Sakura国語のワークショップ ロゴ

子どもたちの読解力に広がる危機

July 31, 2025

子どもたちの読解力に広がる危機
文部科学省が毎年実施している「全国学力・学習状況調査」(令和6年度/2024年)では、次のような結果が出ています。
  • 小学6年生の国語の読解問題 平均正答率 70.8%
  • 中学3年生の国語の読解問題 平均正答率 48.3%
特に中学生の結果は、半数以上の子どもが文章を正しく理解できていないことを示しています。 これは国語だけの問題ではありません。 数学の文章題、理科の実験問題、社会の長文設問──どの教科も「問題文を正しく読む力」がなければ、答えにたどり着くことはできません。 つまり、読解力の不足は、全教科に共通する深刻な基礎学力の欠落につながります。 さらに海外に暮らすお子さんの場合、状況は一層厳しくなります。 インターナショナルスクールや現地校で学ぶと、日常の言語は英語や現地語が中心。家庭内の日本語だけでは、語彙や表現の幅が限られ、抽象的な概念や複雑な文章を読み解く力が育ちにくいのです。 一度弱まった読解力は、短期間で取り戻せるものではありません。 小学生の段階で差がつくと、中学・高校、さらには社会に出てからの情報処理や思考力にまで影響が及びます。 帰国後、日本の学校に編入した子どもたちが国語はもちろん、他教科でも苦戦するのはこのためです。 だからこそ、海外にいる今こそ、日本語の読解力を意識的に育てる環境が欠かせません。

まずは無料体験から
Sakura国語の教室で日本語力を伸ばそう

その他のコラムを読む

家では日本語なのに、兄弟の会話は現地語になる。家庭の言語は、親だけでは決まらない。

2026.09.03

家では日本語なのに、兄弟の会話は現地語になる。家庭の言語は、親だけでは決まらない。

海外で日本人家庭のお子さまたちを見ていると、とても興味深いことがあります。一人っ子の家庭と、兄弟姉妹がいる家庭では、日本語の使われ方がかなり違うことがあるのです。 例えば、オランダで暮らしているある家庭。親は日本人で、子どもには日本語で話しかけています。親から子へは日本語。子どもから親へも、基本的には日本語。 一見すると、「家では日本語を使っている家庭」です。ところが、兄弟姉妹だけになると突然、オランダ語もしくは英語になる。そんな家庭を、教室を運営しているとよく見ます。特に兄弟姉妹が2人、3人といる家庭では、親と話すときは日本語。でも子ども同士ではオランダ語もしくは英語。という言語の使い分けが、いつの間にか定着していることがあります。 そして、少し気になるケースもあります。上の子どもたちは日本語でも親と話せる。でも一番下のお子さまは、兄や姉から入ってくる言葉の多くがオランダ語になり、日本語で自分の考えを十分に表現することが難しくなっている。親は日本語で話しているのに、子どもはオランダ語で返す。さらに日本語での理解も少しずつ難しくなり、親子のコミュニケーションそのものに言語の壁が生まれている。そんなケースを見ることもあります。 もちろん、これはすべての多言語家庭に起こることではありません。でも、家庭の言語は、親が何語で子どもに話しているかだけでは決まらない。ということは、海外で子どもを育てるうえで知っておいてほしいと思います。 なぜ兄弟姉妹は、現地語で話すようになるのか 考えてみれば、とても自然なことです。子どもたちは一日の多くを学校で過ごします。私達の住むオランダだと、 学校ではオランダ語。 先生との会話もオランダ語。 友達との会話もオランダ語。 休み時間もオランダ語。 遊びで使う言葉もオランダ語。 スポーツクラブでもオランダ語。 YouTubeやゲームでもオランダ語や英語。 そうなると、子どもにとってオランダ語は、学校で勉強するためだけの言葉ではなく、子ども同士で生活するための言葉になっていきます。その状態で兄弟姉妹が家に帰ってきます。 学校で起きたことを話す。 ゲームの話をする。 一緒に遊ぶ。 けんかする。 冗談を言う。 親に聞かれたくない話をする。 そうした「子ども同士の世界」は、学校と同じオランダ語もしくは英語の方が自然になっていきます。親が、「家では日本語で話しなさい」と言ったとしても、子どもにとっては、「どうして?」となるかもしれません。 学校ではずっとオランダ語(英語)を使っている。友達ともオランダ語(英語)。兄弟姉妹も同じ学校文化の中にいる。そう考えると、兄弟姉妹の会話が現地語になること自体は、とても自然な言語選択です。 実は、研究でも兄弟姉妹の言語は重要視されている 家庭の言語というと、「母親が何語で話すか」「父親が何語で話すか」が注目されがちです。