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海外で失われる日本語は、漢字だけではない

August 31, 2026

海外で失われる日本語は、漢字だけではない

「ちょろちょろ」と「ざぶざぶ」の違い、説明できますか?

海外で子どもの日本語について話をしていると、保護者の方が気にされるのは、どうしても「漢字」や「読み書き」になりがちです。

  • 「漢字が日本の同学年より遅れています」
  • 「ひらがなは読めるけれど、文章を読むのを嫌がります」
  • 「作文を書かせると、漢字をほとんど使いません」

もちろん、どれも大切な問題です。

でも、海外で子どもたちの日本語を見ていると、もう一つ、もっと見えにくいものが失われていくことがあります。それは、日本語で情景や感情を細かく捉える力です。

例えば、水が流れている様子を考えてみてください。

  • ちょろちょろ
  • さらさら
  • ざあざあ
  • ざぶざぶ
  • どばどば
  • ぽたぽた

日本語を母語として育った大人であれば、それぞれの言葉を聞いた瞬間、かなり違った光景が頭に浮かぶのではないでしょうか。「ちょろちょろ」と流れる水と、「どばどば」と流れる水は、同じ「水が流れている」でも全く違います。「ぽたぽた」と「ざあざあ」では、音も、量も、スピードも、目の前に浮かぶ景色も違います。

私たちは、こうした違いを学校で一つひとつ、「ちょろちょろとは、少量の液体が細く継続的に流れる様子で……」などと習った記憶はほとんどないはずです。それでも分かります。なぜでしょうか。


日本語には、情景を一瞬で伝える言葉がたくさんある

「ちょろちょろ」「ざあざあ」のような言葉は、オノマトペと呼ばれます。オノマトペには、実際の音を表す擬音語だけではなく、状態や様子、感情などを表す擬態語も含まれます。国立国語研究所も、「はらはら」「がっつり」「ワンワン」「ニャアニャア」などを例に、擬音語・擬態語をまとめてオノマトペと説明しています。日本語の面白いところは、音だけではなく、動作や状態、感情までこうした表現を使うことです。

例えば、「歩く」だけでも、

  • とぼとぼ歩く
  • よろよろ歩く
  • ふらふら歩く
  • ぶらぶら歩く
  • すたすた歩く

では、全く違う人が頭に浮かびます。

「見る」でも、

  • じっと見る
  • ちらっと見る
  • ぼんやり見る
  • まじまじと見る

では、視線だけではなく、その人の心理まで少し見えてきます。

感情についても、

  • イライラする
  • モヤモヤする
  • ハラハラする
  • ワクワクする
  • ゾクゾクする

のように、非常に微妙な状態の違いを一言で表現できます。オノマトペは、単なる幼児語ではありません。日本語では、大人の日常会話にも、文学にも、漫画にも、広告にも、ごく普通に登場します。国立国語研究所の資料を見ると、一つの音の基礎から「ばたん」「ばたっ」「ばたり」「ばたばた」「ばたーん」「ばったり」のように多くの派生形が作られ、それぞれ少しずつ異なるニュアンスを持つことも日本語のオノマトペの特徴として紹介されています。

つまり日本語では、ほんの数文字の違いによって、目の前の情景をかなり細かく描き分けることができるのです。

オノマトペ - ワクワクする|Sakura国語のワークショップ.png

こうした言葉は、どこで覚えたのでしょうか

ここで考えてみてください。皆さんは、「ざぶざぶ」という言葉をどこで覚えたでしょうか。小学校の国語でしょうか。単語帳でしょうか。おそらくどこで覚えたか、覚えていないと思います。

  • 雨の日に、「今日は雨がざあざあ降っているね」と誰かが言った。
  • お風呂で、「そんなにざぶざぶやったら水がこぼれるよ」と言われた。
  • 水道から少し水が出ていて、「水がちょろちょろ出てるよ」と言われた。
  • 絵本の中で読んだ。
  • テレビで聞いた。
  • 友達が使っていた。
  • 誰かと誰かが話しているのを横で聞いていた。

