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「日本語は来年から」で、本当に間に合う?海外在住のお子さまの日本語教育で見落とされやすい「時間」の問題

September 6, 2026

「日本語は来年から」で、本当に間に合う?海外在住のお子さまの日本語教育で見落とされやすい「時間」の問題

日本語教室へのお問い合わせをいただいたご家庭とお話ししていると、時々こんなお話を伺います。

  • 「日本語は大切だと思っているのですが、今は習い事が忙しくて……」

  • 「今年は学校に慣れることを優先したいので、日本語は来年から考えようと思っています」

  • 「もう少し落ち着いたら、補習校か日本語教室を始めようと思っています」

その判断自体が間違っているとは思いません。海外で暮らす子どもたちは忙しいです。英語や現地語の学習、サッカーやピアノの習い事、オランダではチェスも人気がありますし、お友だちとのスリープオーバー(お泊まり会)もあります。

すべてをやらせることはできません。家庭ごとに優先順位が違うのも当然です。ですから、「今すぐ日本語教室へ通わせるべきです」という話をしたいわけではありません。

でも大切なのは、私の教室でなくとも、補習校やオンラインの教室などに通い、日本語を年齢と一緒に成長させる機会を、完全に止めないことだと思っています。

なぜなら、子どもの日本語には、大人の習い事とは少し違う「時間」の問題があるからです。


1年間休んでも、元の場所で待っていてくれるわけではない

例えば、大人がピアノを習っているとします。1年間忙しくなり、ピアノを休む。翌年再開したとき、多少忘れていることはあっても、基本的には自分が以前いたところから再スタートできます。ピアノそのものが、この1年間で小学4年生から小学5年生になったりはしません。

でも、子どもの日本語は違います。小学3年生で日本語学習を止めたとします。1年後、本人は小学4年生になります。当然、比較対象になる日本の子どもたちも小学4年生です。その間、日本の学校にいる子どもたちは、新しい漢字を覚え、新しい語彙を学び、より長い文章を読み、説明文を読み、理由を説明し、文章を書き、理科や社会を日本語で学んでいます。

つまり、こちらが止まっている間も、「年齢相応の日本語」の方は先へ進んでいます。ここが非常に重要です。

日本語学習を1年間休んだからといって、必ず日本語能力そのものが大きく低下するとは限りません。家庭で日本語を話していれば、日常会話はむしろ上達することもあります。

でも、本人の日本語が以前と同じくらいに保たれていても、同年代との距離は広がる可能性があります。

「落ちる」というより、「伸びる速度が違う」と考えた方が近いかもしれません。


小学3年生の日本語のまま、小学4年生になる

以前の記事でも書きましたが、小学3年生で話せる日本語は、小学3年生としては十分な日本語かもしれません。でも、それをそのまま小学6年生まで維持しても、小学6年生相当の日本語にはなりません。子どもの成長とともに必要な言葉が変わるからです。

低学年なら、「どっちが違う?」「何が先だった?」「どうして?」くらいだったものが、学年が上がるにつれて、「その理由は?」「具体例を挙げて」「二つを比較すると?」「原因は何だと思う?」「この資料から何が分かる?」「筆者の主張は?」「その意見の根拠は?」となっていきます。

さらに中学生になると、「客観的に考える」、「複数の立場を比較する」、「根拠の妥当性を考える」、「具体例から一般化する」といった、より高度な言語と思考が求められます。

つまり、日本語のゴールポストは毎年動いているのです。


「家では日本語だから、来年からでも大丈夫」

ここでよく出てくるのが、「でも家では日本語を話しているので、一年間くらい大丈夫ですよね」という考えです。

もちろん、家庭で日本語を話していることは大きな意味があります。でも、前回の記事でも書いたように、家庭で使う日本語と、読書や学習で使う日本語は、必ずしも同じではありません。

「今日学校どうだった?」「お腹すいた?」「早く寝なさい」「明日はサッカーだよ」という日本語を毎日使っていても、

  • 「原因」

  • 「傾向」

  • 「根拠」

  • 「対照的」

  • 「影響」

  • 「一方で」

  • 「にもかかわらず」

といった言葉を使う機会は、それほど多くありません。つまり、日常会話の日本語は毎日使っていても、学習に必要な日本語はあまり使っていないという状態が起こり得ます。

そのため、「日本語を話しているから日本語学習は止まっていない」とは、必ずしも言えません。


実際、日本語を継承語として育つ子どもの語彙には差が生まれる

以前の記事でも紹介した、日本語を継承語として育てている子ども427人を対象とした研究があります。2025年に『Child Development』に掲載された研究です。この研究では、日本語を継承語として育つ子どもと、日本語環境で育つ子どもの語彙発達を比較しています。