しかし近年のFamily Language Policy、つまり「家庭内言語方針」の研究では、兄弟姉妹の存在も重要な要素として扱われています。 2024年に発表された多言語家庭と言語維持についての研究レビューでは、過去の研究として、子どものその後の言語使用に影響する要素の中に、兄弟姉妹間で使われる言語が含まれていることが紹介されています。 あるカナダの研究では、兄弟姉妹同士で使う言語、少数言語での読み書き、親同士が使う言語などが、子どもの将来的な言語使用と強く関係する要素として示されています。つまり、 親→子 だけを見ていては、家庭内の言語環境を十分に理解できないということです。 子→子 兄→弟 姉→妹 この言語も非常に重要なのです。 最初の子と、末っ子では「日本語環境」が違う これは私自身、教室で子どもたちを見ていて特に興味深いと感じる部分です。例えば、3人兄弟の家庭を考えてみます。一番上の子どもが生まれたとき。家には、父親と母親と赤ちゃんしかいません。 親が日本語を使っていれば、その子に入ってくる家庭内の言葉の大部分は日本語です。ところが、5年後に3人目が生まれたとします。家庭には、父親、母親、兄、姉、末っ子がいます。 親は末っ子に日本語で話している。でも兄と姉はオランダ語で話している。兄と姉が末っ子に話しかけるときもオランダ語。兄姉が遊んでいるのを横で聞く言葉もオランダ語。すると、同じ家庭に生まれた兄弟であっても、一番上の子と一番下の子では、幼少期に家庭の中で耳にする言語の割合が全く違うということが起こります。 親は同じです。家庭教育方針も同じ。「家では日本語を話している」という認識も同じ。でも実際の言語環境は変わっています。ここは、多子家庭では意外と見落とされやすいところだと思います。 上の子が、現地語を家庭へ持ち込む 第一子が学校へ通い始めると、家庭にはそれまでなかった大量の言葉が入ってきます。オランダ語(英語)です。 「今日、先生がこう言った」 「○○ってどういう意味?」 「学校ではこう言うんだよ」 といった形で入ってくるだけではありません。 遊びのルール 流行している言葉 友達との冗談 歌 ゲーム 学校文化そのものを、上の子が家庭へ持ち帰ります。 そして弟や妹にとっては、親だけでなく、兄や姉も重要な言語モデルです。兄や姉がオランダ語を使えば、弟や妹にとってオランダ語を覚える機会はさらに増えます。 これは悪いことではありません。むしろ、現地社会で生活するためには非常に自然で、必要なことです。問題は、それと同時に、日本語に触れる割合が相対的に減っているということに家庭が気づいているかどうかです。 親が日本語を話しているだけでは、日本語量が足りなくなることがある 例えば、子どもが起きている時間を考えてみましょう。 学校で6時間 放課後の友達や習い事で2時間 兄弟姉妹との遊びで2時間 YouTubeやゲームで1時間 親と話す時間が2〜3時間 実際にはもっと複雑でしょうが、親だけが日本語を使い、それ以外の時間の多くがオランダ語や英語になれば、家庭で日本語を使っているつもりでも、子どもが一日に受け取る言語全体では日本語が少数派になっている可能性があります。 さらに、前回の記事でも書いたように、日本語は「自分に話しかけられた日本語」だけから学ぶものではありません。 周囲で誰かが話している言葉 兄弟がけんかしている言葉 家族が冗談を言っている言葉 誰かが説明している言葉 そういった「横から聞こえてくる日本語」も、日本で暮らしている子どもには大量に入ってきます。ところが兄弟姉妹間まで現地語になると、家庭の中で偶然耳にする日本語まで減っていきます。これは意外に大きな変化です。 子どもは、親の「言語方針」に必ず従うわけではない ここも重要です。家庭では、「家の中では日本語」と親が決めることがあります。でも、実際に言語を使うのは子ども自身です。 多言語家庭を研究した研究でも、子どもたちは受動的に親の言語方針に従っているだけではなく、自分でどの言語を使うかを選び、家族の言語習慣そのものに影響を与える存在だとされています。 これは、教室で子どもたちを見ていても非常によく分かります。親が日本語で、「今日は学校どうだった?」と聞く。子どもがオランダ語(英語)で答える。親はオランダ語(英語)が分かるので、そのままオランダ語(英語)で返す。それを毎日繰り返していると、いつの間にか親子の会話までオランダ語(英語)になる。 最初から、「今日から家ではオランダ語(英語)にしよう」と家族会議で決めたわけではありません。少しずつ、便利な方の言語へ流れていきます。家庭の言語は、このようにして変化していくことがあります。 「分かるけど話せない」が始まる 継承語としての日本語でよく見られるのが、「日本語は分かるけれど、日本語では答えない」という状態です。 