私たちは、そうした何千、何万という小さな言語経験を積み重ねて、日本語を身につけています。つまり日本語は、自分に向かって教えられた言葉だけから身につけているわけではありません。生活しているだけで、周囲から大量の日本語が入ってきているのです。


日本にいれば、子どもは「自分に関係のない日本語」まで聞いている

日本で暮らしている子どもの一日を想像してみましょう。

  • 朝、テレビからニュースが流れている。
  • 通学中に上級生が話している。
  • 学校で先生同士が話している。
  • 友達が別の友達に話しかけている。
  • 図書館で司書さんが説明している。
  • お店で店員さんがお客さんと話している。
  • 電車ではアナウンスが流れる。
  • 駅で知らない大人同士が話している。
  • 家では親が電話で誰かと話している。
  • 祖父母は、親とは少し違った言葉を使う。
  • テレビでは、子どもとは全く違う世代の人が話している。

本人に直接話しかけられているわけではありません。それでも、そのすべてが日本語のインプットになっています。

  • 「ああ、大人同士だとこんな話し方をするんだ」
  • 「先生にはこういう言い方をするんだ」
  • 「怒っているときには、こういう表現を使うんだ」
  • 「知らない人には、このくらい丁寧に話すんだ」
  • 「この場面では、この言葉を使うんだ」

そういうことを、誰かから文法として説明されることなく覚えていきます。私はこれを、海外での日本語教育を考えるうえで非常に重要なことだと思っています。

図書館で会話する学生ー生活音から学ぶ日本語|Sakura国語のワークショップ

「家では日本語だから大丈夫」では補えないもの

海外で暮らしていても、ご家庭で日本語を使っていれば、日本語に触れる機会はあります。これは非常に大切です。しかし、家庭の中だけで触れる日本語と、日本社会の中で触れる日本語は、量も種類も大きく異なります。家庭では、話し手が限られます。多くの場合、父親、母親、兄弟姉妹くらいです。そして親子の場合、言葉を全部言わなくても通じます。

  • 「ねえ、あれ取って」
  • 「今日どうだった?」
  • 「あとでやってね」
  • 「それ、この前のやつ?」

これでも十分にコミュニケーションが成立します。親は子どものことをよく知っているので、子どもが十分に説明できなくても意味を推測してくれます。「それでね、あの人が、あれやって、それで嫌だった」という説明でも、「ああ、○○ちゃんのことね」と理解してくれるかもしれません。しかし、社会ではそうはいきません。

  • 初めて会う人に説明する。
  • 年齢の違う人と話す。
  • 先生に質問する。
  • 知らない人にお願いする。
  • 状況を知らない相手に最初から説明する。
  • 自分とは違う考えを持つ人と話す。

そうした経験では、より正確な言葉が必要になります。家庭の日本語だけでは、日本語がなくなるわけではない。しかし、日本語の世界が狭くなっていく可能性があります。ここが、海外で育つ子どもの日本語を見るうえで、とても重要だと思っています。


実際、日本語の語彙には差が生まれてくる

近年、日本語を継承語として育てている子どもを対象にした興味深い研究があります。2025年に『Child Development』に掲載された研究では、日本語を継承語として育つ427人と、日本語環境で育つ子どもたちの語彙発達を比較しています。その結果、集団として見ると、日本語を継承語として育つ子どもたちの語彙知識は、幼児期から日本語環境の子どもたちとの差が見え始め、その差には大きな個人差があることが示されました。さらに興味深いのは、何が日本語の発達と関係していたかです。研究では、家庭でどのくらい日本語を使っているかだけではなく、

