在外のお子さまの日本語|「話せる」と「読める・書ける」は別の力
September 9, 2026
目次
- 1. 会話が流暢だからこそ読み書きの遅れは見えにくい、という現実
- 2. 「日本語力」を一つの能力として考えない
- 3. なぜ「話す」はできるのに、「読む・書く」は難しいのか
- 4. 文字は、会話しているだけでは自然には身につかない
- 5. ひらがな・カタカナが書けないことを、責めるべきではない
- 6. 日本語入力ができることと、日本語を書けることも少し違う
- 7. 「書く」は、文字を書くことだけではない
- 8. 会話なら、相手が助けてくれる
- 9. 読めないと、「知っている日本語」が増えにくくなる
- 10. 読むことが、書くことにもつながる
- 11. 「うちの子は日本語を話せるから大丈夫」が危険なのではない
- 12. 将来、日本語をどこで使うのかを考えてほしい
- 13. 漢字だけに焦点を当てすぎない
- 14. 読み書きも、いきなり100点を目指さなくていい
- 15. 読み書きができると、日本語の世界を自分で広げられる
- 16. 「日本語は大丈夫」の中身を、一度分解してみる
- 16-1 参考資料
会話が流暢だからこそ読み書きの遅れは見えにくい、という現実
海外で育つ子どもたちの日本語を見ていると、とても興味深いことがあります。
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日本語で普通に話している。
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冗談も言える。
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親が言っていることも理解している。
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日本のアニメも楽しんでいる。
だから保護者から見ると、「うちの子は日本語は大丈夫」に見えます。ところが、実際に日本語の文章を読んでもらうと、少し様子が変わることがあります。
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漢字が読めない。
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文章になると読む速度が急に落ちる。
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一文ずつは読めても、全体として何が書いてあるのか分からない。
そして、「じゃあ、これについて自分の考えを書いてみて」と言うと、さらに難しくなる。
教室では、小学校高学年、ときには中学生になっていても、ひらがなやカタカナを書くことにかなり苦労するお子さまに出会うこともあります。でも、本人と日本語で話しているだけでは、そのことに気づかないことがあります。なぜなら、話す日本語はかなり流暢だからです。ここに、海外での日本語教育の非常に見えにくい落とし穴があります。
「日本語力」を一つの能力として考えない
私たちはつい、「この子は日本語ができる」もしくは「日本語が弱い」と、一つの能力のように考えてしまいます。でも、実際には日本語にはさまざまな力があります。
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聞く
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話す
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読む
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書く
さらに読む中にも、
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文字が読める
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単語の意味が分かる
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文章の内容を理解する
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筆者の意図を読み取る
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複数の情報を関連づける
といった違う力があります。書くことも同じです。
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ひらがなを書く
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漢字を書く
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文章を作る
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出来事を順序立てて説明する
-
理由を書く
-
自分の意見と根拠を構造化する
これらは全部同じ能力ではありません。
日本語を継承語として育てる子ども427人を対象とした2025年の研究でも、日本語能力を調べる際には、話す・理解する・読む・書くがそれぞれ別の項目として評価されています。また、読書・作文・宿題などのLiteracy活動が独立した言語経験として分析され、日本語能力との関連が示されています。
つまり、日本語を話せることと、日本語を読んだり書いたりできることは、分けて考える必要があるのです。
なぜ「話す」はできるのに、「読む・書く」は難しいのか
考えてみると、これはそれほど不思議なことではありません。子どもは、日本語の会話を毎日家庭で使っているかもしれません。朝起きて、「おはよう」、「早く着替えて」、「今日何時に帰ってくる?」。学校から帰れば、「今日どうだった?」、「お腹すいた」、「宿題終わった?」こうした日本語を何年も使っています。
でも、
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ひらがなを毎日読んでいるでしょうか?
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カタカナを書いているでしょうか?
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日本語の長い文章を読んでいるでしょうか?