親:「今日学校で何したの?」 子ども:「We gingen vandaag naar…」 親は意味が分かるので、「そうなんだ」と返す。 会話自体は成立しています。だから大きな問題に見えません。ところが、この状態が何年も続くと、子どもは日本語を聞いて理解する経験は続けていても、自分で日本語の文章を組み立てる経験が少なくなっていきます。 すると、「言っていることは分かる」でも、「自分では日本語で説明できない」という差が生まれてきます。さらに日本語で話そうとすると、「あれ」、「それ」、「なんか」などの抽象的な表現が増えていくことがあります。 頭の中に考えはあります。でも、それを日本語にするための言葉がすぐに出てこない。以前書いた「日本語の解像度」が少しずつ低くなっている状態とも言えます。 一番下の子ほど注意して見てほしい 教室で兄弟姉妹のいる家庭を見ていると、私は特に末っ子のお子さまの言語環境を気にすることがあります。 上の子は、日本語だけの家庭環境を比較的長く経験している。一方、下の子は、生まれたときから家庭に現地語を話す兄姉がいる。つまり、同じ家庭でも、日本語に触れてきた条件が違うからです。 もちろん、下のお子さまの方が日本語が弱くなると決まっているわけではありません。家庭の方針や祖父母との交流、日本語の本や日本人の友達、補習校や日本語教室など、さまざまな要因があります。 それでも、「上の子が日本語を話せているから、下の子も大丈夫だろう」と自動的に考えない方がいいと思います。兄弟ごとに言語環境をみることが重要です。 では、兄弟には日本語だけで話させるべき? ここで、「では兄弟同士も日本語だけにした方がいいのでしょうか?」という疑問が出てきます。 私は、単純に「オランダ語は禁止」とは考えません。子どもにとってオランダ語(英語)は、自分の学校生活や友人関係と結びついた大切な言語です。それを家庭で否定すると、「日本語=親から強制されるもの」になってしまう可能性があります。また、子ども同士の自然なコミュニケーションまで親が常に管理するのは現実的ではありません。 多言語家庭の研究でも、家庭の言語維持には親の方針だけではなく、子ども自身の態度や家族関係、社会の言語環境など複数の要因が影響します。だから私は、「何語を禁止するか」より、「日本語を使う必要がある場面をどう増やすか」と考えた方がよいと思っています。 日本語を「使わなければならない状況」をつくる 親は子どものオランダ語(英語)を理解できる、兄弟もオランダ語(英語)を理解できる、学校もオランダ語(英語)、そうなると子どもの立場から見れば、日本語を使わなくても生活できるのです。 言語は、必要がなければ使われなくなります。だから、日本語を育てたいのであれば、「日本語を勉強しなさい」だけではなく、日本語を使う意味のある場面をつくることが重要だと思います。例えば、 日本の祖父母と話す 日本にいるいとこと話す 日本人の友達と遊ぶ 日本語の本について兄弟で話す 日本語の映画を見る 日本へ一時帰国する 日本語でゲームをする 兄弟で日本語のクイズをする 家族で日本のニュースについて話す こうした機会です。「日本語を使うこと」そのものを目的にするのではなく、日本語を使って何か面白いことをするという状態をつくる方が自然ではないでしょうか。 兄弟姉妹がいることは、逆に大きな強みにもなる ここまで読むと、「兄弟がいると日本語維持には不利なのか」と思われるかもしれません。むしろ逆で、兄弟姉妹は家庭の中で日本語を使える最も身近な仲間にもなりえます。 一人っ子の場合、日本語を話す相手が親だけということがあります。兄弟がいれば、一緒に遊んだり、秘密を話したり、けんかしたり、相談し、冗談を言う仲間になり、非常に豊かな言語経験を家庭の中で作ることができます。 重要なのは、その関係が現地語だけで固定される前に、日本語でも兄弟同士の経験を積ませておくことではないでしょうか。 幼い頃から、日本語の絵本を一緒に読む、日本語でごっこ遊びをする、日本の祖父母と兄弟一緒に話す、日本へ行ったときに、日本語で一緒に遊ぶ、などの経験があれば、「日本語=親と話すためだけの言葉」ではなくなり、兄弟姉妹の言葉にもなります。 家庭言語は「自然に残るもの」ではない 海外に住んでいると、「親が日本人なのだから、日本語は自然に残るだろう」と思ってしまうことがあります。でも実際には、社会には非常に強い多数派言語があります。 オランダに住めばオランダ語。 英国なら英語。 フランスならフランス語。 子どもは学校へ行き、友達をつくり、その社会で生活します。当然、多数派言語の力は年齢とともに強くなります。 