その結果、グループとして見ると、幼児期には大きな差が見られなかったものの、5歳7か月頃から語彙得点の差が現れ、その差は調査対象となった青年期まで続いていました。もちろん、これは、「海外に住むと5歳7か月から日本語が遅れる」という意味ではありません。この研究の参加者は主に英語圏・ドイツ語圏で育った日本語継承語話者であり、個人差も非常に大きくあります。

むしろ重要なのは、幼い頃には日本語環境で育つ子どもとの差が見えにくくても、年齢が上がるにつれて語彙発達の違いが表面化することがあるという点です。これは、教室で子どもたちを見ている実感とも重なります。


低学年では「大丈夫」に見える

これが、この問題を難しくしています。小学校低学年の年齢では日本語で普通に話している。祖父母とも話せる。日本のアニメも分かる。簡単な本も読める。だから、「日本語は大丈夫そう」に見えます。

そして、「今は英語を優先しよう」「サッカーを続けたい」「ピアノもあるし」「日本語は来年からでもいいかな」となります。

ところが小学5年生、小学6年生になる頃、日本の同年代向けの文章を読ませてみると、

  • 知らない言葉が急に増える。

  • 文章を読む速度が遅い。

  • 説明文になると理解しにくい。

  • 「どういう意味?」と聞かれても説明できない。

ということが起こる場合があります。本人の日本語が突然悪くなったのではありません。周囲の日本語の方が先へ進んだ結果、差が見えるようになってきた可能性があります。


「来年から」が、何年も続く家庭がある

教室を運営していて、少し気になることがあります。「今年は忙しいので、来年から」とお話しされていたご家庭が、翌年になると往々にしてもっと忙しくなっていることです。学年が上がれば、学校の宿題も増えます。スポーツも本格的になります。音楽を続けていれば練習時間も増えます。友人関係も重要になります。Secondary Schoolへ進めば、さらに忙しくなります。

つまり、「来年になれば時間ができる」とは限りません。むしろ、私が教室を通じて見てきた範囲では、学年が上がるにつれて、日本語を新しく生活に入れることの方が難しくなるケースがほとんどです。

小学2年生なら、「土曜日は日本語の本を読む」という習慣を比較的作りやすい。

でも中学1年生になって突然、「今日から毎週日本語を勉強しよう」と言われても、本人にとっては、「なぜ今さら?」となるかもしれません。

時間の問題だけではありません。生活習慣の問題にもなるのです。


一度離れた日本語を「勉強」に戻すのは意外に大変

幼い頃から日本語の本を読むことが日常に入っている子にとって、日本語の読書は、「勉強」ではありません。本を読むだけです。日本語で話すことも、「日本語学習」ではありません。普通に話しているだけです。

でも数年間、日本語で読み書きをほとんどしなかった後で再開すると、日本語は突然、「追加の勉強」になります。

学校では英語やオランダ語で十分勉強している。その後漢字を覚える、日本語の本を読む、作文や感想文を書く

本人からすると、「なぜ?」となります。しかも、その時点では日本語の本が難しくなっています。同年代向けの本は読みにくい。でも簡単な本では内容が幼すぎて面白くない。これは海外で日本語読書を再開するときに、よく起こる問題です。知的な年齢と、日本語で読める本の年齢が合わなくなるのです。

12歳なのに、日本語では7~8歳向けの文章しか楽に読めない。でも12歳の本人は、その内容には興味を持てない。だから読まない。読まないので、さらに読む力が伸びない。こうした循環に入ると、日本語を再開するハードルは一段高くなります。


だから「少しだけ続ける」ことに意味がある

では、海外にいる間、日本の学校と同じだけ国語をやらなければならないのでしょうか。私はそうは思いません。家庭によって目標は違います。日本へ数年後に帰る家庭や海外で高校まで過ごす家庭、永住する家庭など、様々で、それぞれ必要な日本語は違います。

でも、日本語を将来も使える言語として残したいのであれば、ゼロにしないことには大きな意味があると思います。

週に何時間も勉強できなくても、

  • 本を読む

  • 日本語で日記を書く

  • 祖父母に文章を送る

  • 漫画を読む

  • 日本のニュースを一緒に見る

  • 漢字を少し続ける

  • 日本語のオーディオブックを聞きながら文字を追う

  • 補習校へ行く

  • 日本語教室へ通う

何でも構いません。重要なのは、本人の日本語に、新しい言葉と新しい文章が入り続ける状態をつくることです。


「週1回で意味があるの?」という質問

これも時々聞かれます。「週1回、日本語をやるだけで意味がありますか?」もちろん、週1時間だけで日本の学校に毎日通っている子どもと同じ日本語環境を作ることはできません。