-
日本語で作文を書いているでしょうか。
インター校や現地校へ通っていれば、学校で毎日行っている読み書きは英語やオランダ語です。つまり、話す日本語には毎日練習する機会があるのに、読む・書く日本語にはほとんど練習する機会がないという状態が起こります。
そう考えれば、会話力と読み書きに差が生まれること自体は、むしろ自然です。継承語話者は、教育を受ける多数派言語では読み書きを身につけやすい一方、継承語では聞く・話す能力と読み書き能力に大きな個人差が生じることが知られています。研究レビューでも、継承語話者の能力は聞く・話す・読む・書くの各領域で一様ではないことが指摘されています。
文字は、会話しているだけでは自然には身につかない
ここは非常に重要です。日本語をたくさん聞いていれば、ある程度日本語を話せるようになります。でも、「ありがとう」と何千回聞いていても、それだけで自然に「あ・り・が・と・う」と書けるようになるわけではありません。まして、「ありがとうございます」と、「有り難うございます」の違いを自然に理解するわけでもありません。
文字は、文字を見て、音と結びつけ、読んで、書いて、何度も使うことで身についていきます。日本で育つ子どもには、この機会が身のまわりに溢れています。幼稚園の名札や絵本、街中の看板、テレビの字幕、学校のプリント、教科書、黒板、宿題などなど、列挙し出すと切りがありません。
日本語が生活の中に文字として存在しています。海外で生活すると、この「文字としての日本語」が一気に限定されてしまいます。家庭で日本語を話していたとしても、日本語を文字として目にする量は、日本で生活する子どもとは全く違うのです。
ひらがな・カタカナが書けないことを、責めるべきではない
教室で、小学校高学年や中学生でも、ひらがな・カタカナの書字に苦労するお子さまを見ることがあります。例えば、「ぬ」と「め」が混乱する、「シ」と「ツ」が分からない、促音の「っ」をどこに入れるのか分からない、長音をどう書くのか迷う、文章のどの部分がカタカナになるのか判らない、言葉は知っているのに文字にできない。
でも、私はこれを、「中学生なのに、こんなことも書けない」と考えるべきではないと思っています。本人は、学校で英語やオランダ語を使って毎日勉強しています。そちらの言語ではEssayを書き、Presentationをし、難しい内容を理解しているかもしれません。
単に、日本語を書く経験が圧倒的に少なかっただけかもしれません。書くという能力は、話す能力とは別に練習する必要があります。
日本で育つ子どもについての研究でも、ひらがなの読みの力と、その後のひらがな・漢字の読み書き能力には関連があり、読み書きの技能が段階的に発達していくことが示されています。
ですから、「話せるのになぜ書けないの?」ではなく、「これまで書く機会がどのくらいあっただろう?」と考えた方がよいと思います。
日本語入力ができることと、日本語を書けることも少し違う
最近はもう一つ、興味深いことがあります。スマートフォンなら日本語で文章を打てる。LINEなら日本語でメッセージできる。でも、「紙に書いてみて」と言うと書けない。ということがあります。
スマートフォンなら、「きょうはがっこうにいきました」と入力すれば、「今日は学校に行きました」と変換してくれます。「学校」という漢字を書けなくても、読むことさえできれば選べます。これは悪いことではありません。現代社会では、手書きよりタイピングする機会の方が多いでしょう。ですから、「漢字を手で全部書けなければ日本語ができない」とも思いません。
ただし、入力できること、読めること、手で書けること、文章を構成できることは、それぞれ違う能力だということは理解しておく必要があります。
重要なのは、「学校」という漢字を手書きできるかだけではありません。「今日学校であった出来事を、知らない人にも分かるように説明してください」と言われたときに、日本語で文章を組み立てられるか。私は、こちらの方がより重要だと思っています。
「書く」は、文字を書くことだけではない
「日本語を書く力」というと、漢字を書けるかどうかに目が行きがちです。でも、高学年以降になると本当に必要になるのは、考えを文章にする力です。
例えば、「私はこの意見に賛成です」までは書ける。では、「なぜですか?」と聞かれたらどうでしょう。「なぜなら……」と理由を書く。さらに、「具体例を挙げてください」と言われる。そして、「反対の立場の人はどう考えるでしょうか」まで考える。こうなると、単に漢字を知っているだけでは書けません。
頭の中にある考えを、順序立て、必要な情報を選び、相手に伝わるように文章として構成する必要があります。
書くというのは、思考を言葉として外に出し、構造化する作業でもあります。
会話なら、相手が助けてくれる
書くことが難しいもう一つの理由があります。会話では、相手がいます。子どもが、「今日ね、学校であの子がさ、またあれやって……」と言えば、親が、「○○君?」と聞いてくれます。
「うん。それで先生が……」
「怒ったの?」
「そうそう」
と、相手が会話を補ってくれます。表情もあります。ジェスチャーもあります。分からなければ聞き返してもらえます。
でも文章では、相手は横にいません。「あの子」と言われても分かりません。「あれ」では伝わりません。書き手自身が、
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誰のことなのか
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何が起こったのか
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なぜ起こったのか
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どう感じたのか
を説明する必要があります。
つまり書くことによって、「自分は分かっている」から「相手にも分かるように説明する」へ思考を変える必要があります。この力は、自然な家庭会話だけでは必ずしも十分に練習できません。
読めないと、「知っている日本語」が増えにくくなる
読み書きの中でも、私はまず「読むこと」が非常に重要だと思っています。なぜなら、読めるようになると、自分で日本語を増やせるようになるからです。