2024年の多言語家庭に関する研究でも、家庭言語の維持について、親から子への言語伝達だけではなく、学校や社会の言語環境、兄弟姉妹の言語使用などが複雑に関係することが整理されています。 つまり、日本語は、家に日本人の親がいるだけで自動的に維持されるものではありません。少し意識して環境をつくらないと、多数派言語へ少しずつ置き換わっていくことがあります。 日本語を守るというより、「家庭に日本語が存在する場所を残す」 私は、「家庭では絶対に日本語だけ」という厳しいルールがすべての家庭に必要だとは思いません。それぞれの家庭には事情があります。 両親の言語 子どもの年齢 学校 帰国予定 本人の性格 兄弟構成 日本語を将来どこまで必要とするのか。 すべて違います。 でも、日本語を将来も使える言語として残したいのであれば、一度、家庭の中を観察してみてください。 兄から弟へは? 姉から妹へは? 子どもたちだけになった瞬間、何語になりますか? 食事中は? ゲーム中は? けんかするときは? 感情的になったときは? そこを見ると、家庭の本当の言語環境が見えてきます。 「私たちは家では日本語です」と思っていたけれど、よく見てみたら日本語が使われているのは親子間だけだった。ということもあるかもしれません。 それ自体が悪いわけではありません。重要なのは、それを家庭が把握したうえで、将来の日本語をどうしたいかを選択することだと思います。 兄弟姉妹の言葉は、家庭の未来の言葉になる 兄弟姉妹は、親より長く一緒に生きていく可能性があります。子どもの頃、兄弟同士でどの言語を使っていたか、大人になったとき、どの言語で話すのか、そしてその先、自分たちの子どもに何語を伝えるのか。 家庭言語は、親から子へ一方向に受け継がれるものではありません。兄弟姉妹の間でも作られていきます。 だから私は、教室におこしになるご家庭に、「お子さまに何語で話しかけていますか?」だけではなく、「お子さまたちは、兄弟姉妹で何語を話していますか?」を伺うようにしています。 そこには、家庭の日本語環境を考えるうえで、とても重要なヒントが隠れているかもしれません。 参考資料 Pagé & Noels (2024), Family language policy retention across generations: childhood language policies, multilingualism experiences, and future language policies in multilingual emerging Canadian adults Slavkov (2017), Family language policy and school language choice: pathways to bilingualism and multilingualism in a Canadian context Said & Zhu (2019), Children’s agency in language use and socialisation, International Journal of Bilingualism Barron-Hauwaert (2011), Bilingual Siblings: Language Use in Families

母語での読書は、なぜ海外の子どもに必要なのか

2026.09.01

母語での読書は、なぜ海外の子どもに必要なのか

日本語を「維持する」ためではなく、日本語で考える力を成長させるために 前回の記事では、海外で失われやすい日本語は漢字だけではない、という話を書きました。 「ちょろちょろ」と「ざぶざぶ」。 「悲しい」と「切ない」。 「見る」と「見つめる」。 日本で生活していれば、子どもたちは学校だけでなく、友達、先生、祖父母、テレビ、街の中の会話などから、実にさまざまな日本語を吸収していきます。しかし海外で生活すると、その環境が大きく変わります。 家庭では日本語を話している。 日本のYouTubeも見ている。 祖父母とも日本語で話している。 だから、日本語は大丈夫。 そう見えるお子さまでも、年齢が上がるにつれて日本語の語彙や読解力に差が出てくることがあります。では、日本に住んでいない子どもに、どうすれば年齢相応の日本語を与え続けることができるのでしょうか。 その一つの大きな答えが、読書です。ただし私は、読書を 「漢字を覚えるため」 「国語の成績を上げるため」 「日本語を忘れないため」 だけのものだとは考えていません。 海外で育つ子どもにとって読書には、もっと重要な役割があります。それは、日本語で考える力そのものを、本人の年齢と一緒に成長させ続けることです。 