でも私は、週1回そのものより、そこから日常へ何がつながるかが重要だと思っています。例えば、一冊の本を読み始めると、面白くなって家でも続きを読み知らない言葉に出会う。次の本を手に取るようになり、そこで覚えた表現を家庭で使うこともあるでしょう。そうなると、日本語との接触は週1時間ではなくなります。

逆に、週1回教室へ行っていても、それ以外の6日間、日本語の文章を全く読まないのであれば、できることには限界があります。ですから、「何時間日本語を習っているか」だけでなく、「日本語が生活の中に残っているか」を見る方が大切だと思います。


読書を続けている子には、違う景色が見えることがある

教室には、幼い頃から海外で育っているにもかかわらず、非常に高い日本語力を持つお子さまもいます。そうしたお子さまたちを見ていると、共通していることがあります。もちろん全員ではありませんが、日本語の本を継続的に読んでいることです。

家庭には日本語の本がたくさんある。日本へ行ったら本を買って帰る。図書館を利用する。本人も読書することに抵抗がない。そして結果として、年齢とともに読んでいる本も少しずつ難しくなっていく。

日本語を継承語として育てる子どもを対象にした2025年の研究でも、日本語での読書・作文・宿題などのLiteracy活動は、日本語の自己・保護者評価による能力と関連していました。また、日本で過ごすなどの集中的な日本語環境は語彙得点とも関連していました。

さらに、米国の15~18歳の日本語継承語話者を対象とした研究では、日本語で楽しみのために読書する頻度が、日本語語彙力を予測する要因の一つになっていました。もちろん、「本を読めば必ず日本語が高くなる」という単純な因果関係ではありません。本が好きだから読む。日本語が得意だから読む。親の働きかけがあるから読む。さまざまな要因が絡みます。

それでも、日本語で読み続けることが、年齢とともに日本語を成長させる重要な環境の一つであるとは言えそうです。


日本語学習は「追いつく」より「離れすぎない」方が楽

私は、この点を保護者の方に一番伝えたいと思っています。日本語教育では、「必要になったら取り戻せばいい」と考えがちです。もちろん、後から伸ばすことはできるでしょう。子どもには大きな学習能力がありますし、日本語環境へ戻ることで急速に伸びるケースもあります。だから、「今やらなければ取り返しがつかない」と不安を煽る必要はありません。

ただ、小学3年生のときに少し離れている状態から戻るのと、中学1年生になって何年分もの読み書きや語彙の差を一度に埋めようとするのとでは、必要な負荷が違います。後者では本人の学校生活も忙しくなり、扱う文章も難しく、必要な漢字も増えています。本人の「日本語を勉強する理由」も必要になります。

だから私は、「後から一気に追いつく」より、「大きく離れないように少しずつ続ける」方が、子どもにとっても家庭にとっても負担が少ないと思っています。


日本語よりサッカーを選ぶ。それも家庭の選択です

ここは大切なので、はっきり書いておきたいと思います。子どもの時間は有限です。サッカーが大好きなら、サッカーを優先する。音楽の才能があるなら、音楽に時間を使う。英語を最優先にする。それも、家庭として十分にあり得る選択です。すべての海外在住の子どもが、日本の同年代と同じ日本語力を持たなければならないとは思いません。

大切なのは、何を選び、何を手放しているのかを理解したうえで選択することだと思います。

「日本語は今やらなくても、必要になったらすぐ戻るだろう」と思って日本語を止めることと、「日本語の読み書きには一定のギャップが生まれる可能性がある。それでも今は他のことを優先する」と理解して選ぶことは違います。後者なら、家庭としての教育方針です。そして、「完全にやめるのではなく、週末に本だけは読もう」という中間の選択もできます。教育には、0か100かしかないわけではありません。


日本語を始める「完璧なタイミング」は、なかなか来ない

  • 「学校に慣れたら」

  • 「英語が落ち着いたら」

  • 「サッカーが一段落したら」

  • 「来年になったら」

  • 「Secondaryに入ったら」

そう考えているうちに、時間は過ぎていきます。そして子どもは成長します。小学3年生は小学4年生になり、小学4年生は小学5年生になります。日本語も、それに合わせて成長する必要があります。だからたくさんやる必要はありません。完璧にやる必要もありません。日本の学校と同じことをすべてやる必要もありません。でも、「日本語だけは来年から」と完全に止める前に、一度考えてみてほしいと思います。