  • 読書や作文などのLiteracy
  • 学校
  • 地域社会
  • 日本への一時帰国
  • 日本滞在中に周囲から耳に入ってくる日本語

これらを含めて、子どもの言語経験を分析しています。特に、日本で過ごす期間には、親だけではなく、

  • 祖父母
  • 親戚
  • 友達
  • 知らない大人
  • 周囲の会話

など、普段暮らしている国では得にくい多様な日本語に触れる機会があります。研究者も、こうした多様な話者や場面から日本語に触れることの重要性に注目しています。これは、海外で日本語教育をしていると、とても納得できる話です。

生活音から学ぶ日本語|Sakura国語のワークショップ

日本への一時帰国で、日本語が急に変わる子がいる

海外在住のお子さまが日本へ一時帰国すると、「日本から帰ってきたら、急に日本語が増えた」と感じることが多々あります。もちろん、日本語を話す時間そのものが増えた影響もあるでしょう。でも、それだけではないと思います。

  • コンビニに行く。
  • 電車に乗る。
  • いとこと遊ぶ。
  • 祖父母と話す。
  • テレビを見る。
  • 公園で知らない子どもと遊ぶ。
  • レストランで隣の席の人が話している。
  • 街を歩いている。

そのすべてから日本語が入ってきます。日本に住んでいる私たちにとっては「何でもない日常」ですが、海外で育っている子どもにとっては、大量の生きた日本語に浸かっている状態です。そして、そこで入ってくる日本語の多くは、教科書には載っていません。


日本語の違いは、オノマトペだけではない

今回、分かりやすい例としてオノマトペを取り上げました。でも、海外で触れる機会が減る日本語は、それだけではありません。

例えば、「怒る」だけでも、

  • 腹を立てる。
  • 機嫌を損ねる。
  • カッとなる。
  • むっとする。
  • 苛立つ。
  • 憤る。
  • 叱る。
  • たしなめる。

では、意味が少しずつ違います。「見る」でも、

  • 眺める。
  • 見つめる。
  • 見渡す。
  • のぞく。
  • 観察する。
  • 確認する。
  • 目を通す。

では、行動が違います。

さらに、

  • たぶん
  • おそらく
  • もしかすると
  • ひょっとすると

でも、話し手が感じている確率やニュアンスは少し違います。こうした違いをたくさん知っていると、自分の気持ちや状況をより正確に言葉にできます。

逆に、使える言葉が少なければ、
  • すごい
  • やばい
  • 楽しい
  • 嫌だ
  • むかつく

といった少数の言葉で、多くの状態を表すことになります。言いたいことがないのではありません。感じているものを細かく切り分けるための言葉が足りないのです。(因みに我が家では、「やばい」の使用は禁止しています)

”やばい”の表現はヤバイ 表現を制限することば|Sakura国語のワークショップ

言葉が増えると、世界の「解像度」が上がる

私は、語彙力という言葉を「知っている単語の数」だけで考えない方がいいと思っています。言葉が増えるということは、世界を細かく区別して捉えられるようになることでもあります。

「雨が降っている。」だけではなく、

  • しとしと降っている。
  • ぱらぱら降っている。
  • ざあざあ降っている。
  • ぽつぽつ降り始めた。
  • 土砂降りになった。

と表現できれば、同じ「雨」でも違う状態として捉えられます。

人の気持ちも同じです。「悲しい」だけではなく、

  • 寂しい。
  • 悔しい。
  • 切ない。
  • 心細い。
  • 虚しい。
  • 残念だ。
  • やるせない。

といった言葉を知っていれば、自分の中にある感情をより細かく認識し、相手にも伝えることができます。私は、これが日本語の解像度だと思っています。


「英語にはそういう表現がない」という話ではありません

ここは誤解のないように書いておきたいと思います。英語にも、もちろん非常に豊かな表現があります。例えば「歩く」という動作だけでも、walkだけではなく、stroll、stagger、wander、stride、tiptoeなど、動き方を細かく表す動詞があります。英語にも擬音表現やsound symbolismがあります。ですから、「日本語は豊かで英語は単純だ」という話ではありません。重要なのは、それぞれの言語が世界を表現する方法が違うということです。