家庭で話す日本語には、どうしても限界がある 海外在住のご家庭から、「家ではずっと日本語なので、日本語には毎日触れています」というお話をよく聞きます。もちろん、これはとても重要なことです。 家庭で日本語を使わなくなれば、日本語への接触量はさらに少なくなります。ただ、少し別の角度から考えてみましょう。昨日一日、家庭でどんな会話をしたでしょうか。 「朝ごはん食べる?」 「今日何時に帰ってくる?」 「宿題やった?」 「学校どうだった?」 「早くお風呂に入って」 「明日の準備した?」 もちろん、これだけではありません。でも家庭での会話の多くは、生活を成立させるための会話です。しかも親子ですから、すべてを言葉で説明しなくても通じます。 子どもが、「今日さ、あの子がまたあれやって、それで先生に怒られてた」と言えば、親は普段の学校の話を知っているので、「ああ、○○君のことね」と理解できます。 しかし、文章ではそうはいきません。書き手は読み手のことを知りません。読み手も書き手の状況を知りません。だから文章では、 誰が、 どこで、 何をして、 なぜそうなり、 何を感じ、 何が起こったのか、 言葉を使って構築する必要があります。つまり、読書をするということは、家庭内の「分かり合っている人同士の日本語」とは違う種類の日本語に触れることでもあります。 本の中には、家庭で使わない言葉が大量に出てくる 例えば、小学生向けの物語を読んでいると、 「ためらう」 「見当をつける」 「気配を感じる」 「呆れる」 「気まずい」 「意地を張る」 「納得する」 「戸惑う」 「慎重に」 「思いがけず」 といった言葉が普通に出てきます。これらを、家庭で毎日のように使っているでしょうか。おそらく、それほど頻繁には使いません。 さらに年齢が上がれば、 「主張」 「根拠」 「傾向」 「背景」 「影響」 「対照的」 「一方で」 「つまり」 「必ずしも」 「~にもかかわらず」 といった、説明や論理を組み立てるための言葉も増えていきます。こうした言葉は、日常会話だけではなかなか大量に入ってきません。しかし、本を読めば何度も出会います。 そして大切なのは、言葉を単独ではなく、文脈の中で出会えることです。 読書では、知らない言葉を「前後から考える」 例えば本の中に、「おっこは一瞬ためらったが、思い切って扉を開けた」という文章があったとします。「ためらう」という言葉を知らなくても、 「一瞬」 「しかし」 「思い切って扉を開けた」 という前後の情報から、「すぐには行動できなかったのかな」、「やろうか、やめようか迷った感じかな」と推測できます。これが読書の非常に重要なところです。 知らない言葉が出る。 前後を読む。 意味を予想する。 読み進める。 別の本で、またその言葉に出会う。 少しずつ意味がはっきりしてくる。 こうして語彙は増えていきます。 読書中に未知語の意味を偶発的に学習できることは、以前から研究でも確認されています。20の実験研究をまとめたメタ分析でも、通常の読書の中で未知語の一部が学習されることが示されています。もちろん、一度目にしただけですべて覚えるわけではなく、複数回・複数の文脈で出会うことが重要です。 語彙が増えると、文章が読める。文章が読めると、さらに語彙が増える 読書には、ある意味で「好循環」があります。 知っている言葉が多い子どもほど、文章を理解しやすくなります。 文章を理解できると、本を読むことが苦痛ではなくなります。 本を読む量が増えると、さらに知らない言葉に出会います。 その言葉を覚えることで、さらに難しい文章が読めるようになります。 逆も起こります。 知らない言葉が多すぎる。 文章が分からない。 読んでも面白くない。 だから読まない。 読まないので、語彙が増えない。 ますます同年代向けの本が難しくなる。 この差は、低学年では小さく見えても、何年も続けば大きくなっていきます。 読書への接触量と、語彙・読解力・読み書き能力には関連があることが、多くの研究で報告されています。乳幼児から大学生までの99研究、7,669人を対象にしたメタ分析でも、読書への接触量と読解力・読み書き能力の間に中程度から強い関連が確認されています。研究者は、読めるから読む、読むからさらに読めるようになる、という相互的な「上向きの循環」を指摘しています。 海外で育つ子どもには、この循環が日本語で起こりにくい 日本で暮らしている子どもなら、日本語を読まない日でも大量の日本語に囲まれています。 学校のプリント 教科書 駅の看板 テレビ 図書館 商品パッケージ 友達からのメッセージ 先生が黒板に書く文章 社会科の資料 理科の問題 つまり、本人が「今日は読書をしよう」と思わなくても、日本語の文字を大量に目にします。海外では、この環境がありません。 