来年になったとき、戻る場所は今と同じでしょうか。お子さま自身は一歳成長しています。同年代の日本語も一歳分成長しています。そして、日本語を再び生活に入れるための時間は、本当に増えているでしょうか。

日本語教育で大切なのは、一気に追いつくことではなく、本人の成長と一緒に、日本語も少しずつ前へ進ませておくことなのかもしれません。


参考資料

  • Kubota, M. et al. (2025), Modeling individual differences in vocabulary development: A large-scale study on Japanese heritage speakers, Child Development, 96(1), 325–340.

  • Mori, Y. & Calder, T. M. (2017), The Role of Parental Support and Family Variables in L1 and L2 Vocabulary Development of Japanese Heritage Language Students in the United States, Foreign Language Annals.

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在外のお子さまの日本語|「話せる」と「読める・書ける」は別の力

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前回までの記事で何度も取り上げてきた日本語継承語話者427人の研究でも、読書・作文・宿題などの日本語Literacy活動が、日本語能力に関係する重要な要素として示されています。 読むことが、書くことにもつながる ここも重要です。文章を書けるようにするため、「作文をたくさん書かせよう」と考えることがあります。もちろん書く練習は必要です。でも、書く前に、良い日本語をたくさん読むことも非常に重要です。 文章を読めば、「こういうときは『しかし』を使うんだ」、「理由を書くときは『なぜなら』なんだ」、「話が変わると段落が変わるんだ」、「こうやって人物の気持ちを表現するんだ」といった文章の型を、少しずつ取り込んでいきます。 2026年に発表された、9~15歳のバイリンガル児童の継承語としての英語の書く力を3年間追跡した研究でも、家庭での読書習慣がwritingの発達を支える重要な要素として報告されています。特に高いwriting能力を持つ子どもには、自主的な読書や継続的な家庭での読書経験が多く見られました。 対象言語は英語ですから、その結果をそのまま日本語へ当てはめることはできません。ただ、継承語の読み書きは、家庭でその言語を話しているだけで自動的に育つものではなく、文字に触れる活動が重要であるという点は、日本語教育を考えるうえでも非常に示唆的です。 「うちの子は日本語を話せるから大丈夫」が危険なのではない ここで誤解してほしくないことがあります。私は、「日本語を話せても読み書きできなければ意味がない」と言いたいわけではありません。会話できること自体、とても大きな力です。家庭によって、日本語をどこまで育てたいのかという目標も違います。海外に永住し、日本語は家族との会話ができれば十分、と考える家庭もあるでしょう。それも一つの選択です。 問題は、「話せるから、読み書きも必要になればすぐできるだろう」と錯覚してしまうことです。 話す力があることは大きな土台になります。でも、読む・書くためには、文字に触れ、読んで、書く経験が必ず必要なのです。 将来、日本語をどこで使うのかを考えてほしい では、日本語の読み書きをどこまで続けるべきなのでしょうか。これは、すべての家庭に同じ答えはありません。重要なのは、その子が将来、日本語をどのように使う可能性があるのかを考えることだと思います。 例えば、 日本へ帰国する可能性がある。 日本の中学・高校・大学へ進学する可能性がある。 日本で働く可能性がある。 日本の親族との関係を持ち続けたい。 将来、自分の子どもにも日本語を伝えたい。 日本の本やニュースを自分で読めるようにしたい。 そうした可能性が少しでもあるのであれば、「会話ができるから十分」で止めず、日本語を文字でも扱える状態を残しておくことには大きな意味があります。 反対に家庭として、「今後の教育・生活はすべて現地語で、日本語は家族との会話ができれば十分」と考えるのであれば、それも明確な教育方針です。 