日本語の場合、オノマトペをはじめとした表現が日常会話の中に深く入り込んでいて、それを日本社会の中で大量に聞きながら子どもたちは育ちます。海外で暮らすということは、単に「日本語を話す時間が減る」というだけではありません。日本語が使われる場面の種類そのものが減るということなのです。


だから、海外での日本語教育には「読書」が必要になる

では、日本に住んでいない子どもに、どうすれば多様な日本語を与えられるのでしょうか。親が一日中、難しい日本語で話しかければいいのでしょうか。それは現実的ではありません。

そこで非常に大きな役割を果たすのが、読書です。一冊の物語の中には、家庭には存在しない人たちがたくさん登場します。

  • おじいさんが話す。
  • 子どもが話す。
  • 先生が話す。
  • 乱暴な人が話す。
  • 丁寧な人が話す。
  • 怒っている人が話す。
  • 悲しんでいる人が話す。
  • 昔の人が話す。
  • 自分とは違う性格の人が話す。
  • 雨が降る。
  • 風が吹く。
  • 川が流れる。
  • 扉が閉まる。
  • 人が走る。
  • 転ぶ。
  • 泣く。
  • 笑う。
  • 緊張する。
  • 安心する。

つまり本の中では、海外の日常生活だけでは出会えない日本語に、何度でも出会うことができます。

読書は、漢字を覚えるためだけにするものではありません。文章問題を解けるようにするためだけでもありません。海外にいる子どもにとっては、失われた日本語環境の一部を補う手段でもあるのです。日本語を継承語として育つ子どもについての近年の研究でも、読書・作文・宿題など、日本語でのLiteracy活動が言語発達に関係する重要な要素として扱われています。

海外での日本語教育には読書が必要|Sakura国語のワークショップ

家庭でできることは、国語のドリルだけではない

海外で子どもの日本語を育てようとすると、「漢字ドリルをやらせなければ」「国語の問題集を買わなければ」と考えがちです。もちろん、それらも必要な場合があります。でも、それだけではありません。例えば、

  • 一緒に本を読む。
  • 日本語のオーディオブックを聞く。
  • 年齢の違う日本人と話す。
  • 祖父母と定期的に話す。
  • 日本へ帰ったときには、家族だけでなく同年代の子どもとも過ごす。
  • 映画やドラマを日本語で見る。
  • 食事中にニュースについて話す。

そして時々、

  • どう思った?
  • どういう音だった?
  • その人、どんな歩き方してた?
  • 『嫌だった』って、腹が立ったの? 悲しかったの? 悔しかったの?

と、少しだけ言葉を掘り下げてみる。こうした日常の積み重ねも、日本語教育です。


海外で守りたいのは、「日本語を話せること」だけではない

海外で育っている子どもが、日本語で親と話している。一見すると、日本語は問題ないように見えます。でも、「日本語を話せるか」だけを見ていると、見落としてしまうことがあります。

  • どのくらいの語彙を使っているのか。
  • どのくらい細かく情景を説明できるのか。
  • 自分の感情をどのくらい正確に言葉にできるのか。
  • 知らない相手にも状況を説明できるのか。
  • 本の中の微妙な表現を理解できるのか。

そして、本人の年齢とともに、日本語の世界も広がっているのか。そこまで見て、初めて日本語の成長が見えてきます。海外で失われる日本語は、漢字だけではありません。

  • 「ざぶざぶ」と「ちょろちょろ」の違い。
  • 「悲しい」と「切ない」の違い。
  • 「見る」と「見つめる」の違い。

そうした小さな違いの積み重ねが、その子が日本語で見ている世界の解像度をつくっています。だから私は、海外で日本語を育てるとき、「日本語を忘れさせない」だけでは足りないと思っています。