学校の教科書は英語 先生からのメールも英語 道路標識も英語や現地語 図書館へ行っても英語 友達とのチャットも英語 インターネット検索も英語 日本語を家庭で話していたとしても、「日本語を読む量」は圧倒的に少なくなります。ここがとても重要です。会話を続けていれば、日本語が完全になくなるわけではありません。しかし、話せる日本語と、読める日本語の差が少しずつ広がっていくことがあります。 「日本語は話せるのに、日本語の本を読めない」 海外で育つお子さまには、こんなことがあります。 日本語で普通に会話している。 日本のアニメも理解している。 日本の祖父母とも問題なく話している。 ところが、日本の同年代向けの本を渡すと、 「難しい」 「意味が分からない」 「読みたくない」 となる。 親から見ると不思議です。「こんなに日本語を話せるのに、なぜ?」でも、これは不思議ではありません。会話では、表情があり、声のトーンがあり、ジェスチャーがあり、聞き返すこともできます。相手が言い換えてくれることもあります。多少聞き逃しても、会話は続きます。文章には、それがありません。 文字だけから誰が何をしているのか、言葉の意味は何か、前の段落とどうつながっているのか、筆者が何を言いたいのかを自分で組み立てなければなりません。 つまり読書には、会話とは違う種類の日本語力が必要なのです。 読書は、語彙だけを増やしているわけではない 私は読書の価値を、「語彙が増える」だけで説明するのも不十分だと思っています。本を読むと、文章の構造にも繰り返し触れます。 「なぜなら」 「ところが」 「一方で」 「そのため」 「つまり」 「例えば」 「にもかかわらず」 こうした言葉を理解すると、文章の中で、 何が原因なのか。 何が結果なのか。 どこから反対意見なのか。 どれが具体例なのか。 何をまとめているのか。 が見えるようになります。以前の記事で、小学校高学年から中学生にかけて、「原因と結果」、「意見と根拠」、「具体と抽象」、といった関係を理解することが重要になるという話を書きました。こうした思考を支えているのも、言葉です。 読書をするということは、単にストーリーを楽しむだけではなく、他人がどのように情報を整理し、考えを組み立て、それを言葉にしているのかを大量に見ることでもあります。読解力についてNational Reading Panelも、語彙は読解に重要な役割を持ち、読解は読み手が文章と能動的に関わる複雑な認知過程だと整理しています。 物語を読むことにも、大きな意味がある 「思考力を伸ばすなら、説明文や論説文を読ませた方がいいのでは?」と思うかもしれません。もちろん、それらも大切です。でも、物語にも非常に重要な役割があります。物語を読むと、 主人公は何を考えているのか。 なぜこんな行動をしたのか。 この人は本当は怒っているのか、悲しいのか。 なぜ二人はすれ違っているのか。 次に何が起こりそうなのか。 自分だったらどうするのか。 といったことを考えます。しかも、物語には自分の家庭にはいない人が登場します。 自分とは違う年齢。 違う性格。 違う家族。 違う時代。 違う価値観。 違う境遇。 一冊の本を読むということは、自分とは違う人間の頭の中を想像でふくらませながら、日本語で追体験することでもあります。海外で暮らしている子どもにとって、これは特に大きな意味があります。家庭内だけでは出会えない日本語と、家庭内だけでは出会えない考え方を、同時に経験できるからです。 日本語を継承する子どもの研究でも「Literacy」が重要な要素として出てくる 前回も紹介した、日本語を継承語として育てている427人を対象とした研究があります。この研究では、日本語環境で育つ子どもと比較しながら、何が継承語としての日本語発達の個人差と関係しているのかを分析しています。 その中で、家庭での日本語だけではなく、学校、地域社会、日本への滞在、そして、読書・作文・宿題などの日本語によるLiteracy活動が独立した言語経験の要素として分析されています。研究では、日本への滞在経験が語彙得点を予測し、日本への滞在とLiteracyの双方が、より広い意味での日本語能力を予測していました。これは、海外で日本語を育てるうえで、とても示唆的だと思います。 単に、「家庭で日本語を話しているか」だけではない。日本語を使って読んだり、書いたりする経験があるか。そこまで考える必要があるということです。 ただし、「本を渡しておけばいい」わけでもない ここは、とても大切です。「読書が重要」と書くと、では日本から本をたくさん買って、「毎日30分読みなさい」と言えばいいのか。という話になります。私は、そうは思いません。 読書研究でも、単に子どもに自主的な黙読を大量にさせれば、それだけで必ず読解力が上がる、と単純に因果関係を言えるわけではありません。 