大切なのは、「気づかないうちに読み書きがなくなっていた」、ではなく、どのレベルの日本語を残すかを、家庭として意識的に選ぶことなのです。 漢字だけに焦点を当てすぎない 日本語の読み書きについて話すと、どうしても、「漢字を何文字覚えていますか?」という話になります。もちろん漢字は大切です。でも、漢字ドリルだけやっていても、読解力や文章力が自然に育つとは限りません。 例えば、「原因」という漢字を書ける。でも、「原因と結果の関係を説明してください」と言われたときに答えられない。それでは十分ではありません。逆に漢字を書くのは苦手でも、文章を読み、内容を理解し、自分の考えを日本語で説明できる。こちらには大きな力があります。 だから私は、日本語の読み書きを、「漢字が書けるか」だけで測らない方がいいと思っています。見るべきなのは、 文章を読めるか 意味を理解できるか 知らない言葉を前後から考えられるか 自分の考えを文章にできるか 相手に分かるように説明できるか という、もう少し広いLiteracyの力です。 読み書きも、いきなり100点を目指さなくていい 前回の記事でも書きましたが、日本語教育は0か100かで考える必要はありません。日本の学校と同じ量の漢字を毎日やる必要はないかもしれません。でも、週に一冊、日本語の本を読む、短い日記を書く、日本語でゲームをするなどの経験でも日本語を文字として使う回路を残すことができます。 大切なのは、日本語が「家族と話すための音」だけにならず、自分で情報を得て、自分の考えを伝えるための文字でもあり続けることだと思います。 読み書きができると、日本語の世界を自分で広げられる 私が、海外の子どもに日本語の読み書きを残してほしいと思う最大の理由は、漢字テストでいい点を取るためではありません。日本へ帰国したとき困らないためだけでもありません。 読み書きができれば、本人が親を介さずに、日本語の世界へアクセスできるからです。 自分で本を選ぶ 自分で検索する ニュースを読む 好きなアーティストの記事を読む 日本の人とメッセージする 大学について調べる 仕事を探す 契約書を読む そして自分の考えを文章で伝える そのとき日本語は、「親から受け継いだ家庭の言葉」から、「自分自身が使える言語」へ変わります。私は、これが読み書きの大きな意味だと思っています。 「日本語は大丈夫」の中身を、一度分解してみる お子さまが日本語で流暢に話していることは、とても大切な力です。でも、一度だけ、「日本語は大丈夫」という言葉を分解してみてください。 日本語を聞いて理解できる? 日本語で日常会話ができる? 知らない人にも出来事を説明できる? ひらがな・カタカナを読める? 書ける? 同年代向けの本を読める? 説明文を理解できる? 自分の考えを文章にできる? 理由や根拠を書ける? 全部できる必要はありません。家庭によって目標は違います。でも、どこまでできていて、どこから難しいのかを知っていることは、とても大切です。海外で育つ子どもの日本語は、「できる」「できない」の二択ではありません。読む、聞く、話す、書く力はそれぞれが違う速度で育ちます。 だから、「日本語を話しているから大丈夫」ではなく、「この子の日本語は、今どんな形で育っているだろう?」と見てみて、そこから、その家庭に本当に必要な日本語教育が見えてくるのではないかと思います。 参考資料 Kubota, M. & Rothman, J. (2025), Modeling individual differences in vocabulary development: A large-scale study on Japanese heritage speakers, Child Development, 96(1), 325–340. Nakamura, J. (2026), English as a Heritage Language in Japan: Writing Development From Late Childhood to Adolescence, Reading Research Quarterly. 花房香(2020)「読み書き能力の発達―就学前から小学2年生までの追跡研究―」 Takahashi, N. & Nakamura, T. (2015), Abilities needed by Japanese children to write kanji: Development of the ATLAN Kakitori subtest, The Japanese Journal of Psychology.