  • 日本語で、もっとたくさんの世界に出会わせる。
  • 日本語で、もっと細かく世界を見る。
  • 日本語で、もっと正確に自分の気持ちを表現する。

そこまで含めて、日本語を年齢と一緒に成長させていく。それが、海外での母語教育で大切なことではないでしょうか。

次回は、「母語での読書は、なぜ海外の子どもに必要なのか」というテーマで、読書が単なる日本語維持ではなく、語彙力、読解力、そして「考える力」にどのようにつながっていくのかを考えてみたいと思います。

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在外のお子さまの日本語|「話せる」と「読める・書ける」は別の力

会話が流暢だからこそ読み書きの遅れは見えにくい、という現実 海外で育つ子どもたちの日本語を見ていると、とても興味深いことがあります。 日本語で普通に話している。 冗談も言える。 親が言っていることも理解している。 日本のアニメも楽しんでいる。 だから保護者から見ると、「うちの子は日本語は大丈夫」に見えます。ところが、実際に日本語の文章を読んでもらうと、少し様子が変わることがあります。 漢字が読めない。 文章になると読む速度が急に落ちる。 一文ずつは読めても、全体として何が書いてあるのか分からない。 そして、「じゃあ、これについて自分の考えを書いてみて」と言うと、さらに難しくなる。 教室では、小学校高学年、ときには中学生になっていても、ひらがなやカタカナを書くことにかなり苦労するお子さまに出会うこともあります。でも、本人と日本語で話しているだけでは、そのことに気づかないことがあります。なぜなら、話す日本語はかなり流暢だからです。ここに、海外での日本語教育の非常に見えにくい落とし穴があります。 「日本語力」を一つの能力として考えない 私たちはつい、「この子は日本語ができる」もしくは「日本語が弱い」と、一つの能力のように考えてしまいます。でも、実際には日本語にはさまざまな力があります。 聞く 話す 読む 書く さらに読む中にも、 文字が読める 単語の意味が分かる 文章の内容を理解する 筆者の意図を読み取る 複数の情報を関連づける といった違う力があります。書くことも同じです。 ひらがなを書く 漢字を書く 文章を作る 出来事を順序立てて説明する 理由を書く 自分の意見と根拠を構造化する これらは全部同じ能力ではありません。 日本語を継承語として育てる子ども427人を対象とした2025年の研究でも、日本語能力を調べる際には、話す・理解する・読む・書くがそれぞれ別の項目として評価されています。また、読書・作文・宿題などのLiteracy活動が独立した言語経験として分析され、日本語能力との関連が示されています。 つまり、日本語を話せることと、日本語を読んだり書いたりできることは、分けて考える必要があるのです。 なぜ「話す」はできるのに、「読む・書く」は難しいのか 考えてみると、これはそれほど不思議なことではありません。子どもは、日本語の会話を毎日家庭で使っているかもしれません。朝起きて、「おはよう」、「早く着替えて」、「今日何時に帰ってくる?」。学校から帰れば、「今日どうだった?」、「お腹すいた」、「宿題終わった?」こうした日本語を何年も使っています。 でも、 ひらがなを毎日読んでいるでしょうか? カタカナを書いているでしょうか? 日本語の長い文章を読んでいるでしょうか? 日本語で作文を書いているでしょうか。 インター校や現地校へ通っていれば、学校で毎日行っている読み書きは英語やオランダ語です。つまり、話す日本語には毎日練習する機会があるのに、読む・書く日本語にはほとんど練習する機会がないという状態が起こります。 そう考えれば、会話力と読み書きに差が生まれること自体は、むしろ自然です。継承語話者は、教育を受ける多数派言語では読み書きを身につけやすい一方、継承語では聞く・話す能力と読み書き能力に大きな個人差が生じることが知られています。研究レビューでも、継承語話者の能力は聞く・話す・読む・書くの各領域で一様ではないことが指摘されています。 文字は、会話しているだけでは自然には身につかない ここは非常に重要です。日本語をたくさん聞いていれば、ある程度日本語を話せるようになります。