National Reading Panelも、独立した黙読だけを読書指導として用いることについては、十分な因果的エビデンスがないとして慎重な評価をしています。一方で、語彙指導、文章理解の方略、ガイド付きの音読などについては効果を示す研究があります。 つまり、読書は魔法ではありません。本人がほとんど理解できない本を与えて、「とにかく読みなさい」と言っても、効果的とは限りません。むしろ本嫌いになる可能性があります。 大切なのは「少しだけ難しい本」を読むこと 海外で日本語の読書を続けるうえで、私が特に重要だと思うのは、その子に合った本を選ぶことです。 簡単すぎる本では、新しい言葉にあまり出会いません。難しすぎる本では、分からない言葉だらけになり、内容を楽しめません。 大部分は理解できる。 でも、ときどき知らない言葉が出てくる。 前後を読めば、何となく意味を予想できる。 ストーリーの続きが気になるので、そのまま読みたくなる。 このくらいの負荷が理想的です。 そして、分からない言葉が出るたびに読書を止めて辞書を引かせる必要もありません。 重要な言葉なら一緒に考える。 前後から予想させる。 何度も出てきたら確認する。 場合によっては、そのまま読み進める。 読書を、「知らない言葉を全部覚える作業」にしないことも大切です。 音読や読み聞かせは、何歳まで? 「もう小学5年生なので、読み聞かせは卒業ですよね」と聞かれることがあります。必ずしもそうではないと感じます。自分一人では読むのが難しい本でも、大人が読めば理解できることがあります。つまり、読む力より、聞いて理解する力の方が高い時期があります。 特に海外で育ち、会話の日本語は比較的強いけれど、漢字や日本語を読むことには慣れていない子どもには、大人が読んであげる、交代で読む、オーディオブックを使う、音声を聞きながら文字を追うという方法も使えます。 ただし、日本語の文字を読む力を伸ばしたいのであれば、音声だけで終わらせず、少しずつ実際の文章にも触れることが重要です。 「読んだ後に問題を解く」ことだけが読解ではない 日本の国語教育というと、文章を読んで、問題を解いて、答え合わせをするというイメージを持つ方も多いと思います。 もちろん読解問題にも役割があります。でも家庭での読書なら、もっと自由でいいと思います。例えば、 「どの人が一番好き?」 「なんでこの子、こんなこと言ったと思う?」 「このあと、どうなると思う?」 「もし自分だったらどうする?」 「この人、本当は怒ってるのかな?」 「今日出てきた『気まずい』って、どういう感じ?」 こんな会話で十分です。大切なのは正解することではなく、本の中で起きていることを、日本語で考え、想像をふくらませ、日本語で説明すること。です。これを続けていくと、読書が単なるインプットではなく、 読む。 考える。 話す。 言葉を知る。 また読む。 という循環になります。 幼児期の研究ではありますが、子どもを会話に参加させながら本を読む「dialogic reading」は、通常の読み聞かせと比べて表出語彙の発達にプラスの効果を示したメタ分析もあります。 「日本語と英語、両方読ませなければ」と考えすぎなくてもいい 海外のご家庭には、もう一つ時間という大きな悩みがあります。 学校の宿題は英語。 英語の本も読まなければならない。 日本語の漢字もある。 日本語の本も読ませたい。 サッカークラブもある。 ピアノもある。 チェスも始めたい。 お友だちとのスリープオーバーもある。 全部やろうとすると、子どもも親も疲れてしまいます。ここで一度考えたいのは、最終的に何を目指しているのかではないでしょうか。 私は、まず一つの言語であっても、年齢相応の本を読み、複雑なことを理解し、考え、説明できる力を育てることが非常に重要だと思っています。 英語でも日本語でも、簡単な文章しか読まない状態にするより、一つの言語でしっかり深く読める状態をつくる。その上で、もう一つの言語もできる限り育てていく。家庭の進路や帰国予定によって、どちらにどれだけ時間を使うかは変わります。 ただし、将来日本へ帰国する可能性があるのであれば、日本語の読書を何年間も完全に止めてしまうことには慎重であってほしいと思います。会話だけでは、後から「読むための日本語」を取り戻すのに大きな負荷がかかることがあるからです。 日本語の読書は「国語の勉強」ではない 海外にいると、日本語の本を読むことが、「日本語の勉強」になってしまいがちです。でも日本に住んでいる子どもにとって、読書は必ずしも「国語の勉強」ではありません。 面白いから読む。 続きが知りたいから読む。 好きなキャラクターがいるから読む。 怖い話が好きだから読む。 