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本を読む
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ニュースを読む
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インターネットで調べる
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漫画を読む
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字幕を読む
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説明書を読む
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日本語で検索する
誰かに日本語を教えてもらわなくても、文字を通じて、自分で新しい日本語を取りに行けるようになります。
逆に、日本語を話せても日本語を読むことが苦手だと、日本語のインプットは人との会話に依存します。家庭で使われている言葉から先へ進みにくくなります。
前回までの記事で何度も取り上げてきた日本語継承語話者427人の研究でも、読書・作文・宿題などの日本語Literacy活動が、日本語能力に関係する重要な要素として示されています。
読むことが、書くことにもつながる
ここも重要です。文章を書けるようにするため、「作文をたくさん書かせよう」と考えることがあります。もちろん書く練習は必要です。でも、書く前に、良い日本語をたくさん読むことも非常に重要です。
文章を読めば、「こういうときは『しかし』を使うんだ」、「理由を書くときは『なぜなら』なんだ」、「話が変わると段落が変わるんだ」、「こうやって人物の気持ちを表現するんだ」といった文章の型を、少しずつ取り込んでいきます。
2026年に発表された、9~15歳のバイリンガル児童の継承語としての英語の書く力を3年間追跡した研究でも、家庭での読書習慣がwritingの発達を支える重要な要素として報告されています。特に高いwriting能力を持つ子どもには、自主的な読書や継続的な家庭での読書経験が多く見られました。
対象言語は英語ですから、その結果をそのまま日本語へ当てはめることはできません。ただ、継承語の読み書きは、家庭でその言語を話しているだけで自動的に育つものではなく、文字に触れる活動が重要であるという点は、日本語教育を考えるうえでも非常に示唆的です。
「うちの子は日本語を話せるから大丈夫」が危険なのではない
ここで誤解してほしくないことがあります。私は、「日本語を話せても読み書きできなければ意味がない」と言いたいわけではありません。会話できること自体、とても大きな力です。家庭によって、日本語をどこまで育てたいのかという目標も違います。海外に永住し、日本語は家族との会話ができれば十分、と考える家庭もあるでしょう。それも一つの選択です。
問題は、「話せるから、読み書きも必要になればすぐできるだろう」と錯覚してしまうことです。
話す力があることは大きな土台になります。でも、読む・書くためには、文字に触れ、読んで、書く経験が必ず必要なのです。
将来、日本語をどこで使うのかを考えてほしい
では、日本語の読み書きをどこまで続けるべきなのでしょうか。これは、すべての家庭に同じ答えはありません。重要なのは、その子が将来、日本語をどのように使う可能性があるのかを考えることだと思います。
例えば、
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日本へ帰国する可能性がある。
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日本の中学・高校・大学へ進学する可能性がある。
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日本で働く可能性がある。
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日本の親族との関係を持ち続けたい。
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将来、自分の子どもにも日本語を伝えたい。
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日本の本やニュースを自分で読めるようにしたい。
そうした可能性が少しでもあるのであれば、「会話ができるから十分」で止めず、日本語を文字でも扱える状態を残しておくことには大きな意味があります。
反対に家庭として、「今後の教育・生活はすべて現地語で、日本語は家族との会話ができれば十分」と考えるのであれば、それも明確な教育方針です。
大切なのは、「気づかないうちに読み書きがなくなっていた」、ではなく、どのレベルの日本語を残すかを、家庭として意識的に選ぶことなのです。
漢字だけに焦点を当てすぎない
日本語の読み書きについて話すと、どうしても、「漢字を何文字覚えていますか?」という話になります。もちろん漢字は大切です。でも、漢字ドリルだけやっていても、読解力や文章力が自然に育つとは限りません。
例えば、「原因」という漢字を書ける。でも、「原因と結果の関係を説明してください」と言われたときに答えられない。それでは十分ではありません。逆に漢字を書くのは苦手でも、文章を読み、内容を理解し、自分の考えを日本語で説明できる。こちらには大きな力があります。
だから私は、日本語の読み書きを、「漢字が書けるか」だけで測らない方がいいと思っています。見るべきなのは、
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文章を読めるか
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意味を理解できるか
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知らない言葉を前後から考えられるか