でも、「ありがとう」と何千回聞いていても、それだけで自然に「あ・り・が・と・う」と書けるようになるわけではありません。まして、「ありがとうございます」と、「有り難うございます」の違いを自然に理解するわけでもありません。 文字は、文字を見て、音と結びつけ、読んで、書いて、何度も使うことで身についていきます。日本で育つ子どもには、この機会が身のまわりに溢れています。幼稚園の名札や絵本、街中の看板、テレビの字幕、学校のプリント、教科書、黒板、宿題などなど、列挙し出すと切りがありません。 日本語が生活の中に文字として存在しています。海外で生活すると、この「文字としての日本語」が一気に限定されてしまいます。家庭で日本語を話していたとしても、日本語を文字として目にする量は、日本で生活する子どもとは全く違うのです。 ひらがな・カタカナが書けないことを、責めるべきではない 教室で、小学校高学年や中学生でも、ひらがな・カタカナの書字に苦労するお子さまを見ることがあります。例えば、「ぬ」と「め」が混乱する、「シ」と「ツ」が分からない、促音の「っ」をどこに入れるのか分からない、長音をどう書くのか迷う、文章のどの部分がカタカナになるのか判らない、言葉は知っているのに文字にできない。 でも、私はこれを、「中学生なのに、こんなことも書けない」と考えるべきではないと思っています。本人は、学校で英語やオランダ語を使って毎日勉強しています。そちらの言語ではEssayを書き、Presentationをし、難しい内容を理解しているかもしれません。 単に、日本語を書く経験が圧倒的に少なかっただけかもしれません。書くという能力は、話す能力とは別に練習する必要があります。 日本で育つ子どもについての研究でも、ひらがなの読みの力と、その後のひらがな・漢字の読み書き能力には関連があり、読み書きの技能が段階的に発達していくことが示されています。 ですから、「話せるのになぜ書けないの?」ではなく、「これまで書く機会がどのくらいあっただろう?」と考えた方がよいと思います。 日本語入力ができることと、日本語を書けることも少し違う 最近はもう一つ、興味深いことがあります。スマートフォンなら日本語で文章を打てる。LINEなら日本語でメッセージできる。でも、「紙に書いてみて」と言うと書けない。ということがあります。 スマートフォンなら、「きょうはがっこうにいきました」と入力すれば、「今日は学校に行きました」と変換してくれます。「学校」という漢字を書けなくても、読むことさえできれば選べます。これは悪いことではありません。現代社会では、手書きよりタイピングする機会の方が多いでしょう。ですから、「漢字を手で全部書けなければ日本語ができない」とも思いません。 ただし、入力できること、読めること、手で書けること、文章を構成できることは、それぞれ違う能力だということは理解しておく必要があります。 重要なのは、「学校」という漢字を手書きできるかだけではありません。「今日学校であった出来事を、知らない人にも分かるように説明してください」と言われたときに、日本語で文章を組み立てられるか。私は、こちらの方がより重要だと思っています。 「書く」は、文字を書くことだけではない 「日本語を書く力」というと、漢字を書けるかどうかに目が行きがちです。でも、高学年以降になると本当に必要になるのは、考えを文章にする力です。 例えば、「私はこの意見に賛成です」までは書ける。では、「なぜですか?」と聞かれたらどうでしょう。「なぜなら……」と理由を書く。さらに、「具体例を挙げてください」と言われる。そして、「反対の立場の人はどう考えるでしょうか」まで考える。こうなると、単に漢字を知っているだけでは書けません。 頭の中にある考えを、順序立て、必要な情報を選び、相手に伝わるように文章として構成する必要があります。 書くというのは、思考を言葉として外に出し、構造化する作業でもあります。 会話なら、相手が助けてくれる 書くことが難しいもう一つの理由があります。会話では、相手がいます。子どもが、「今日ね、学校であの子がさ、またあれやって……」と言えば、親が、「○○君?」と聞いてくれます。 「うん。それで先生が……」 「怒ったの?」 「そうそう」 と、相手が会話を補ってくれます。表情もあります。ジェスチャーもあります。分からなければ聞き返してもらえます。 