家では日本語なのに、兄弟の会話は現地語になる。家庭の言語は、親だけでは決まらない。

2026.09.03

家では日本語なのに、兄弟の会話は現地語になる。家庭の言語は、親だけでは決まらない。

海外で日本人家庭のお子さまたちを見ていると、とても興味深いことがあります。一人っ子の家庭と、兄弟姉妹がいる家庭では、日本語の使われ方がかなり違うことがあるのです。 例えば、オランダで暮らしているある家庭。親は日本人で、子どもには日本語で話しかけています。親から子へは日本語。子どもから親へも、基本的には日本語。 一見すると、「家では日本語を使っている家庭」です。ところが、兄弟姉妹だけになると突然、オランダ語もしくは英語になる。そんな家庭を、教室を運営しているとよく見ます。特に兄弟姉妹が2人、3人といる家庭では、親と話すときは日本語。でも子ども同士ではオランダ語もしくは英語。という言語の使い分けが、いつの間にか定着していることがあります。 そして、少し気になるケースもあります。上の子どもたちは日本語でも親と話せる。でも一番下のお子さまは、兄や姉から入ってくる言葉の多くがオランダ語になり、日本語で自分の考えを十分に表現することが難しくなっている。親は日本語で話しているのに、子どもはオランダ語で返す。さらに日本語での理解も少しずつ難しくなり、親子のコミュニケーションそのものに言語の壁が生まれている。そんなケースを見ることもあります。 もちろん、これはすべての多言語家庭に起こることではありません。でも、家庭の言語は、親が何語で子どもに話しているかだけでは決まらない。ということは、海外で子どもを育てるうえで知っておいてほしいと思います。 なぜ兄弟姉妹は、現地語で話すようになるのか 考えてみれば、とても自然なことです。子どもたちは一日の多くを学校で過ごします。私達の住むオランダだと、 学校ではオランダ語。 先生との会話もオランダ語。 友達との会話もオランダ語。 休み時間もオランダ語。 遊びで使う言葉もオランダ語。 スポーツクラブでもオランダ語。 YouTubeやゲームでもオランダ語や英語。 そうなると、子どもにとってオランダ語は、学校で勉強するためだけの言葉ではなく、子ども同士で生活するための言葉になっていきます。その状態で兄弟姉妹が家に帰ってきます。 学校で起きたことを話す。 ゲームの話をする。 一緒に遊ぶ。 けんかする。 冗談を言う。 親に聞かれたくない話をする。 そうした「子ども同士の世界」は、学校と同じオランダ語もしくは英語の方が自然になっていきます。親が、「家では日本語で話しなさい」と言ったとしても、子どもにとっては、「どうして?」となるかもしれません。 学校ではずっとオランダ語(英語)を使っている。友達ともオランダ語(英語)。兄弟姉妹も同じ学校文化の中にいる。そう考えると、兄弟姉妹の会話が現地語になること自体は、とても自然な言語選択です。 実は、研究でも兄弟姉妹の言語は重要視されている 家庭の言語というと、「母親が何語で話すか」「父親が何語で話すか」が注目されがちです。しかし近年のFamily Language Policy、つまり「家庭内言語方針」の研究では、兄弟姉妹の存在も重要な要素として扱われています。 2024年に発表された多言語家庭と言語維持についての研究レビューでは、過去の研究として、子どものその後の言語使用に影響する要素の中に、兄弟姉妹間で使われる言語が含まれていることが紹介されています。 あるカナダの研究では、兄弟姉妹同士で使う言語、少数言語での読み書き、親同士が使う言語などが、子どもの将来的な言語使用と強く関係する要素として示されています。つまり、 親→子 だけを見ていては、家庭内の言語環境を十分に理解できないということです。 子→子 兄→弟 姉→妹 この言語も非常に重要なのです。 最初の子と、末っ子では「日本語環境」が違う これは私自身、教室で子どもたちを見ていて特に興味深いと感じる部分です。例えば、3人兄弟の家庭を考えてみます。一番上の子どもが生まれたとき。家には、父親と母親と赤ちゃんしかいません。 親が日本語を使っていれば、その子に入ってくる家庭内の言葉の大部分は日本語です。ところが、5年後に3人目が生まれたとします。家庭には、父親、母親、兄、姉、末っ子がいます。 親は末っ子に日本語で話している。でも兄と姉はオランダ語で話している。兄と姉が末っ子に話しかけるときもオランダ語。兄姉が遊んでいるのを横で聞く言葉もオランダ語。すると、同じ家庭に生まれた兄弟であっても、一番上の子と一番下の子では、幼少期に家庭の中で耳にする言語の割合が全く違うということが起こります。 親は同じです。家庭教育方針も同じ。「家では日本語を話している」という認識も同じ。でも実際の言語環境は変わっています。ここは、多子家庭では意外と見落とされやすいところだと思います。 上の子が、現地語を家庭へ持ち込む 第一子が学校へ通い始めると、家庭にはそれまでなかった大量の言葉が入ってきます。オランダ語(英語)です。 「今日、先生がこう言った」 「○○ってどういう意味?」 「学校ではこう言うんだよ」 といった形で入ってくるだけではありません。 遊びのルール 流行している言葉 友達との冗談 歌 ゲーム 学校文化そのものを、上の子が家庭へ持ち帰ります。 