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自分の考えを文章にできるか
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相手に分かるように説明できるか
という、もう少し広いLiteracyの力です。
読み書きも、いきなり100点を目指さなくていい
前回の記事でも書きましたが、日本語教育は0か100かで考える必要はありません。日本の学校と同じ量の漢字を毎日やる必要はないかもしれません。でも、週に一冊、日本語の本を読む、短い日記を書く、日本語でゲームをするなどの経験でも日本語を文字として使う回路を残すことができます。
大切なのは、日本語が「家族と話すための音」だけにならず、自分で情報を得て、自分の考えを伝えるための文字でもあり続けることだと思います。
読み書きができると、日本語の世界を自分で広げられる
私が、海外の子どもに日本語の読み書きを残してほしいと思う最大の理由は、漢字テストでいい点を取るためではありません。日本へ帰国したとき困らないためだけでもありません。
読み書きができれば、本人が親を介さずに、日本語の世界へアクセスできるからです。
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自分で本を選ぶ
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自分で検索する
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ニュースを読む
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好きなアーティストの記事を読む
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日本の人とメッセージする
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大学について調べる
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仕事を探す
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契約書を読む
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そして自分の考えを文章で伝える
そのとき日本語は、「親から受け継いだ家庭の言葉」から、「自分自身が使える言語」へ変わります。私は、これが読み書きの大きな意味だと思っています。
「日本語は大丈夫」の中身を、一度分解してみる
お子さまが日本語で流暢に話していることは、とても大切な力です。でも、一度だけ、「日本語は大丈夫」という言葉を分解してみてください。
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日本語を聞いて理解できる?
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日本語で日常会話ができる?
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知らない人にも出来事を説明できる?
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ひらがな・カタカナを読める?
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書ける?
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同年代向けの本を読める?
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説明文を理解できる?
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自分の考えを文章にできる?
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理由や根拠を書ける?
全部できる必要はありません。家庭によって目標は違います。でも、どこまでできていて、どこから難しいのかを知っていることは、とても大切です。海外で育つ子どもの日本語は、「できる」「できない」の二択ではありません。読む、聞く、話す、書く力はそれぞれが違う速度で育ちます。
だから、「日本語を話しているから大丈夫」ではなく、「この子の日本語は、今どんな形で育っているだろう?」と見てみて、そこから、その家庭に本当に必要な日本語教育が見えてくるのではないかと思います。
参考資料
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Kubota, M. & Rothman, J. (2025), Modeling individual differences in vocabulary development: A large-scale study on Japanese heritage speakers, Child Development, 96(1), 325–340.
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Nakamura, J. (2026), English as a Heritage Language in Japan: Writing Development From Late Childhood to Adolescence, Reading Research Quarterly.
-
花房香(2020)「読み書き能力の発達―就学前から小学2年生までの追跡研究―」
-
Takahashi, N. & Nakamura, T. (2015), Abilities needed by Japanese children to write kanji: Development of the ATLAN Kakitori subtest, The Japanese Journal of Psychology.
