という言葉をどこで覚えたでしょうか。小学校の国語でしょうか。単語帳でしょうか。おそらくどこで覚えたか、覚えていないと思います。
- 雨の日に、「今日は雨がざあざあ降っているね」と誰かが言った。
- お風呂で、「そんなにざぶざぶやったら水がこぼれるよ」と言われた。
- 水道から少し水が出ていて、「水がちょろちょろ出てるよ」と言われた。
- 絵本の中で読んだ。
- テレビで聞いた。
- 友達が使っていた。
- 誰かと誰かが話しているのを横で聞いていた。
私たちは、そうした何千、何万という小さな言語経験を積み重ねて、日本語を身につけています。つまり日本語は、自分に向かって教えられた言葉だけから身につけているわけではありません。生活しているだけで、周囲から大量の日本語が入ってきているのです。
日本にいれば、子どもは「自分に関係のない日本語」まで聞いている
日本で暮らしている子どもの一日を想像してみましょう。
- 朝、テレビからニュースが流れている。
- 通学中に上級生が話している。
- 学校で先生同士が話している。
- 友達が別の友達に話しかけている。
- 図書館で司書さんが説明している。
- お店で店員さんがお客さんと話している。
- 電車ではアナウンスが流れる。
- 駅で知らない大人同士が話している。
- 家では親が電話で誰かと話している。
- 祖父母は、親とは少し違った言葉を使う。
- テレビでは、子どもとは全く違う世代の人が話している。
本人に直接話しかけられているわけではありません。それでも、そのすべてが日本語のインプットになっています。
- 「ああ、大人同士だとこんな話し方をするんだ」
- 「先生にはこういう言い方をするんだ」
- 「怒っているときには、こういう表現を使うんだ」
- 「知らない人には、このくらい丁寧に話すんだ」
- 「この場面では、この言葉を使うんだ」
そういうことを、誰かから文法として説明されることなく覚えていきます。私はこれを、海外での日本語教育を考えるうえで非常に重要なことだと思っています。
「家では日本語だから大丈夫」では補えないもの
海外で暮らしていても、ご家庭で日本語を使っていれば、日本語に触れる機会はあります。これは非常に大切です。しかし、家庭の中だけで触れる日本語と、日本社会の中で触れる日本語は、量も種類も大きく異なります。家庭では、話し手が限られます。多くの場合、父親、母親、兄弟姉妹くらいです。そして親子の場合、言葉を全部言わなくても通じます。
- 「ねえ、あれ取って」
- 「今日どうだった?」
- 「あとでやってね」
- 「それ、この前のやつ?」
これでも十分にコミュニケーションが成立します。親は子どものことをよく知っているので、子どもが十分に説明できなくても意味を推測してくれます。「それでね、あの人が、あれやって、それで嫌だった」という説明でも、「ああ、○○ちゃんのことね」と理解してくれるかもしれません。しかし、社会ではそうはいきません。
- 初めて会う人に説明する。
- 年齢の違う人と話す。
- 先生に質問する。
- 知らない人にお願いする。
- 状況を知らない相手に最初から説明する。
- 自分とは違う考えを持つ人と話す。
そうした経験では、より正確な言葉が必要になります。家庭の日本語だけでは、日本語がなくなるわけではない。しかし、日本語の世界が狭くなっていく可能性があります。ここが、海外で育つ子どもの日本語を見るうえで、とても重要だと思っています。
実際、日本語の語彙には差が生まれてくる
近年、日本語を継承語として育てている子どもを対象にした興味深い研究があります。2025年に『Child Development』に掲載された研究では、日本語を継承語として育つ427人と、日本語環境で育つ子どもたちの語彙発達を比較しています。その結果、集団として見ると、日本語を継承語として育つ子どもたちの語彙知識は、幼児期から日本語環境の子どもたちとの差が見え始め、その差には大きな個人差があることが示されました。さらに興味深いのは、何が日本語の発達と関係していたかです。研究では、家庭でどのくらい日本語を使っているかだけではなく、