恐竜について知りたいから読む。 スポーツ選手について知りたいから読む。 海外にいる子どもにも、できるだけこの状態を作ってあげたいと思います。「日本語維持のために読ませる」だけになってしまうと、本人にとって読書は義務になります。 でも、本の内容そのものが面白いから、結果として日本語を大量に読む。この状態が作れれば、とても強いです。そのためには親が読ませたい本ではなく、本人が読みたい本を見つけることも非常に重要です。 物語でなくても構いません。スポーツや動物、伝記やミステリーなど、本人が日本語でページをめくりたくなるものから始めればいいと思います。 海外での読書は、日本語環境を「人工的につくる」こと 日本にいれば、日本語は勝手に周りから入ってきます。海外では、それをある程度意識的につくらなければなりません。読書は、そのための非常に効率的な方法です。一冊の本を開けば、 知らない人が話しています。 知らない場所があります。 知らない感情があります。 知らない出来事があります。 知らない言葉があります。 そして、それらすべてを日本語で経験できます。 つまり読書は、海外の日常では足りなくなった日本語環境を、本の中につくることでもあります。だから私は、海外で日本語を育てるうえで、「漢字を何文字覚えたか」だけではなく、「今、この子は日本語で何を読んでいるだろう?」ということを、とても重要な指標だと考えています。 子どもの年齢が上がるなら、読む日本語も一緒に成長させる 以前の記事でも書きましたが、小学2年生で身につけた日本語を、そのまま維持するだけでは小学6年生の日本語にはなりません。同じように、小学2年生向けの本を読み続けているだけでは、12歳、15歳になったときに必要な日本語にはなかなか届きません。 子どもが成長する、興味が変わる、考えることが複雑になる、それに合わせて、絵本から児童書へ、物語から説明文へと、読んでいる文章も少しずつ変えていく必要があります。 そして、ニュース、伝記、歴史、科学、意見文へ展開していくことにより、本人の成長と一緒に、読む日本語の世界も広げていく。これが海外での日本語教育において、とても重要だと思います。 「日本語を忘れないため」から、「日本語で成長するため」へ 海外在住のご家庭では、「日本語を忘れさせたくない」という言葉をよく聞きます。もちろん、それは大切です。でも私は、もう一歩先を考えてほしいと思っています。 忘れないだけではなく、8歳なら8歳の日本語、12歳なら12歳の日本語と、日本語も本人と一緒に成長させる。そのために、家庭での会話だけでは得にくい日本語を届ける。読書には、その役割があります。 語彙を増やす。 文章を理解する。 人の気持ちを考える。 原因と結果を追う。 知らない世界を知る。 自分と違う価値観に出会う。 そして、それについて日本語で考える。 だから、母語での読書は、日本語維持のためだけにするものではありません。子どもが年齢相応に考えるための言葉を育て続ける。そのための土台なのだと思います。 海外で日本語を育てるなら、「今日は漢字を何文字覚えた?」だけではなく、時々こう聞いてみてください。 「最近、日本語でどんな本を読んでいる?」そこから見えてくるものは、意外に大きいと思います。 参考資料 Kubota et al. (2025), Modeling individual differences in vocabulary development: A large-scale study on Japanese heritage speakers, Child Development Mol & Bus (2011), To Read or Not to Read: A Meta-Analysis of Print Exposure From Infancy to Early Adulthood, Psychological Bulletin Swanborn & de Glopper (1999), Incidental Word Learning While Reading: A Meta-Analysis, Review of Educational Research National Reading Panel (2000), Teaching Children to Read, National Institute of Child Health and Human Development Mol et al. (2008), Added Value of Dialogic Parent–Child Book Readings: A Meta-Analysis, Early Education and Development