そして弟や妹にとっては、親だけでなく、兄や姉も重要な言語モデルです。兄や姉がオランダ語を使えば、弟や妹にとってオランダ語を覚える機会はさらに増えます。 これは悪いことではありません。むしろ、現地社会で生活するためには非常に自然で、必要なことです。問題は、それと同時に、日本語に触れる割合が相対的に減っているということに家庭が気づいているかどうかです。 親が日本語を話しているだけでは、日本語量が足りなくなることがある 例えば、子どもが起きている時間を考えてみましょう。 学校で6時間 放課後の友達や習い事で2時間 兄弟姉妹との遊びで2時間 YouTubeやゲームで1時間 親と話す時間が2〜3時間 実際にはもっと複雑でしょうが、親だけが日本語を使い、それ以外の時間の多くがオランダ語や英語になれば、家庭で日本語を使っているつもりでも、子どもが一日に受け取る言語全体では日本語が少数派になっている可能性があります。 さらに、前回の記事でも書いたように、日本語は「自分に話しかけられた日本語」だけから学ぶものではありません。 周囲で誰かが話している言葉 兄弟がけんかしている言葉 家族が冗談を言っている言葉 誰かが説明している言葉 そういった「横から聞こえてくる日本語」も、日本で暮らしている子どもには大量に入ってきます。ところが兄弟姉妹間まで現地語になると、家庭の中で偶然耳にする日本語まで減っていきます。これは意外に大きな変化です。 子どもは、親の「言語方針」に必ず従うわけではない ここも重要です。家庭では、「家の中では日本語」と親が決めることがあります。でも、実際に言語を使うのは子ども自身です。 多言語家庭を研究した研究でも、子どもたちは受動的に親の言語方針に従っているだけではなく、自分でどの言語を使うかを選び、家族の言語習慣そのものに影響を与える存在だとされています。 これは、教室で子どもたちを見ていても非常によく分かります。親が日本語で、「今日は学校どうだった?」と聞く。子どもがオランダ語(英語)で答える。親はオランダ語(英語)が分かるので、そのままオランダ語(英語)で返す。それを毎日繰り返していると、いつの間にか親子の会話までオランダ語(英語)になる。 最初から、「今日から家ではオランダ語(英語)にしよう」と家族会議で決めたわけではありません。少しずつ、便利な方の言語へ流れていきます。家庭の言語は、このようにして変化していくことがあります。 「分かるけど話せない」が始まる 継承語としての日本語でよく見られるのが、「日本語は分かるけれど、日本語では答えない」という状態です。 親:「今日学校で何したの?」 子ども:「We gingen vandaag naar…」 親は意味が分かるので、「そうなんだ」と返す。 会話自体は成立しています。だから大きな問題に見えません。ところが、この状態が何年も続くと、子どもは日本語を聞いて理解する経験は続けていても、自分で日本語の文章を組み立てる経験が少なくなっていきます。 すると、「言っていることは分かる」でも、「自分では日本語で説明できない」という差が生まれてきます。さらに日本語で話そうとすると、「あれ」、「それ」、「なんか」などの抽象的な表現が増えていくことがあります。 頭の中に考えはあります。でも、それを日本語にするための言葉がすぐに出てこない。以前書いた「日本語の解像度」が少しずつ低くなっている状態とも言えます。 一番下の子ほど注意して見てほしい 教室で兄弟姉妹のいる家庭を見ていると、私は特に末っ子のお子さまの言語環境を気にすることがあります。 上の子は、日本語だけの家庭環境を比較的長く経験している。一方、下の子は、生まれたときから家庭に現地語を話す兄姉がいる。つまり、同じ家庭でも、日本語に触れてきた条件が違うからです。 もちろん、下のお子さまの方が日本語が弱くなると決まっているわけではありません。家庭の方針や祖父母との交流、日本語の本や日本人の友達、補習校や日本語教室など、さまざまな要因があります。 それでも、「上の子が日本語を話せているから、下の子も大丈夫だろう」と自動的に考えない方がいいと思います。兄弟ごとに言語環境をみることが重要です。 では、兄弟には日本語だけで話させるべき? ここで、「では兄弟同士も日本語だけにした方がいいのでしょうか?」という疑問が出てきます。 私は、単純に「オランダ語は禁止」とは考えません。子どもにとってオランダ語(英語)は、自分の学校生活や友人関係と結びついた大切な言語です。それを家庭で否定すると、「日本語=親から強制されるもの」になってしまう可能性があります。また、子ども同士の自然なコミュニケーションまで親が常に管理するのは現実的ではありません。 多言語家庭の研究でも、家庭の言語維持には親の方針だけではなく、子ども自身の態度や家族関係、社会の言語環境など複数の要因が影響します。だから私は、「何語を禁止するか」より、「日本語を使う必要がある場面をどう増やすか」と考えた方がよいと思っています。 日本語を「使わなければならない状況」をつくる 親は子どものオランダ語(英語)を理解できる、兄弟もオランダ語(英語)を理解できる、学校もオランダ語(英語)、そうなると子どもの立場から見れば、日本語を使わなくても生活できるのです。 言語は、必要がなければ使われなくなります。