でも文章では、相手は横にいません。「あの子」と言われても分かりません。「あれ」では伝わりません。書き手自身が、 誰のことなのか 何が起こったのか なぜ起こったのか どう感じたのか を説明する必要があります。 つまり書くことによって、「自分は分かっている」から「相手にも分かるように説明する」へ思考を変える必要があります。この力は、自然な家庭会話だけでは必ずしも十分に練習できません。 読めないと、「知っている日本語」が増えにくくなる 読み書きの中でも、私はまず「読むこと」が非常に重要だと思っています。なぜなら、読めるようになると、自分で日本語を増やせるようになるからです。 本を読む ニュースを読む インターネットで調べる 漫画を読む 字幕を読む 説明書を読む 日本語で検索する 誰かに日本語を教えてもらわなくても、文字を通じて、自分で新しい日本語を取りに行けるようになります。 逆に、日本語を話せても日本語を読むことが苦手だと、日本語のインプットは人との会話に依存します。家庭で使われている言葉から先へ進みにくくなります。 前回までの記事で何度も取り上げてきた日本語継承語話者427人の研究でも、読書・作文・宿題などの日本語Literacy活動が、日本語能力に関係する重要な要素として示されています。 読むことが、書くことにもつながる ここも重要です。文章を書けるようにするため、「作文をたくさん書かせよう」と考えることがあります。もちろん書く練習は必要です。でも、書く前に、良い日本語をたくさん読むことも非常に重要です。 文章を読めば、「こういうときは『しかし』を使うんだ」、「理由を書くときは『なぜなら』なんだ」、「話が変わると段落が変わるんだ」、「こうやって人物の気持ちを表現するんだ」といった文章の型を、少しずつ取り込んでいきます。 2026年に発表された、9~15歳のバイリンガル児童の継承語としての英語の書く力を3年間追跡した研究でも、家庭での読書習慣がwritingの発達を支える重要な要素として報告されています。特に高いwriting能力を持つ子どもには、自主的な読書や継続的な家庭での読書経験が多く見られました。 対象言語は英語ですから、その結果をそのまま日本語へ当てはめることはできません。ただ、継承語の読み書きは、家庭でその言語を話しているだけで自動的に育つものではなく、文字に触れる活動が重要であるという点は、日本語教育を考えるうえでも非常に示唆的です。 「うちの子は日本語を話せるから大丈夫」が危険なのではない ここで誤解してほしくないことがあります。私は、「日本語を話せても読み書きできなければ意味がない」と言いたいわけではありません。会話できること自体、とても大きな力です。家庭によって、日本語をどこまで育てたいのかという目標も違います。海外に永住し、日本語は家族との会話ができれば十分、と考える家庭もあるでしょう。それも一つの選択です。 問題は、「話せるから、読み書きも必要になればすぐできるだろう」と錯覚してしまうことです。 話す力があることは大きな土台になります。でも、読む・書くためには、文字に触れ、読んで、書く経験が必ず必要なのです。 将来、日本語をどこで使うのかを考えてほしい では、日本語の読み書きをどこまで続けるべきなのでしょうか。これは、すべての家庭に同じ答えはありません。重要なのは、その子が将来、日本語をどのように使う可能性があるのかを考えることだと思います。 例えば、 日本へ帰国する可能性がある。 日本の中学・高校・大学へ進学する可能性がある。 日本で働く可能性がある。 日本の親族との関係を持ち続けたい。 将来、自分の子どもにも日本語を伝えたい。 日本の本やニュースを自分で読めるようにしたい。 そうした可能性が少しでもあるのであれば、「会話ができるから十分」で止めず、日本語を文字でも扱える状態を残しておくことには大きな意味があります。 反対に家庭として、「今後の教育・生活はすべて現地語で、日本語は家族との会話ができれば十分」と考えるのであれば、それも明確な教育方針です。 大切なのは、「気づかないうちに読み書きがなくなっていた」、ではなく、どのレベルの日本語を残すかを、家庭として意識的に選ぶことなのです。 漢字だけに焦点を当てすぎない 日本語の読み書きについて話すと、どうしても、「漢字を何文字覚えていますか?」