- 読書や作文などのLiteracy
- 学校
- 地域社会
- 日本への一時帰国
- 日本滞在中に周囲から耳に入ってくる日本語
これらを含めて、子どもの言語経験を分析しています。特に、日本で過ごす期間には、親だけではなく、
- 祖父母
- 親戚
- 友達
- 知らない大人
- 周囲の会話
など、普段暮らしている国では得にくい多様な日本語に触れる機会があります。研究者も、こうした多様な話者や場面から日本語に触れることの重要性に注目しています。これは、海外で日本語教育をしていると、とても納得できる話です。
日本への一時帰国で、日本語が急に変わる子がいる
海外在住のお子さまが日本へ一時帰国すると、「日本から帰ってきたら、急に日本語が増えた」と感じることが多々あります。もちろん、日本語を話す時間そのものが増えた影響もあるでしょう。でも、それだけではないと思います。
- コンビニに行く。
- 電車に乗る。
- いとこと遊ぶ。
- 祖父母と話す。
- テレビを見る。
- 公園で知らない子どもと遊ぶ。
- レストランで隣の席の人が話している。
- 街を歩いている。
そのすべてから日本語が入ってきます。日本に住んでいる私たちにとっては「何でもない日常」ですが、海外で育っている子どもにとっては、大量の生きた日本語に浸かっている状態です。そして、そこで入ってくる日本語の多くは、教科書には載っていません。
日本語の違いは、オノマトペだけではない
今回、分かりやすい例としてオノマトペを取り上げました。でも、海外で触れる機会が減る日本語は、それだけではありません。
例えば、「怒る」だけでも、
- 腹を立てる。
- 機嫌を損ねる。
- カッとなる。
- むっとする。
- 苛立つ。
- 憤る。
- 叱る。
- たしなめる。
では、意味が少しずつ違います。「見る」でも、
- 眺める。
- 見つめる。
- 見渡す。
- のぞく。
- 観察する。
- 確認する。
- 目を通す。
では、行動が違います。
さらに、
- たぶん
- おそらく
- もしかすると
- ひょっとすると
でも、話し手が感じている確率やニュアンスは少し違います。こうした違いをたくさん知っていると、自分の気持ちや状況をより正確に言葉にできます。
逆に、使える言葉が少なければ、- すごい
- やばい
- 楽しい
- 嫌だ
- むかつく
といった少数の言葉で、多くの状態を表すことになります。言いたいことがないのではありません。感じているものを細かく切り分けるための言葉が足りないのです。(因みに我が家では、「やばい」の使用は禁止しています)
言葉が増えると、世界の「解像度」が上がる
私は、語彙力という言葉を「知っている単語の数」だけで考えない方がいいと思っています。言葉が増えるということは、世界を細かく区別して捉えられるようになることでもあります。
「雨が降っている。」だけではなく、
- しとしと降っている。
- ぱらぱら降っている。
- ざあざあ降っている。
- ぽつぽつ降り始めた。
- 土砂降りになった。
と表現できれば、同じ「雨」でも違う状態として捉えられます。
人の気持ちも同じです。「悲しい」だけではなく、
- 寂しい。
- 悔しい。
- 切ない。
- 心細い。
- 虚しい。
- 残念だ。
- やるせない。
といった言葉を知っていれば、自分の中にある感情をより細かく認識し、相手にも伝えることができます。私は、これが日本語の解像度だと思っています。
「英語にはそういう表現がない」という話ではありません
ここは誤解のないように書いておきたいと思います。英語にも、もちろん非常に豊かな表現があります。例えば「歩く」という動作だけでも、walkだけではなく、stroll、stagger、wander、stride、tiptoeなど、動き方を細かく表す動詞があります。英語にも擬音表現やsound symbolismがあります。ですから、「日本語は豊かで英語は単純だ」という話ではありません。重要なのは、それぞれの言語が世界を表現する方法が違うということです。