だから、日本語を育てたいのであれば、「日本語を勉強しなさい」だけではなく、日本語を使う意味のある場面をつくることが重要だと思います。例えば、 日本の祖父母と話す 日本にいるいとこと話す 日本人の友達と遊ぶ 日本語の本について兄弟で話す 日本語の映画を見る 日本へ一時帰国する 日本語でゲームをする 兄弟で日本語のクイズをする 家族で日本のニュースについて話す こうした機会です。「日本語を使うこと」そのものを目的にするのではなく、日本語を使って何か面白いことをするという状態をつくる方が自然ではないでしょうか。 兄弟姉妹がいることは、逆に大きな強みにもなる ここまで読むと、「兄弟がいると日本語維持には不利なのか」と思われるかもしれません。むしろ逆で、兄弟姉妹は家庭の中で日本語を使える最も身近な仲間にもなりえます。 一人っ子の場合、日本語を話す相手が親だけということがあります。兄弟がいれば、一緒に遊んだり、秘密を話したり、けんかしたり、相談し、冗談を言う仲間になり、非常に豊かな言語経験を家庭の中で作ることができます。 重要なのは、その関係が現地語だけで固定される前に、日本語でも兄弟同士の経験を積ませておくことではないでしょうか。 幼い頃から、日本語の絵本を一緒に読む、日本語でごっこ遊びをする、日本の祖父母と兄弟一緒に話す、日本へ行ったときに、日本語で一緒に遊ぶ、などの経験があれば、「日本語=親と話すためだけの言葉」ではなくなり、兄弟姉妹の言葉にもなります。 家庭言語は「自然に残るもの」ではない 海外に住んでいると、「親が日本人なのだから、日本語は自然に残るだろう」と思ってしまうことがあります。でも実際には、社会には非常に強い多数派言語があります。 オランダに住めばオランダ語。 英国なら英語。 フランスならフランス語。 子どもは学校へ行き、友達をつくり、その社会で生活します。当然、多数派言語の力は年齢とともに強くなります。 2024年の多言語家庭に関する研究でも、家庭言語の維持について、親から子への言語伝達だけではなく、学校や社会の言語環境、兄弟姉妹の言語使用などが複雑に関係することが整理されています。 つまり、日本語は、家に日本人の親がいるだけで自動的に維持されるものではありません。少し意識して環境をつくらないと、多数派言語へ少しずつ置き換わっていくことがあります。 日本語を守るというより、「家庭に日本語が存在する場所を残す」 私は、「家庭では絶対に日本語だけ」という厳しいルールがすべての家庭に必要だとは思いません。それぞれの家庭には事情があります。 両親の言語 子どもの年齢 学校 帰国予定 本人の性格 兄弟構成 日本語を将来どこまで必要とするのか。 すべて違います。 でも、日本語を将来も使える言語として残したいのであれば、一度、家庭の中を観察してみてください。 兄から弟へは? 姉から妹へは? 子どもたちだけになった瞬間、何語になりますか? 食事中は? ゲーム中は? けんかするときは? 感情的になったときは? そこを見ると、家庭の本当の言語環境が見えてきます。 「私たちは家では日本語です」と思っていたけれど、よく見てみたら日本語が使われているのは親子間だけだった。ということもあるかもしれません。 それ自体が悪いわけではありません。重要なのは、それを家庭が把握したうえで、将来の日本語をどうしたいかを選択することだと思います。 兄弟姉妹の言葉は、家庭の未来の言葉になる 兄弟姉妹は、親より長く一緒に生きていく可能性があります。子どもの頃、兄弟同士でどの言語を使っていたか、大人になったとき、どの言語で話すのか、そしてその先、自分たちの子どもに何語を伝えるのか。 家庭言語は、親から子へ一方向に受け継がれるものではありません。兄弟姉妹の間でも作られていきます。 だから私は、教室におこしになるご家庭に、「お子さまに何語で話しかけていますか?」だけではなく、「お子さまたちは、兄弟姉妹で何語を話していますか?」を伺うようにしています。 そこには、家庭の日本語環境を考えるうえで、とても重要なヒントが隠れているかもしれません。 参考資料 Pagé & Noels (2024), Family language policy retention across generations: childhood language policies, multilingualism experiences, and future language policies in multilingual emerging Canadian adults Slavkov (2017), Family language policy and school language choice: pathways to bilingualism and multilingualism in a Canadian context Said & Zhu (2019), Children’s agency in language use and socialisation, International Journal of Bilingualism Barron-Hauwaert (2011), Bilingual Siblings: Language Use in Families