という話になります。もちろん漢字は大切です。でも、漢字ドリルだけやっていても、読解力や文章力が自然に育つとは限りません。 例えば、「原因」という漢字を書ける。でも、「原因と結果の関係を説明してください」と言われたときに答えられない。それでは十分ではありません。逆に漢字を書くのは苦手でも、文章を読み、内容を理解し、自分の考えを日本語で説明できる。こちらには大きな力があります。 だから私は、日本語の読み書きを、「漢字が書けるか」だけで測らない方がいいと思っています。見るべきなのは、 文章を読めるか 意味を理解できるか 知らない言葉を前後から考えられるか 自分の考えを文章にできるか 相手に分かるように説明できるか という、もう少し広いLiteracyの力です。 読み書きも、いきなり100点を目指さなくていい 前回の記事でも書きましたが、日本語教育は0か100かで考える必要はありません。日本の学校と同じ量の漢字を毎日やる必要はないかもしれません。でも、週に一冊、日本語の本を読む、短い日記を書く、日本語でゲームをするなどの経験でも日本語を文字として使う回路を残すことができます。 大切なのは、日本語が「家族と話すための音」だけにならず、自分で情報を得て、自分の考えを伝えるための文字でもあり続けることだと思います。 読み書きができると、日本語の世界を自分で広げられる 私が、海外の子どもに日本語の読み書きを残してほしいと思う最大の理由は、漢字テストでいい点を取るためではありません。日本へ帰国したとき困らないためだけでもありません。 読み書きができれば、本人が親を介さずに、日本語の世界へアクセスできるからです。 自分で本を選ぶ 自分で検索する ニュースを読む 好きなアーティストの記事を読む 日本の人とメッセージする 大学について調べる 仕事を探す 契約書を読む そして自分の考えを文章で伝える そのとき日本語は、「親から受け継いだ家庭の言葉」から、「自分自身が使える言語」へ変わります。私は、これが読み書きの大きな意味だと思っています。 「日本語は大丈夫」の中身を、一度分解してみる お子さまが日本語で流暢に話していることは、とても大切な力です。でも、一度だけ、「日本語は大丈夫」という言葉を分解してみてください。 日本語を聞いて理解できる? 日本語で日常会話ができる? 知らない人にも出来事を説明できる? ひらがな・カタカナを読める? 書ける? 同年代向けの本を読める? 説明文を理解できる? 自分の考えを文章にできる? 理由や根拠を書ける? 全部できる必要はありません。家庭によって目標は違います。でも、どこまでできていて、どこから難しいのかを知っていることは、とても大切です。海外で育つ子どもの日本語は、「できる」「できない」の二択ではありません。読む、聞く、話す、書く力はそれぞれが違う速度で育ちます。 だから、「日本語を話しているから大丈夫」ではなく、「この子の日本語は、今どんな形で育っているだろう?」と見てみて、そこから、その家庭に本当に必要な日本語教育が見えてくるのではないかと思います。 参考資料 Kubota, M. & Rothman, J. (2025), Modeling individual differences in vocabulary development: A large-scale study on Japanese heritage speakers, Child Development, 96(1), 325–340. Nakamura, J. (2026), English as a Heritage Language in Japan: Writing Development From Late Childhood to Adolescence, Reading Research Quarterly. 花房香(2020)「読み書き能力の発達―就学前から小学2年生までの追跡研究―」 Takahashi, N. & Nakamura, T. (2015), Abilities needed by Japanese children to write kanji: Development of the ATLAN Kakitori subtest, The Japanese Journal of Psychology.