日本語の場合、オノマトペをはじめとした表現が日常会話の中に深く入り込んでいて、それを日本社会の中で大量に聞きながら子どもたちは育ちます。海外で暮らすということは、単に「日本語を話す時間が減る」というだけではありません。日本語が使われる場面の種類そのものが減るということなのです。
だから、海外での日本語教育には「読書」が必要になる
では、日本に住んでいない子どもに、どうすれば多様な日本語を与えられるのでしょうか。親が一日中、難しい日本語で話しかければいいのでしょうか。それは現実的ではありません。
そこで非常に大きな役割を果たすのが、読書です。一冊の物語の中には、家庭には存在しない人たちがたくさん登場します。
- おじいさんが話す。
- 子どもが話す。
- 先生が話す。
- 乱暴な人が話す。
- 丁寧な人が話す。
- 怒っている人が話す。
- 悲しんでいる人が話す。
- 昔の人が話す。
- 自分とは違う性格の人が話す。
- 雨が降る。
- 風が吹く。
- 川が流れる。
- 扉が閉まる。
- 人が走る。
- 転ぶ。
- 泣く。
- 笑う。
- 緊張する。
- 安心する。
つまり本の中では、海外の日常生活だけでは出会えない日本語に、何度でも出会うことができます。
読書は、漢字を覚えるためだけにするものではありません。文章問題を解けるようにするためだけでもありません。海外にいる子どもにとっては、失われた日本語環境の一部を補う手段でもあるのです。日本語を継承語として育つ子どもについての近年の研究でも、読書・作文・宿題など、日本語でのLiteracy活動が言語発達に関係する重要な要素として扱われています。
家庭でできることは、国語のドリルだけではない
海外で子どもの日本語を育てようとすると、「漢字ドリルをやらせなければ」「国語の問題集を買わなければ」と考えがちです。もちろん、それらも必要な場合があります。でも、それだけではありません。例えば、
- 一緒に本を読む。
- 日本語のオーディオブックを聞く。
- 年齢の違う日本人と話す。
- 祖父母と定期的に話す。
- 日本へ帰ったときには、家族だけでなく同年代の子どもとも過ごす。
- 映画やドラマを日本語で見る。
- 食事中にニュースについて話す。
そして時々、
- どう思った?
- どういう音だった?
- その人、どんな歩き方してた?
- 『嫌だった』って、腹が立ったの? 悲しかったの? 悔しかったの?
と、少しだけ言葉を掘り下げてみる。こうした日常の積み重ねも、日本語教育です。
海外で守りたいのは、「日本語を話せること」だけではない
海外で育っている子どもが、日本語で親と話している。一見すると、日本語は問題ないように見えます。でも、「日本語を話せるか」だけを見ていると、見落としてしまうことがあります。
- どのくらいの語彙を使っているのか。
- どのくらい細かく情景を説明できるのか。
- 自分の感情をどのくらい正確に言葉にできるのか。
- 知らない相手にも状況を説明できるのか。
- 本の中の微妙な表現を理解できるのか。
そして、本人の年齢とともに、日本語の世界も広がっているのか。そこまで見て、初めて日本語の成長が見えてきます。海外で失われる日本語は、漢字だけではありません。
- 「ざぶざぶ」と「ちょろちょろ」の違い。
- 「悲しい」と「切ない」の違い。
- 「見る」と「見つめる」の違い。
そうした小さな違いの積み重ねが、その子が日本語で見ている世界の解像度をつくっています。だから私は、海外で日本語を育てるとき、「日本語を忘れさせない」だけでは足りないと思っています。
- 日本語で、もっとたくさんの世界に出会わせる。
- 日本語で、もっと細かく世界を見る。
- 日本語で、もっと正確に自分の気持ちを表現する。
そこまで含めて、日本語を年齢と一緒に成長させていく。それが、海外での母語教育で大切なことではないでしょうか。
次回は、「母語での読書は、なぜ海外の子どもに必要なのか」というテーマで、読書が単なる日本語維持ではなく、語彙力、読解力、そして「考える力」にどのようにつながっていくのかを考えてみたいと思います。